数えるほど
第十二話「数えるほど」
長は、増え続ける名々を、慈愛の目で見渡した。そして、穏やかに首を振った。
「ミト嬢。お分かりになりませんか。――あなたがここへ呼び寄せた、この方々は」
「呼んではおりません」ミトは静かに言った。「皆さま、ご自分でいらしたのです」
「……であれば、なおのこと」長は、いっそう柔らかく微笑んだ。「これは稀有なこと、なのですよ。ええ、稀に、強き者はおります。己の名を、責めを負える、稀有な例外が。けれど――大半の者は、弱い」
彼の声は、どこまでも慈しみに満ちていた。
「弱き者に名を負わせれば、潰れます。責めを負わせれば、壊れます。だから、枢密院が代わりに負う。誰も傷つかずに済むように。――それが慈悲です。あなたは、稀な強き者を数人灯した。立派なこと。けれど、その火で、何百万の弱き者の眠りを起こしてはなりません。**弱き者には、名は負えぬのですから**」
* * *
その時。
法廷の扉が、また開いた。
入ってきた者を見て、宮廷の者たちが訝しげに囁いた。あまりに頼りない姿だったから。
痩せた、若い男。青ざめて、唇まで白い。一歩踏み出すごとに、足が震えている。誰の目にも――この男は何もできまい、と映った。怯えて立ちすくむ、それだけの男に。
ベルント。賽の国の白い館にいた、あの番頭。恐怖のあまり何ひとつ選べず、震えながらやっと、小さな「いいえ」を口にした、あのいちばん弱かった男。
彼は、決意して来たのではなかった。
雄々しい志など、なかった。ただ――あの日、震えながら言えた、たった一語の「いいえ」が、あれから彼を放さなかった。眠れぬ夜ごと、その一語が彼の背を押した。そして気づけば、こんな遠くまで来てしまった。来ること自体が、彼には世界でいちばん重かった。
ベルントは、判事の卓の前で立ち止まった。
長の言葉が、まだ空気に残っていた。――弱き者には、名は負えぬ。
ベルントは、その言葉を聞いていた。そして、いっそう青ざめた。自分のことだ、と知っていたから。晒せば、次に枢密院に潰されるのは自分だ、とも。
それでも。
彼の震える手が、卓の上の筆を取った。
握れなかった。指が震えて、何度も筆を落としかけた。彼はもう一方の手で、その手首を押さえた。礼華の老吏が、そうしたように。三十年帳簿を締めた老家令グレーバーの指から、堤の図をなぞったジンの指へ、火傷を負ったリーザの手へ、震える老吏の手へと繋がってきた、その「手」の――いちばん弱い、終わりの指で。
そして、ベルントは書いた。
己の名を。
ひと文字、ひと文字。歪んで、震えて、不格好な字だった。何の宣言もなかった。論もなかった。ただ、いちばん弱い男が、いちばん怖いことを――己の名を、晒した。
「……ぼ、ぼくは」声が掠れた。ほとんど消え入りそうな。「ぼくは……今も、弱いです。……でも。書きました。ぼくの、名前を」
* * *
しん、と。
法廷が、静まり返った。
ヴィンターが、壇の上でわずかに身を乗り出した。ミトの扇を持つ手が止まった。ゴーシュが息を呑んだ。ナーラが目を見開いた。老吏が、水夫が、じっとその不格好な署名を見つめた。
長は。
慈愛の微笑みのままだった。
その表情は、ベルントが入ってくる前と、ひとつも変わらなかった。彼は震える番頭をいたわしげに見て、そして、静かに頷いた。
「……ああ。また、おひとり、ですね」
穏やかな声だった。
「けれど。ひとり、ふたり――それで、何が変わります? 明日も、大陸は安らかに眠ります。何千万の弱き者は、今日も何も選ばず、何も負わず、穏やかに。……あなたの灯した火はねえ」
彼は、立ち上がった。
「やはり、数えるほど、ですよ」
そして、慈悲の仮面をひとつも崩さぬまま、長はゆっくりと踵を返した。奥の扉へ向かう、その背へ。
「――お待ちなさい、枢密院の長」
静かな声が、大理石の床をすっと滑って、その背に追いついた。ミトは、膝の上で閉じていた扇を、ゆっくりと、確かな重みをもって、長へ向けた。
「ご自分の慈悲とやらの値札。裏のインクが、まだ乾いておりませんわよ」
長が、足を止めた。振り返りはしない。
「水の都で、わたくしには読めぬ印がございました。皆が『皆が言っている』と信じて写した、あの呪いの札の、いちばん底の数枚。その隅の、小さな符牒」ミトの扇の先が、卓の上の古い付け札から、長の袖口でわずかに覗く一束の書状へと、すっと移る。「同じ撥ねの癖。同じ墨の滲み。同じ、余白の点。――あなたが今お持ちの、その書状の隅と、寸分たがいませんわね」
家人たちには、何のことか、わからなかった。ただの墨の滲みだ。目利きを仕込まれぬ目には、何の意味もない汚れにすぎない。けれどミトの目にだけは、その滲みの奥にある、ひとつの大きな手の輪郭が、はっきりと見えていた。
