凪ぐ国
砂の匂いが、戻ってきた。
「スケよ」御者台のカクが、隣の相棒を肘で小突いた。「見ろ、関所だ。久々のお国入りだぞ。お嬢様の『アレ』を、ひとつドカンと――」
「待て待てカクよ、まだ箱を撫でるな。役人がおらん」
なるほど、関所には、賽を振る気楽な役人の姿がなかった。代わりに、中年の農夫が数人、一冊の帳面を囲んで額を突き合わせ、汗をかいている。馬車を認めると、彼らはすがるように駆け寄ってきた。
「ヴァルハイトの、お嬢様……! どうかお決めくだせえ! ゴーシュ様の税則に雨期の特例がなくて、通行料をいくら取りゃいいのか、わしらにはてんで……!」
ミトは窓から帳面を覗き込んだ。几帳面な筆で、隙のない税率が細かく刻まれている。決められぬのは、帳面が足りないからではなかった。
「お断りいたしますわ」彼女は扇の先で、ぱちんと帳面を弾いた。「雨期の通行料は、あなた方でお決めなさいな。あなた方の道でしょう?」
「え、ええっ!? わ、わしらが、決める……!?」農夫たちは、まるで重い荷を背に乗せられたように、その場で青ざめて立ちすくんだ。
「制度の賽は、消えました」向かいの席で、ロウ・タハライトが税法の頁から顔も上げずに言う。「が、頭のなかの賽は消えていない。彼らは出目という外注先を失って、今度は別の外注先を探しているだけです。ゴーシュという男を。あるいは、あなたを」
「……簡単には、いきませんわね」ミトは農夫に帳面を返し、眉をひそめた。
* * *
馬車が都の大路へ入ると、その奇妙な静けさが、もっとはっきりと牙を剥いた。
かつて賽の出目に一喜一憂し、罵り、笑い、騒がしかった広場が、嘘のように凪いでいた。人々は穏やかな顔で、波ひとつ立てず、一様に同じ方へ歩いていく。その先にあるのは、広場の中央に新しく築かれた、白磁の意匠を凝らした美しい館。傷ひとつなく、ただ静かに白い。門の上に、慎ましやかな額が掲げられている。
――〈凪の家〉と。
その白い館の影から、ひとりの男が、肩を激しく上下させながら、よろめき出てきた。
最初、ミトはそれが誰だかわからなかった。徴税吏ゴーシュ。あの打算と諦めを綯い交ぜにした目で、帳簿を閉じていた男。それが今、両の目を真っ赤に血走らせ、霜焼けの指を震わせ、幾晩も眠っていない亡霊のような顔で立っていた。
「……ヴァルハイトの、お嬢様」掠れた声だった。「よくものうのうと、戻ってこられたな」
カクが気色ばんで御者台から降りかけたのを、ミトは扇ですいと制した。
「ゴーシュ。久しいこと」
「久しい、か」ゴーシュはひび割れた唇を歪めた。「あんたはあの日、綺麗に放して、譲った。立派でしたよ。満場の喝采だ。――だがな」
彼の声が、堰を切った。
「賽を取り上げられたこの国で、毎日、血の滲むような決め事を下しているのは、わしだ。年貢を、刑を、水の割り当てを。誰も決めとうないから、ぜんぶわしに回ってくる。決めれば恨まれ、決めねば国が止まる。その重みで、わしは毎晩、厠で吐いておる。あんたが置いていった、その『正しさ』とやらの重さでな!」
血を吐くような声が、凪いだ広場に、ひとり響いた。
「自分で決められぬ者どもの、あの目を。『誰か、わしの代わりに決めてくれ』という、あの底なしの目を、毎日真正面から浴びておるのは、わしなんだ。あんたは正しいものを置いて、さっさと次の国へ消えた。世直し? 笑わせる。あれはただの――『是正という名の引き逃げ』だ!」
ミトは、言葉を返さなかった。
