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紙の刃

本国の門が見えてきた。賽の国の砂埃を落とす間もなく、馬車は数ヶ月ぶりに、ヴァルハイトの都へと帰り着こうとしていた。

(……お前の裁きこそ、ひと夏で溶ける氷よ。あの氷の老人の呪いが、どうしても胸から離れませんのね。わたくしが置いてきた是正は、本当に根づいたのかしら)

ミトは窓の外を眺めながら、胸に去来する小さな影を振り払うように、扇を握りしめた。考えるのは、あとだ。今は、我が家を襲った嵐に向き合わねばならない。

――その帰還の安堵は、門の手前で、最初の不吉なひびを入れられた。

「通行の手形を」検問の役人が馬車を止め、慇懃に、けれど余所余所しく言った。ヴァルハイトの紋章を大書きした馬車を、この男は完全に知らぬ顔で見つめている。

「これはヴァルハイト公爵家の馬車ですよ」と御者台のカクが胸を張る。「お嬢様がお帰りだ」

「……ヴァルハイト、公爵家」役人は手元の書付に冷たい目を落とし、事務的に続けた。「失礼ながら。その家名をいま、公式に名乗ってよろしいお立場か――こちらの本国枢密院の書面では、はっきりいたしませんもので。一時拘留の対象と、なっております」

ミトとロウの視線が交わった。噂はいつもミトより先に駆ける。けれど、今度の“先回り”は、冷えていた。ヴァルハイトの名が、かつての我が家の入口で、法的に凍結されているのだ。

「……役人どの。その書面、少し見せていただけますか」ロウが馬車の窓から手を伸ばし、役人の持つ枢密院の公示令を、奪うようにひったくった。眼鏡の奥の目が、そこに並ぶ法条文を、瞬時に読み解いていく。

「ミト、オズヴァルトの組んだ『最初の檻』です。本国臨時治安維持法第十二条――家督係争中の身分不詳者に対する通行制限条項。完璧な合法手続きだ。……ですが、この程度の紙切れ、私に言わせれば、単なる穴だらけのザルです」

ロウは懐から、先に礼華宮国で写し取った、大陸じゅうの関所を網羅する『国際通行法規の特権写し』を、すい、と突きつけた。

「役人どの。あなたが拠って立つ臨時法よりも、我が方が提示する『大陸関税同盟条約第七条』のほうが、法規の優先順位として上だ。ヴァルハイトの馬車は、本国のいかなる臨時令だろうと、臨時の身分確認なしで通す特権が、永久に保証されている。……これに逆らうということは、あなたが所属する検問所ごと、国際条約違反の罰則金一万金を私領から支払うということになりますが、署名なさいますか?」

「な、国際条約……っ!?」役人の顔から、一瞬で血の気が引いた。書類の提示一枚で、検問の檻が内側から吹き飛んだのだ。

「通るぞ。馬車を出せ、カク」「おうよ、ロウ様!」馬車は役人を撥ね退けるようにして、都の中へと滑り込んだ。

* * *

だが、都の様子もまた、完全におかしかった。いつもならヴァルハイトの財に群がる商人たちが、馬車を見るや否や、そそくさと店の奥へ引っ込んだ。

「……薄情な風見鶏どもめ」カクが低く唸る。

けれど、ミトは見逃さなかった。去っていく債権者や両替商たちのあとに、目を逸らしながらも、口をつぐんでじっとその場に残り、こちらの様子を伺っている古い取引先の実務者たちが、大勢いることを。彼らは去ってはいない、怯えているのだ。紙の刃の冷たさに。

馬車がヴァルハイト邸の門前に着いたとき、その冷たい刃の主が、門を背にして立っていた。

オズヴァルト・フォン・ヴァルハイト。ミトの父の遠い従弟であり、学園の後援者名簿に名を連ねていた、あの分家の長。胸に一束の重々しい書類を抱え、穏やかに微笑んでいる。

「おお。これはミト嬢、それに論客のロウ殿」オズヴァルトはごく事務的に告げた。「長旅ご苦労でしたな。お帰りの先が、まだ“お宅”であった頃に、間に合ってよかった。……家督が移ったのですよ。正統な継承証を精査いたしましてな。あなたのお父上から、本来の血筋――すなわち、この私へ。すべて合法に。一滴の血も流さず、一片の法も破らず」