「『人は元に戻る』のでは、ございませんのね。戻るように、あなたが撒いておいでだった。――それだけのこと」
第一幕であれば、これで膝が折れていた。印籠の閃光が、広間を制していた。完璧な、目利きの一撃。
長は、半身だけ、振り返った。
その顔に、怒りも、狼狽もなかった。ミトの突きつけた本質を、慈愛の目の奥で、ただ淡々と受け止めている。
「……お見事な、目利きです」その声は、どこまでも穏やかだった。
ただ、その最後のひと粒に。爪の先で擦ったほどの、ごく小さなこわばりが、確かに混じった。
「ですが、ミト嬢。仮にそうだとして――それが分かったところで、何が変わります?」
彼は、認めなかった。否定も、しなかった。ただ、問い返しただけだった。
「この大陸の街も、関所も、港も、もう同じ手の書類で回っております。民はそれを写すことでしか、明日を生きられない。あなたがどれほど鮮やかにその印を見抜こうと、この大きな仕組みは、止まりません。……見抜かれたところで、痛くも、痒くも、ないのですよ」
長は、それ以上は語らなかった。一瞥をくれるだけで、今度こそ奥の扉の向こうへ退いていった。咎められもせず。改められもせず。彼の座は、空かぬまま、そこに在りつづけた。
ミトは、向けた扇を、静かに下ろした。
勝てなかった。その目は、本物を見抜いた。けれど、世界を覆うその大きな仕組みは、見抜かれたくらいでは、一ミリも揺るがなかった。
「……それでも」彼女は、ぽつりと呟いた。扇を、ぱちんと胸元で閉じる。「見えておりますわ。あなたの、その不格好な手のあとが。――いつまででも」
* * *
壇の上のヴィンターが、長いあいだ、ベルントの歪んだ署名と、空いたままの長の椅子を見ていた。
彼は、見ていた。あの絶対の聖者の声に、ほんの一瞬、たしかなこわばりを刻んでみせた、ミトのあの目を。長を倒せはしなかった。けれど、あの無風の男に、髪一筋のひびを入れた、あの目を。
やがて、乾いた唇がひらいた。
「……戻らぬ者も、おるか。ひとりは」
氷の老公の声に、初めて、明確な揺らぎがあった。
「ふん」けれど、彼はすぐに、その揺らぎを隠すように目を伏せた。「……だがな、娘。勘違いするな。お前がどれほど鋭くあの印を暴こうと、あの撒く手は――まだ回っておる。お前の灯は、消えはせぬ。だが、夜を明かしもせぬ」
ミトは、頭を下げた。「……ええ。存じております」
* * *
それから、ミトは、まだ卓の前で震えているベルントの傍へ歩み寄った。
長には、もう目もくれなかった。覆ったとも、勝ったとも言わなかった。ただ、青ざめた番頭の、そのまだ怯えている目をまっすぐに見て。
「立派である必要なんて、ございませんのよ」と、そっと言った。
それは、あの賽の国の白い館で、震えるこの同じ番頭に、初めてかけたのと、寸分たがわぬ言葉だった。
「あなたは、弱いままいらした。震えたまま、お名前をお書きになった。――それが、いちばん難しいことを、なさったということ」
ベルントの、くしゃくしゃの顔から、涙がひと粒落ちた。
* * *
宮廷の、長い廊下を、ミトは歩いた。
名は、放したまま。財も、印籠もない。手には、使い込んだ扇が一本。旅塵に汚れた外套の裾が、磨かれた床を擦っていく。来たときと、同じ。何ひとつ取り戻さずに。
隣に、ロウが並んだ。
「……公爵令嬢でも、何でもなくなりましたわね。わたくし」ミトは、扇の陰で小さく笑った。「ただの、文無しの小娘。婚約者としては、とんだはずれ籤ですわよ」
「ええ」ロウは、平坦に言った。眼鏡の奥が、ほんの少し和らいでいた。「名も、財もない。――けれど、あなたはものを視る。誰よりも。私は、その目を選んだのです。公爵の財ではなく。……今も、変わりません」
ミトは、答えずに、ただその手を握った。
廊下の突き当たりで、宮廷の書記官がひとり、卓に向かって黙々と書状を認めていた。ミトの目が、ふと、その手元に留まる。封の、畳みかた。余白の、隅の小さな点。――あの符牒だった。
ミトは、足を止めなかった。判じも、暴きもせず。ただ見て――通り過ぎた。
背後の広間には、呼ばれもせぬ名々が、まだ立っていた。ゴーシュが、ナーラが、老吏が、水夫が、そして、いちばん弱いベルントが。ミトに率いられたのでも、集められたのでもなく。ただ、各々の足で来て、各々の名を晒して、そこに在った。
そして、宮廷のどこか奥では。あの符牒の捺された書状が、また一通、静かに運ばれていった。
ミトは、振り返らなかった。
手には、扇が一本。背には、旅塵の外套。何ひとつ取り戻さぬまま。文無しの小娘は、隣の男とその手を繋いで、宮廷の門をくぐっていった。




