静かな選択
承認の儀の、あの信じがたいほどの静けさが――嘘のように、ゆっくりと、本国の日常へとほどけていった。
オズヴァルトはまだ、法的な家督継承証を握ってはいた。書類の上では、彼は依然として、ヴァルハイトの当主のままだった。けれど――その不完全な欠陥書類が握る公爵家という巨大な機構は、彼のために、一文の利益も、一枚の船も、動かさなかった。
取引網は沈黙し、商人たちは口をきかず、帳簿はひとりでに止まった。さらに、同格の名家たちは「今日、紙での簒奪という前例を許せば、明日は我が身が、同じ手で奪われる」という、極めて冷徹な自己防衛の論理に基づき、オズヴァルトを徹底的に排斥した。
承認なき当主の座は、資産ではなく、ただの巨大な「負債」だった。
家にすら拒まれた男、という烙印を背負い、握っているだけで損が増え続ける紙束を、オズヴァルトは、自らの冷徹な計算の末に、そっと手放した。復讐でもなく、罰でもない。法の訂正は、ただ、実質的な承認の後を追うようにして、無血のまま、合法のまま、完了した。
去り際、彼は最後まで腑に落ちぬ顔で、呟いていた。「……紙は、完璧だったのだ。私の組んだ論理は、非の打ちどころが、なかったはずだ」最後まで、彼には見えなかったのだ。自分に欠けていた、紙にはいっさい記述できない「本物の承認」という実質が。それを見ようとしないことこそが、彼がそれを永遠に持てない、理由そのものだった。
* * *
ミトの父は無事に戻り、ヴァルハイト公爵家は、本来の姿へと静かに戻った。漆の箱に収められた印籠もまた、ミトの手元に帰ってきた。
カクとスケは大喜びで、またその箱を大事そうに撫でさすっていた。「お嬢様! アレがまた、どこへ行っても百発百中で効きますぞ!」
「ええ」ミトは毛皮にくるまりながら微笑んだ。「でも、覚えておいてね。あの箱が、人を平伏させるのではないの。あれはただの、しるし。本物はいつも、箱の外――わたくしたちが目で見つめ、稼いできた、あの日々の中にありますのよ」
二人はきょとんとして、それから誇らしげに、紋章を懐に仕舞った。
ロウは相変わらず、広大な実務の書類の山に埋もれていた。けれど、彼の机のいちばん上には、あのオズヴァルトを出し抜いた、数十年前の古法の書状が、静かに置かれていた。
「それ、片付けないの?」とミトが尋ねる。「記念ですよ」ロウは平坦に言った。「完璧な書類の檻が、人の頭の数によって反転した、あの美しき瞬間の記述です。……一生に一度の、実に見事な法理でした」
ミトは扇の陰で、ふっと笑った。
* * *
財も、名も、家も、すべてが戻った。けれど、この旅は――まだ、終わってはいなかった。
ミトは窓の外、遠い大陸の地平を見やった。これまで巡り、裁き、是正を置いてきた国々。あの国々はいまも、自分が置いてきたとおりに、在るのだろうか。女学院で、自由を恐れて檻に残ることを選んだアデル。本国で、恐怖のあまりオズヴァルト側に残るしかなかった、若い番頭ベルント。
「わたくしは、家を取り戻しましたわ」ミトはぽつりと呟いた。「けれど、アデルやベルントの心を救うことは、できませんでした。名の力でも、わたくしの目でも、届かない暗がりが、まだ世界にはある……」
氷の老人の言葉が、重く胸の底で、溶けずにいた。お前の裁きこそ、ひと夏で溶ける氷ではないか、と。賽の国で、ゴーシュに丸投げした領民たちの、誰かに決めてもらわねば、というあの顔は、本当に変わったのだろうか。
「……確かめに行かねばなりませんわね、ロウ」ミトの目の奥に、甘さのない、より深き、再訪の旅への強い動機が灯っていた。
「ええ」ロウは相変わらず、分厚い次の国の資料を開いた。「次は、あの砂漠の国サディラの『その後』から、もう一度、たどり直しましょう。我々の置いてきた契約書が、本当に彼らの盾になっているかどうかを、この目で、破綻なく検めるために」
ミトは、ゆっくりと扇を開いた。思えば、この第一幕の漫遊で、彼女が最後に選んだのは、剣でも、名でも、財でもなく、すべてを剥がされた底で、何も持たぬまま、すべてを放すという、ひとつの静かな選択だった。
けれど、ひとつだけ、決して放さなかったものがある。どの国でも、彼女は同じ言葉を呟いてきた。あれは、本物ですわ、と。鏡では、職人の手を見分ける目として。礼華では、千年の埃の下に。雪では、溶けぬ価値として。姿を変えて確かめてきたのは、いつも、値札の外にある、本物を見る目。それだけは誰にも剥ぎ取れず、すべてを失った底にも、確かに、彼女の手に残っていた。
扇が、ぱちん、と鳴った。いつものように、はっきりと。置いてきた是正の『中身』を、数え直す。再訪の漫遊劇へ。




