波、ひとつ
ひと晩、〈凪の家〉では、何も起こらなかった。
それが、いちばん恐ろしかった。
夜が明けても、人々は波ひとつない顔で、白い廊下をゆっくりと行き来していた。誰も急がない。誰も言い争わない。誰も、何かを欲しがらない。差し出される白い粥を、ただ受け取り、ただ食べ、ただ穏やかに微笑む。明日のことも、昨日のことも、口にする者はいなかった。
(……ひと晩で確かめる、などと申しましたけれど)ミトは、白い長椅子の上でこっそりと腰の位置をずらした。(正直に申せば、お尻は痛うございますし、砂が乾いて肌はがさがさ。湯浴みのひとつも、させてほしいところですわ。――帰ったらロウに、いちばん値の張る化粧水を十本は買わせて差し上げますからね。覚えておきなさいまし)
その俗な恨み言だけが、この凪いだ館のなかで、彼女が唯一まだ人間である証だった。
カクとスケは、廊下の隅で、何度も懐の箱に手を伸ばしては、互いに目配せして引っ込めていた。
「……スケよ。ここにおると、だんだんわしまで、何も決めとうなくなってくる。粥は白い、それでよい、と」
「カクよ。それがいちばん、おそろしいのだ。――ほれ、また手が伸びとるぞ。引っ込めい」
* * *
昼を過ぎた頃、シメオンが、一枚の証文を手にミトの前に現れた。
たっぷりと墨を吸った、上等の羊皮紙。流麗な筆で、こう記されている。――「我、ここに選ぶ煩いの一切を、館に委ねることを、望む」。
ミトは、その紙を知っていた。かたちは違う。けれど、これはあの紙だ。本国でオズヴァルトが突きつけた「紙の刃」。あれを、もっと優しく、もっと甘く研ぎ澄ましたもの。
「署名は、強いません」シメオンは、慈しむように言った。「望む者だけが、書く。書けばもう二度と、恐怖も、選ぶ責めも、味わわずに済む。……今日も、何人かが望みましたよ」
彼は、ミトに羽根ペンをそっと差し出した。
「ミト嬢。あなたは、わたくしの問いにまだお答えになっていない。昨日の――『選べぬ弱き者に、何をしてやれるのか』に。……ならば、いっそおやりになればよい。そこまで自由が善いものなら、あの子たちにお命じなさい。『自由になれ』と。あなたが命じれば、あの子たちは喜んで従いますよ。――おや。お命じには、なれませんか?」
罠だ、とミトにはわかった。
命じれば――彼女は、子供たちが新たにひれ伏すべき、ただの「強い誰か」に成り下がる。決めてくれる、新しい賽に。それは、シメオンの言葉が何もかも正しかったと、自ら証してみせることだった。
* * *
ロウの手が、動いた。
ペンではなく――彼は、シメオンの手から証文を奪い取り、引き裂こうとした。法が噛まぬなら、力で。この甘い紙を、白い壁ごと引き倒してでも。眼鏡の奥が、冷たく燃えていた。
「おやめなさい、ロウ」
ミトの手が、すいとロウの腕を押しとどめた。
「ミト……!」ロウの声が、めずらしく掠れた。「なぜ、止める。この檻は、壊せる。今すぐにでも――」
「壊しても」ミトは、静かに首を振った。「力ずくで檻を壊せば、外へ出された人は、また次の檻を探すだけ。……それでは、何も変わりませんわ」
ミトは、シメオンに向き直った。差し出された羽根ペンを、受け取らなかった。
「シメオン。昨日のお問い。『選べぬ弱き者に、何をしてやれるのか』。……ひと晩、考えましてよ」
彼女は、扇を静かに閉じた。
「答えは、『何も』ですわ」
シメオンの目が、おだやかに細まる。
「ええ、何も。わたくしは、あの方たちの代わりには、何ひとつ決めません。『自由になれ』とも申しません。命じれば、わたくしはあなたと同じ。新しい賽になるだけ。――ですから、わたくしはただ」
ミトは、その場に腰を下ろした。砂と埃に汚れた、旅衣のまま。白い群れの、すぐ傍に。
「待ちます。あの方たちが、ご自分の足で、ご自分の重荷を拾い上げるまで。命じも、せかしもいたしません。ただ、隣で。いつまででも」
* * *
しんとした、長い沈黙が、館を満たした。
シメオンは、咎めなかった。むしろ、いたわしげにミトを見下ろしていた。待つがいい、何日でも、と、その目は言っていた。あの子たちは、もう選ばない。選ぶ心など、とうに抜いてしまったのだから。波は、立たぬ。
時が、流れた。
白い顔の群れは、揺れなかった。誰も証文に近づかず、誰もミトに近づかなかった。アデルは、穏やかに微笑んだまま、遠くから不思議そうに、座り込んだミトを眺めていた。なぜそんなにつらそうにしているのかしら、とでも言うように。
