効かぬ印籠
名と財の相殺の応酬から、二日。オズヴァルトの次なる一手は、冷酷なまでに迅速だった。彼は剣も毒も使わない。ただ、残された紙を、順にめくっていった。
本国臨時執行法に基づき、前当主の退位に伴う「公爵家総資産の一時差し押さえ」が執行された。呼び戻された古い借財、凍結された取引口座、差し止められた為替の手形。ヴァルハイトの財という財が、合法の手続きという音のない刃で、一枚ずつ切り離されていく。
傷口を広げるように、決定的な最低点が来た。
「本日付で、こちらの屋敷は、当家現当主の管理下となりました。不法占拠となる前に、速やかな退去を」オズヴァルトの差配人が淡々と告げ、ミトと、わずかに残った供の者たちは、生まれ育ったヴァルハイトの屋敷から、叩き出された。
名も、財も、屋敷も。三つとも、紙の一筆で剥がれた。
その退去の混乱の片隅で、老家令グレーバーが、オズヴァルトに呼びつけられていた。オズヴァルトはヴァルハイトの全取引網の名簿を差し押さえ、自分の名で握り直すよう命じている。グレーバーは承知した、と深く頭を下げた。そして、その名簿を淡々と整理した――整理したように見せて、彼の乾いた指は、古い取引先の実務的な繋がりが記された「ある数枚」を、帳簿の綴じ目の見えにくい奥へと、そっと滑り込ませた。
それは、情に駆られた手つきではなかった。「この数枚が消えれば、来季の差引勘定が合わなくなる」と独りごちるような、三十年帳簿を締めてきた男の、冷えた実務の顔だった。だが、荷運びの雑踏のなかにいたミトの目は、そこには届かなかった。
* * *
行く当てを失った一行は、その晩、激しい雨のなか、都外れの寂れた宿に転がり込もうとした。たった一晩の、雨をしのぐ屋根が欲しかっただけだ。
「すまぬが、部屋を」とカクが言った。けれど、宿の主人は薄汚れた旅装の一行を胡乱げに見て、首を振った。先立つものが、もうミトたちには、ほとんど残っていなかった。
カクとスケが顔を見合わせた。そして、体に染みついた長年の癖で、懐へ手を伸ばした。「ええい、無礼な! こちらにおわすお方をどなたと――」紋章器が掲げられる。「ヴァルハイト公爵家が――!」
宿の主人は。きょとん、とした。
ただ、それだけだった。怒りも、畏れも、平伏も、なかった。彼はその紋章を一瞥すると、面倒くさそうに鼻を鳴らした。「……ヴァルハイト? さあね、聞いたこともない。とにかく、銭が無いなら泊められんよ。出ておくれ」
しん、と、雨の音だけが響いた。これは、オズヴァルトの書記が法の理屈で突っぱねたのとは、違った。政治も法も知らぬ都外れの主人にとって、ヴァルハイトの紋章はもう、ただの見知らぬ金属片でしかなかったのだ。
幾つもの国で、腐った領主を平伏させ、宮殿を溶かし、令嬢工場を裁いてきた、あの徽章が。たった一晩の宿一つ、もう、動かせない。
カクの、掲げた手が、小刻みに震えていた。「……スケよ。アレが……効かぬ」「カクよ……。砂漠でも、霧でも、水の都でも、効かぬことはあった。だがあのときは、まだ、出せば効く場所のほうが多かった」「ああ」「今は――どこにも効かぬ。一晩の宿ひとつ動かせぬ。死んでおる、アレが」
スケは紋章器を、そっと懐に戻した。まるで、もう二度と抜けぬ重い遺物のように。笑いの種だった「印籠」が、ここで完全に死んだ。誰も、笑わなかった。ただ、冷たかった。
* * *
その夜、ミトは宿の裏手の、冷たい雨に濡れる石段に、ひとり座っていた。完璧な令嬢としての隙のない背筋も、扇も、もう意味をなさなかった。名がなければ、財がなければ、掲げても誰も平伏しない徽章しかなければ。
ずっと開けずにきた問いが、とうとう、ひとりでに口を開いた。
「……ねえ、ロウ」
いつのまにか、傍らにロウが立っていた。
「名を取られて、財も、屋敷も、紋章すら。全部取られて、わたくしに、いったい何が残りますの」
それが、一つ目の問いだった。そして、彼女はもっと答えにくい、二つ目の問いを続けた。
「それに。わたくしね、見ましたのよ。去らずに、都で口をつぐんでいる人たちを。あの人たちはまだ、わたくしを慕ってくれている。そう、思いたい。でも、ロウ。慕うことと、わたくしのために、身を切ってオズヴァルトの前に立つことは、違いますわ。安全なときに頭を下げてくれた情が、破滅を賭してまで、あの大勢の前で、公にわたくしの側に立つほどの本物かどうか……わたくしには、わかりませんの」
安全なときに稼いだ慕いは、身を切るときにも本物か。ロウはすぐには答えなかった。そして、答えたのは、一つ目にだけだった。
「残るのは」彼はごく静かに言った。「あなた自身です」
「……わたくし、自身」
「名も、財も、紋章も剥がせます。誰でも、紙と手続きさえあれば。けれど、あなたという人だけは、誰にも書き換えられない。いかなるオズヴァルトの紙にも、書けやしない」ロウは、眼鏡の奥の目を少しだけ緩め、署名のない約束のように続けた。
「……だから、ミト様。少しの間、令嬢を、おやめなさい。完璧な仮面など、もう守るものが無いのですから、いりません。落ちて、結構。素のまま、おなりなさい。あなたには……似合わぬでしょうがね」
ミトはその言葉に、なぜか笑ってしまった。泣くよりも先に、おかしな笑いがこぼれた。ロウは、二つ目の問いには「あの人たちは必ず来ます」とは言わなかった。言えなかった。それは、彼にもわからない、明日の『承認の儀』そのものに懸かった、賭けだったからだ。
答えが出るのは、まだ先のことだった。
「まいりましょう、ロウ」ミトは立ち上がり、素のままの顔を、雨の夜空へ向けた。「明日、わたくしの価値が、本当にただの『空っぽの箱』なのか、それとも、削られてなお残る『本物』なのか――証明して差し上げますわ」
何も持たないからこそ、もう何も怖くない。承認の儀の朝が、すぐそこに迫っていた。




