表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/34

数えるほど

第十二話「数えるほど」

長は、増え続ける名々を、慈愛の目で見渡した。そして、穏やかに首を振った。

「ミト嬢。お分かりになりませんか。――あなたがここへ呼び寄せた、この方々は」

「呼んではおりません」ミトは静かに言った。「皆さま、ご自分でいらしたのです」

「……であれば、なおのこと」長は、いっそう柔らかく微笑んだ。「これは稀有なこと、なのですよ。ええ、稀に、強き者はおります。己の名を、責めを負える、稀有な例外が。けれど――大半の者は、弱い」

彼の声は、どこまでも慈しみに満ちていた。

「弱き者に名を負わせれば、潰れます。責めを負わせれば、壊れます。だから、枢密院が代わりに負う。誰も傷つかずに済むように。――それが慈悲です。あなたは、稀な強き者を数人灯した。立派なこと。けれど、その火で、何百万の弱き者の眠りを起こしてはなりません。**弱き者には、名は負えぬのですから**」

* * *

その時。

法廷の扉が、また開いた。

入ってきた者を見て、宮廷の者たちが訝しげに囁いた。あまりに頼りない姿だったから。

痩せた、若い男。青ざめて、唇まで白い。一歩踏み出すごとに、足が震えている。誰の目にも――この男は何もできまい、と映った。怯えて立ちすくむ、それだけの男に。

ベルント。賽の国の白い館にいた、あの番頭。恐怖のあまり何ひとつ選べず、震えながらやっと、小さな「いいえ」を口にした、あのいちばん弱かった男。

彼は、決意して来たのではなかった。

雄々しい志など、なかった。ただ――あの日、震えながら言えた、たった一語の「いいえ」が、あれから彼を放さなかった。眠れぬ夜ごと、その一語が彼の背を押した。そして気づけば、こんな遠くまで来てしまった。来ること自体が、彼には世界でいちばん重かった。

ベルントは、判事の卓の前で立ち止まった。

長の言葉が、まだ空気に残っていた。――弱き者には、名は負えぬ。

ベルントは、その言葉を聞いていた。そして、いっそう青ざめた。自分のことだ、と知っていたから。晒せば、次に枢密院に潰されるのは自分だ、とも。

それでも。

彼の震える手が、卓の上の筆を取った。

握れなかった。指が震えて、何度も筆を落としかけた。彼はもう一方の手で、その手首を押さえた。礼華の老吏が、そうしたように。三十年帳簿を締めた老家令グレーバーの指から、堤の図をなぞったジンの指へ、火傷を負ったリーザの手へ、震える老吏の手へと繋がってきた、その「手」の――いちばん弱い、終わりの指で。

そして、ベルントは書いた。

己の名を。

ひと文字、ひと文字。歪んで、震えて、不格好な字だった。何の宣言もなかった。論もなかった。ただ、いちばん弱い男が、いちばん怖いことを――己の名を、晒した。

「……ぼ、ぼくは」声が掠れた。ほとんど消え入りそうな。「ぼくは……今も、弱いです。……でも。書きました。ぼくの、名前を」

* * *

しん、と。

法廷が、静まり返った。

ヴィンターが、壇の上でわずかに身を乗り出した。ミトの扇を持つ手が止まった。ゴーシュが息を呑んだ。ナーラが目を見開いた。老吏が、水夫が、じっとその不格好な署名を見つめた。

長は。

慈愛の微笑みのままだった。

その表情は、ベルントが入ってくる前と、ひとつも変わらなかった。彼は震える番頭をいたわしげに見て、そして、静かに頷いた。

「……ああ。また、おひとり、ですね」

穏やかな声だった。

「けれど。ひとり、ふたり――それで、何が変わります? 明日も、大陸は安らかに眠ります。何千万の弱き者は、今日も何も選ばず、何も負わず、穏やかに。……あなたの灯した火はねえ」

彼は、立ち上がった。

「やはり、数えるほど、ですよ」

そして、慈悲の仮面をひとつも崩さぬまま、長はゆっくりと踵を返した。奥の扉へ向かう、その背へ。

「――お待ちなさい、枢密院の長」

静かな声が、大理石の床をすっと滑って、その背に追いついた。ミトは、膝の上で閉じていた扇を、ゆっくりと、確かな重みをもって、長へ向けた。

「ご自分の慈悲とやらの値札。裏のインクが、まだ乾いておりませんわよ」

長が、足を止めた。振り返りはしない。

「水の都で、わたくしには読めぬ印がございました。皆が『皆が言っている』と信じて写した、あの呪いの札の、いちばん底の数枚。その隅の、小さな符牒」ミトの扇の先が、卓の上の古い付け札から、長の袖口でわずかに覗く一束の書状へと、すっと移る。「同じ撥ねの癖。同じ墨の滲み。同じ、余白の点。――あなたが今お持ちの、その書状の隅と、寸分たがいませんわね」

家人たちには、何のことか、わからなかった。ただの墨の滲みだ。目利きを仕込まれぬ目には、何の意味もない汚れにすぎない。けれどミトの目にだけは、その滲みの奥にある、ひとつの大きな手の輪郭が、はっきりと見えていた。