ミトは、動かなかった。ただ、待った。
その長い沈黙の底で。
ミトの目が、ふと、ひとつの手の上で止まった。
ベルント。証文の置かれた卓のすぐ脇に、彼は身を硬くして立っていた。署名するでも、逃げるでもなく、ただ立っていた。――けれど、その指が。墨に汚れた若い番頭の指が。
誰に言われたわけでもなく、本人すら気づかぬまま、卓の上で乱れ重なった証文の端を、そっとまっすぐに揃えていた。三十年帳簿を締めてきた老家令と、寸分たがわぬ手つきで。
(……ああ。まだ生きておりますわね)ミトの胸の奥で、何かが静かに灯った。
彼女はそれを指ささなかった。声もかけなかった。ただその手を見つめて、待った。
ベルントの指が止まった。自分の手が何をしていたか、ようやく気づいたように。
「……ぼ、ぼくは」
声が震えていた。みっともなく掠れて、消え入りそうだった。彼は羽根ペンを見た。証文を見た。あの日、承認の儀で、恐怖のあまり何も選べず立ちすくんだ自分自身を見るように。
涙がひと粒、墨で汚れた指の甲に落ちた。
「ぼくは……もう。……いいえ。ぼくはこの紙には……署名、しません」
胸を張るでも、誰かを救うでもなかった。ただひとりの怯えた若者が、生まれて初めて自分の口で、自分のために選び取った、小さく不格好な――「いいえ」だった。
* * *
ミトは、ゆっくりと立ち上がった。
そしてシメオンには目もくれず、勝ったとも言わず、ただ震えているベルントの前へ歩み寄って、その怯えた目をまっすぐに見た。承認の儀の日、恐怖で動けなかった彼を、一個の人間として静かに認めた、あの目で。
「立派である必要なんて、ございませんのよ」と、彼女はそっと、ほとんど囁くように言った。「選ぶというのは、本当はそれだけのこと。英雄のものでも、強い人のものでもない。――もっと小さく、ただ怖いだけの。あなたがたった今、なさったような」
ベルントの顔が、くしゃりと歪んだ。
波が、ひとつ、立った。凪いでいた館の、白い水面に。たった、ひとつ。
それきりだった。ほかの誰も動かなかった。白い顔の群れは、相変わらず穏やかに微笑んでいる。アデルも、証文の前から動かない。彼女の選びは、まだ変わらなかった。〈凪の家〉は、壊れなかった。
ただ――その白い水面に立った、たった一滴の波紋を、シメオンは長いあいだ見つめていた。
その白磁の顔に、初めて、ほんのわずか、ひびのような影が差す。けれどそれは、怒りでも、敗北でもなかった。彼は、静かに懐から一通の書状を取り出すと、そこに何かを書きつけた。
「……ひとつ、ほころびました」その声は、もうミトに向けられてはいなかった。ここにはいない、もっと高い場所にいる誰かへの、報告のようだった。「やはり、根は深い。完全には、抜けきらぬ。――この〈凪の家〉は、まだためしの一軒。これを大陸じゅうに広げる前に、お伝えせねば。あの、お方に」
ミトの背筋を、冷たいものが走った。
(……あのお方。これを、大陸じゅうに。――この館は、ひとりの聖者の慈悲などではない。もっと大きな、誰かの。「思考を抜いた、従順な民」を作ろうとする、誰かの――雛形)
本国で見た、オズヴァルトの「人を数字と名簿で扱う統治」。あれの、純化された果てが、この白い無菌の館だった。そして、その糸を引く者は、まだ影のなかにいた。
* * *
ミトは、ベルントの背に、そっと手を添えた。
「……外は、暑うございますわよ」と、いつもの調子で言った。「砂で、肌も荒れますし。覚悟は、よろしくて?」
ベルントは、涙でぐしゃぐしゃの顔で、けれど、こくりとひとつ頷いた。
白い扉を抜けて、砂混じりの、けれど自由な風の下へ二人が出ると、その日陰に、ゴーシュが立っていた。あのすり減った徴税吏が。腕を組み、苦々しい顔で、けれど最後まで、この場を立ち去らずに。
彼はミトと、その隣で泣いている若者を、しばらく黙って見ていた。それから、ふんと鼻を鳴らす。
「……今度は」ゴーシュは、ぶっきらぼうに目をそらして言った。「今度は、まだおるんだな。あんた」
「ええ」ミトは微笑んだ。「今度は、まだおりますわ」
凪は、破れなかった。たった一滴の波が、立っただけ。けれど、その一滴が、白い水面の嘘を暴いた。
砂の国に、ひとつ灯がともり――そして、もっと大きな影が、その向こうで静かに身じろぎした。




