自由という名の流刑
その白い扉の前で、こらえ性のないのが、二人いた。
「――きたなッ、薄気味の悪い手合いが!」スケの手が、長年の癖で、懐の漆箱へ伸びる。「こういうのは、やはりアレよ、カクよ! 賽の領主のときと同じ。ガツンと格を見せて、目を覚まさせてやらねば!」
「おうとも!」
止める間もなかった。スケが箱を開け、カクが、一点の曇りもない紋章器を高々と掲げた。
「ええい頭が高い! こちらにおわすお方をどなたと心得る! 建国の元勲、世界最大の財をもって鳴る、ヴァルハイト公爵家がご令嬢――!」
シメオンは、平伏しなかった。
それどころか、彼は掲げられた紋章を、心から愛おしいものでも見るような目で、しばらく見つめた。そして、ゆっくりと、館の奥の子供たちのほうを振り返る。
「ご覧なさい」その声は、咎める色ひとつなく、どこまでも優しかった。「我が家の子供たち。また、お一人。新しい賽を手にした客人が、いらっしゃいましたよ。『これにひれ伏せ、わたしに従え』と。……ねえ。わたくしと、この方々と、いったい何が違うのでしょうね」
カクの口上が、途中で止まった。
掲げた腕の先で、いつもは誇らしいはずの紋章が、急にひどく座りの悪いものに見えた。スケの喉が、ごくりと鳴る。カクの腕が、小刻みに震えはじめる。――出すのではなかった。ここでこれを掲げて人を平伏させることが、いったい何を認めることになるのか。二人の顔から、みるみる血の気が引いていった。
そして、二人は。
誰に命じられたわけでもなく。「およしなさい」と止められたわけでもなく。ただ、自分たちの手で、そっと漆の箱の蓋を閉じた。かちり、と乾いた音がひとつ。
「……スケよ」カクが、青い顔で低く呻いた。「アレが、抜けん。掲げる先が、ない。腕だけが、宙ぶらりんだ」
「カクよ。箱んなかで、アレが暴れておるわ。出してくれ、出してくれと。……今日ばかりは、出したら負けだ」
二人は観念したように、閉じた箱の上をぽんと一度だけ叩いて、宥めた。
* * *
〈凪の家〉のなかは、外の砂の世界が嘘のように、白く、涼しく、静かだった。塵ひとつない。諍いの声ひとつ、ない。穏やかな顔の人々が、思い思いに身を横たえ、あるいはただ、ぼんやりと座っている。
(……ここには、なんの匂いもありませんわ)ミトは、扇の陰でそっと眉をひそめた。(人の暮らすところには、必ずあるはずの。煮炊きの、汗の、諍いの――その日その日を、自分の手で生きている、あの匂いが。何ひとつ、ない)
その白い静けさのなかに、見覚えのある顔があった。
「……アデル」
女学院で「自由は怖い」と檻に残った、あの目立たぬ令嬢。彼女はミトを認めると、おっとりと微笑んだ。怯えも、恥じらいも、何ひとつない、凪いだ笑みだった。
「まあ。ヴァルハイトのお嬢様。こんなところまで」アデルは、嬉しそうに小首をかしげた。「ここは、いいところですわ。もう、自分で値をつけなくて済むのですもの。誰かに測ってもらえる。それがこんなにも楽だなんて、わたくし、ここへ来るまで知りませんでしたの」
ミトは、何か言いかけて、その言葉を呑んだ。
アデルの斜め後ろに、もうひとり。本国の承認の儀で、恐怖のあまり「選ばない」を選んでしまった、若い番頭ベルント。彼はミトと目が合うと、びくりと肩を震わせ、そして、そっと目を伏せた。何も言わなかった。
* * *
「お疑いでしょう」シメオンが、ミトの傍らに音もなく立った。「正直に申しましょうね。わたくしはあの子たちの奥から――『選びたい』という欲求そのものを、取り除いて差し上げたのです。重荷を肩代わりしたのではない。欲しがる心を、根こそぎ。あの子たちはもう、選ぶことを欲してすらいない。……ご覧のとおり、波ひとつ、ない」
ロウは、それまで黙って、室内を何かを探すように見渡していた。台帳はないか。証文はないか。突くべき綻びの、契約の一行は、ないか。
やがて彼は、眼鏡の縁に指をやって、ひとこと平坦に言った。
「……穴が、ひとつもありません」その声には、いつもの皮肉の温度すらなかった。「ここには、欺きも、強いも、ない。皆、自ら望んで、ここにいる。これは法ではなく、同意です。同意は――私の刃が噛む種類のものでは、ございません」
短い沈黙が、落ちた。
ミトは、その沈黙のなかで、ゆっくりと扇を開いた。そしてシメオンには答えず、広間じゅうの、白い顔の群れのほうへ、よく通る声を向ける。