彼は抱えた書類を、軽く叩いた。「私は何も奪ってなどいない。ただ、紙が正しい姿に戻っただけのこと。ヴァルハイトの当主は本日より、この私です」

ミトはその書類の束を睨みつけた。なるほど。これがこの男の剣か。非人格な機構の陰に隠れて、すべてを奪う、簒奪の天才。

「お父様は……!」ミトの声が低くなった。

「ご健勝ですよ。ただ、当主の座からは退いていただいた。法的な手続きに則ってね」オズヴァルトが勝ち誇ったように笑う。

だが、その隣でロウが一歩、前へ出た。その手には、旅の間に各国で集め、磨き上げてきた『実務の帳簿』が握られている。

「――オズヴァルト様。完璧な『紙の簒奪』のつもりでしょうが、あなたの組んだ書類、私から見れば、致命的な綻びが一つ、ありますよ」

オズヴァルトの笑みが、わずかに止まった。「ほう、ヴァルハイト一の書類使いが、私に法理の喧嘩を売るか」

二人のあいだに、書類を武器にした、冷徹な法の応酬の火蓋が、切って落とされた。

「第一手だ、ロウ殿」オズヴァルトが、懐から一枚の重々しい証文を突きつけた。「これが、前当主が五年前、東方航路開拓の失敗の折に、我が分家から融通した、巨額の『隠し借財の証文』だ。不履行に伴う、家督および全資産の譲渡執行書。前当主の直筆署名もある。法的に、この家は完全に私のものだ!」

完璧な先制攻撃。だが、ロウは表情一つ変えず、サディラ王国で回収してきた『別の証文』を、その上に叩きつけた。

「第二手です、オズヴァルト様。その隠し借財の、真の出どころ。あなたが裏で繋がっていた、サディラ王国の水利両替商ですね。我々は先日の旅の折、サディラ王の不法慣習を是正した対価として、サディラ王家が保有していた『オズヴァルト殿、あなたの個人負債の証文』を、丸ごと我が方で買い取ってあります。あなたが本家に請求している額と、我々があなたに請求できる、サディラ経由の債権額――これを本国商業法第二十二条に基づき、今この瞬間に『相殺』いたします。よって、その家督譲渡執行書は、前提たる債務が消滅したため、法的に『執行不能』となります!」

「な……ッ!? サディラの債権、だと……!?」オズヴァルトの顔が、一瞬で狼狽に歪んだ。完璧に組んだはずの借財の檻が、ミトたちの「旅の成果」によって、瞬時に相殺され、消滅したのだ。

しかし、オズヴァルトは簒奪の天才だった。彼はすぐさま青ざめながらも、最後の「血の特権」をめくって笑った。

「おのれ……だが、相殺されたとて、前当主が『当主の座を退く』と署名した退位届そのものは、有効だ! そして本国血統法では、直系に後継たる男子なき場合、分家の最長男子たるこの私が、自動的に第一位の当主権を得る! 財政がどうなろうと、ヴァルハイトの『名』と『座』は、私のものだ!」

「……ええ。そこまでは、あなたの言う通り、完璧な合法だ」ロウは静かに、けれどおそろしく冷徹に、手元の帳簿を閉じた。

「ですが、オズヴァルト様。あなたはヴァルハイトの『名』を握ったつもりでしょうが、この公爵家という機構の、最大の盲点を見落としている。我がヴァルハイトの家督は、古い法により、継承証の書き換えだけでは完成しない。家人・取引網・同格の名家が一堂に集い、新当主を公的に承認する――『承認の儀』を経て、初めて、当主は当主として、法的にも実質的にも機能する。そう、法そのものが、定めている」

ロウは、オズヴァルト自身が公示した『承認の儀』の日取りの触れ書きを、指さした。

「三日後ですね。……自信がおありのようだ。紙さえ握れば、人の頭は当然ついてくる、と。大いに結構。その承認の儀の真ん中に、あなたが二度と立ち上がれない、周到な『法の罠』を、仕掛けて差し上げましょう」

ミトがゆっくりと前に出て、扇をぱちんと開いた。名も財も、まだ半分剥がされた状態だ。けれど、彼女の目の奥には、かつてないほど鋭い「本物を見据える光」が灯っていた。

「オズヴァルト様。三日後、あなたご自慢の『紙の刃』が、どれほど脆く砕け散るか、楽しみにしていらっしゃいな」

嵐の都の中心で、すべてをかけた承認の儀への、数え日が、いま静かに始まった。


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