気品に満ちた一言が、喉の手前まで来て、つかえて、出てこない。彼女はただ、ゴーシュの真っ赤な目をまっすぐに受け止めて、黙っていた。
その沈黙を、ロウが静かに拾った。
「ゴーシュ殿」眼鏡の奥の目が、刃ではなく、まっすぐに彼を見据える。「もし、あの日ミト様がこの国に残り、あなたの上に立ってすべてを決め続けていたなら。あなたは今日まで、ただの一度も吐かずに済んでいたでしょう。――己の決定の重さを、生涯、知らぬまま」
ゴーシュの喉が、ぐ、と鳴った。
ロウはそれ以上、言わなかった。毎晩厠で吐きながら、それでも今日も誰かの代わりに決め、その咎を一身に浴びて立つ。そのすり減ってみすぼらしい男の背中だけが、凪いだこの広場で、ただひとつまっすぐに立っていた。ゴーシュ自身は、それに気づいていない。
ミトは、ゆっくりと馬車を降りた。
砂の上に、旅衣のまま降り立つ。そしてゴーシュの傍らへ歩み寄ると、彼の隣に並んで立った。
「ゴーシュ」と彼女は静かに言った。「今度は、すぐには帰りませんわ」
ゴーシュが、訝しげにミトを見る。
「あなたが厠で吐いている間、わたくしはこの国におります。あなたの代わりに決めて差し上げるためでは、ございませんのよ。――ただ、隣に」
ゴーシュは何か言いかけ、けれど言葉にならず、ただぼろぼろの拳を固く握りしめた。その拳が、わずかに震えていた。怒りなのか、別の何かなのか、彼自身にもまだわからぬ様子だった。
* * *
そのとき、白い館の扉が、音もなく開いた。
ひとりの男が、こちらへ歩いてくる。傷ひとつない白磁のような、おそろしく穏やかな佇まい。歳の頃も来歴も読ませない、ただ慈愛だけを湛えた顔。
その背後、館の薄暗がりに、人影が並んでいた。穏やかに微笑む、無数の顔。そのなかに、ミトは見覚えのある二つを見つけた。
ひとりは、白百合の女学院で「自由は怖い」と檻に残った、目立たぬ令嬢アデル。
もうひとりは、本国の承認の儀で、恐怖のあまり「選ばない」を選んでしまった、若い番頭ベルント。
二人とも、生気の抜けた、おそろしく凪いだ顔をして、その白い館の奥にひっそりと身を寄せていた。ミトと目が合っても、アデルはただ、安らかに微笑み返すだけだった。ベルントは、そっと目を伏せた。
白磁の男は、ミトの前で足を止め、争う色のかけらもない、心からいたわるような目で彼女を見た。
「ようこそ、ヴァルハイトの姫君」その声は、絹よりも柔らかかった。「噂は、この辺境まで届いておりますよ。各国を巡り、弱き者に『自分で決めよ』とお説きになる、気高いお方だと。――遠い旅で、さぞお疲れでしょう」
彼は、痛ましいものを見るように、わずかに目を伏せた。
「わたくしはシメオン。この〈凪の家〉で、あなたが各国に置いてこられた『正しさ』に疲れ果ててしまった子供たちを引き取って、休ませている者です」
ミトの扇が、ぴたりと止まった。
「……決めることに、疲れた者たちを、ね」
「いいえ」シメオンは、慈しむように、ゆっくりと首を振った。「決めることに、ではございません。わたくしはあの子たちから、もっとずっと深いものを取り除いて差し上げた。――それが何であったかは、これからゆっくりと、ご覧に入れましょう」
彼は、館の奥の、穏やかな顔の群れを、愛おしげに振り返った。アデルの、ベルントの、領民たちの、波ひとつ立たぬ顔を。
「さあ。我が家の子供たちに、どうぞお会いになって」
砂の国の中心で、嵐ではなく――凪が、静かにミトを待っていた。