「『人は元に戻る』のでは、ございませんのね。戻るように、あなたが撒いておいでだった。――それだけのこと」

第一幕であれば、これで膝が折れていた。印籠の閃光が、広間を制していた。完璧な、目利きの一撃。

長は、半身だけ、振り返った。

その顔に、怒りも、狼狽もなかった。ミトの突きつけた本質を、慈愛の目の奥で、ただ淡々と受け止めている。

「……お見事な、目利きです」その声は、どこまでも穏やかだった。

ただ、その最後のひと粒に。爪の先で擦ったほどの、ごく小さなこわばりが、確かに混じった。

「ですが、ミト嬢。仮にそうだとして――それが分かったところで、何が変わります?」

彼は、認めなかった。否定も、しなかった。ただ、問い返しただけだった。

「この大陸の街も、関所も、港も、もう同じ手の書類で回っております。民はそれを写すことでしか、明日を生きられない。あなたがどれほど鮮やかにその印を見抜こうと、この大きな仕組みは、止まりません。……見抜かれたところで、痛くも、痒くも、ないのですよ」

長は、それ以上は語らなかった。一瞥をくれるだけで、今度こそ奥の扉の向こうへ退いていった。咎められもせず。改められもせず。彼の座は、空かぬまま、そこに在りつづけた。

ミトは、向けた扇を、静かに下ろした。

勝てなかった。その目は、本物を見抜いた。けれど、世界を覆うその大きな仕組みは、見抜かれたくらいでは、一ミリも揺るがなかった。

「……それでも」彼女は、ぽつりと呟いた。扇を、ぱちんと胸元で閉じる。「見えておりますわ。あなたの、その不格好な手のあとが。――いつまででも」

* * *

壇の上のヴィンターが、長いあいだ、ベルントの歪んだ署名と、空いたままの長の椅子を見ていた。

彼は、見ていた。あの絶対の聖者の声に、ほんの一瞬、たしかなこわばりを刻んでみせた、ミトのあの目を。長を倒せはしなかった。けれど、あの無風の男に、髪一筋のひびを入れた、あの目を。

やがて、乾いた唇がひらいた。

「……戻らぬ者も、おるか。ひとりは」

氷の老公の声に、初めて、明確な揺らぎがあった。

「ふん」けれど、彼はすぐに、その揺らぎを隠すように目を伏せた。「……だがな、娘。勘違いするな。お前がどれほど鋭くあの印を暴こうと、あの撒く手は――まだ回っておる。お前の灯は、消えはせぬ。だが、夜を明かしもせぬ」

ミトは、頭を下げた。「……ええ。存じております」

* * *

それから、ミトは、まだ卓の前で震えているベルントの傍へ歩み寄った。

長には、もう目もくれなかった。覆ったとも、勝ったとも言わなかった。ただ、青ざめた番頭の、そのまだ怯えている目をまっすぐに見て。

「立派である必要なんて、ございませんのよ」と、そっと言った。

それは、あの賽の国の白い館で、震えるこの同じ番頭に、初めてかけたのと、寸分たがわぬ言葉だった。

「あなたは、弱いままいらした。震えたまま、お名前をお書きになった。――それが、いちばん難しいことを、なさったということ」

ベルントの、くしゃくしゃの顔から、涙がひと粒落ちた。

* * *

宮廷の、長い廊下を、ミトは歩いた。

名は、放したまま。財も、印籠もない。手には、使い込んだ扇が一本。旅塵に汚れた外套の裾が、磨かれた床を擦っていく。来たときと、同じ。何ひとつ取り戻さずに。

隣に、ロウが並んだ。

「……公爵令嬢でも、何でもなくなりましたわね。わたくし」ミトは、扇の陰で小さく笑った。「ただの、文無しの小娘。婚約者としては、とんだはずれ籤ですわよ」

「ええ」ロウは、平坦に言った。眼鏡の奥が、ほんの少し和らいでいた。「名も、財もない。――けれど、あなたはものを視る。誰よりも。私は、その目を選んだのです。公爵の財ではなく。……今も、変わりません」

ミトは、答えずに、ただその手を握った。

廊下の突き当たりで、宮廷の書記官がひとり、卓に向かって黙々と書状を認めていた。ミトの目が、ふと、その手元に留まる。封の、畳みかた。余白の、隅の小さな点。――あの符牒だった。

ミトは、足を止めなかった。判じも、暴きもせず。ただ見て――通り過ぎた。

背後の広間には、呼ばれもせぬ名々が、まだ立っていた。ゴーシュが、ナーラが、老吏が、水夫が、そして、いちばん弱いベルントが。ミトに率いられたのでも、集められたのでもなく。ただ、各々の足で来て、各々の名を晒して、そこに在った。

そして、宮廷のどこか奥では。あの符牒の捺された書状が、また一通、静かに運ばれていった。

ミトは、振り返らなかった。

手には、扇が一本。背には、旅塵の外套。何ひとつ取り戻さぬまま。文無しの小娘は、隣の男とその手を繋いで、宮廷の門をくぐっていった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