「皆さま。ひとつだけ申し上げますわ。――このお方の『慈悲』とやら、たいそう美しゅうございますが、よくよく見れば、ずいぶんと安いお化粧ですのよ」
シメオンの、慈愛の眉が、わずかに動いた。
「ロウ。この白磁も、この涼しさも、毎日配られる白いお粥も。――いったい、どなたのお財布から出ておりますの?」
「とうに、辿りました」ロウが、懐から一枚の写しを抜く。声は、平坦なまま。「館を維持する魔導具の冷却費。穀物。白磁の意匠。その金は、この国の外から流れています。サディラの両替商を経由した、出どころを隠した、迂回の融資だ。……この『無菌室』は、慈悲ではない。誰かが金を出して、買っているのですよ」
「……金で、買われた慈悲」ミトは、その言葉をつまみ上げるように繰り返した。そして、扇の先を、すいとシメオンの胸元へ向ける。
「シメオンとやら。あなたは、人さまの欲を抜いて、波ひとつない綺麗な水面をこしらえた。ご立派なことですわ。けれど――その水面の下に、何がございますの? 空っぽですわ。中身のない器を、よそ様のお金で磨いて、『慈悲』と値札を貼っただけ。それは、わたくしの一番嫌いな言葉で申し上げると――」
ぱちん、と、扇が鳴った。
「ただの、『高いゴミ』ですわ」
しん、と、館が静まった。
白い顔の群れの幾人かが、生まれて初めて見るものを見るように、ぼんやりとミトとシメオンを交互に見た。波ひとつなかった水面に、訝しさという、ごく小さなさざ波がよぎる。
シメオンの白磁の頬に、初めて、ひびのような影が差した。
けれど彼は、すぐに慈愛の仮面を被り直した。
「……お見事な、啖呵ですこと」彼は、静かに切り返した。「あなたの目は、本物だ。よその金で磨いた器の、その下の空疎まで見抜いておしまいになる。さすが、ヴァルハイトの目利き。――けれど、ミト嬢」
彼の声が、初めて、ほんのわずか悲しげに沈んだ。
「言葉では、人は救えませんよ。あなたは各国を巡り、立派な者たちを『本物』と讃えてこられた。砂漠で立ち上がったナーラ。泥を掘ったジン。火傷の手で硝子を彫った、リーザ。……ええ、皆、見事です。けれど、あの者たちは皆、過酷に耐えられた。選ぶ強さを、たまたま持って生まれた者たちだ。では――持たなかった者は? アデルは。ベルントは。選べと言われて、ただ立ちすくむことしかできなかった者は」
シメオンは、責めなかった。ただ、痛ましいものを見るようにミトを見た。
「あなたは、その者たちをどうなさいました。『自分で決めよ』と説いて、決められぬまま置き去りになさったのでは? ……その値踏みの目で。選べぬという弱さを、ミト嬢、あなたは――裁けるのですか」
* * *
館のなかが、しんと静まった。
ミトは、すぐには答えなかった。やがて扇を、そっと下ろす。完璧な仮面ではなく、素の顔で。
「……ええ」と彼女は静かに言った。「わたくしは確かに、選べた者ばかりを『本物』と呼んでまいりました。アデルに声をかけて、首を横に振られて、それきりあの子を救えなかった。……あなたの仰るとおりですわ」
「では」シメオンが、優しく問いを重ねた。「その選べぬ弱き者に。あなたはいったい、何をしてやれるのです」
ミトの唇が、開きかけた。
いつもの、気品に満ちた一言が。鏡の国でも、礼の門でも、氷の領でも、必ず最後に彼女を勝たせてきた、あの決めの一言が。喉のすぐ手前まで来て――
そこで、つかえた。
出てこなかった。何ひとつ。
ぱちりと鳴るはずの扇が、彼女の手のなかで、ぴたりと止まったまま、動かなかった。
* * *
シメオンは、勝ち誇りもせず、ただ深く、いたわるように頷いた。
「無理をなさらないで。……答えは、急ぐものではございません」彼は、館の奥の、もう一枚の白い扉へと手を差し伸べた。「よろしければ、明日。あの子たちの、なんでもない一日を、ご覧に入れましょう。そのうえで、もう一度お考えになればよい」
ミトは、止まった扇を握りしめた。
帰る、という道が、すぐ後ろにあった。砂を抜け、馬車に乗り、次の国へ。第一幕の彼女なら、そうしたかもしれない。
「……ひと晩」掠れかけた声を、彼女は立て直した。「ひと晩、こちらに置いていただけますか。逃げも、隠れもいたしません。――この目で、確かめとうございますの」
白磁の聖者は、慈愛に満ちた笑みで、深々と頭を下げた。
「ようこそ、〈凪の家〉へ」
凪は、まだ答えを持たぬミトを、静かに、その白い腕に抱き込もうとしていた。




