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嵐の前夜

本国へ向けて狂ったように疾走する馬車の中、車輪が立てる激しい駆動音だけが、室内に響いていた。砂漠の黄金も、白百合の学び舎も、遠い幻であったかのように、夜の闇へと置き去りにされていく。

窓の外を眺めていたミトは、ふと、膝の上で冷たくなっている自らの両手を見つめた。

「……お前の裁きこそ、ひと夏で溶ける氷よ。あの氷の老人の呪いが、どうしても胸から離れませんのね」ぽつりと漏らした彼女の声は、かつてないほど小さかった。「わたくしたちが旅先で置いてきた数々の是正は、本当に根づいたのかしら。賽の国で、ゴーシュに丸投げした領民たちの、誰かに決めてもらわねば、というあの顔は……本当に変わったのかしら。確かめる間もなく、わたくしたちは、我が家を襲った嵐に向き合わねばならない。印籠を奪われ、財を凍結されたわたくしたちに、いったい何ができるというの」

完璧な公爵令嬢の仮面の裏に隠されていた、十九歳の少女の、剥き出しの不安。その時、向かいに座るロウが静かに、けれど明確な力強さをもって、書物を閉じた。

「ミト。確かに我々は印籠を奪われ、財も凍結されるでしょう。ですが、忘れないでいただきたい。オズヴァルトが本国でいかに完璧な紙の檻を組もうとも、彼が奪えるのは、記号としてのヴァルハイトだけだ」

ロウは眼鏡の奥の目を、かつてないほど鋭く光らせた。「我々はこの数ヶ月の旅で、ただ遊興に耽っていたわけではない。ロサリスで『労働の実数』を掴み、サディラで『水利の前提条件』をひっくり返し、礼華宮国では『泥まみれの実務』の強さを知った。名や仕組みという檻の限界を知り、その底にある『人間の実質』を学んできた。……彼らが手続きで書き換えられる帳簿の中に、我々が巡ってきた国々で泥を払って稼いできた、あの『実務の経験』は、一文字たりとも記述できやしない。それだけは、誰にも奪えないのですよ」

その言葉に、御者台と客室を繋ぐ小窓から、カクとスケが顔を覗かせた。二人の顔に、かつての甘えや怯えは、もうなかった。

「おうよ、お嬢様! 霧の国や仮面の国でアレが効かなくなった時、俺たちはただのガヤじゃねえ、お嬢様の手足となって現場を回す玄人だってことに、気づかされたんだ。ヴァルハイトの名が使えねえなら、今度は俺たちのこの実務の腕一本で、お嬢様を支えてみせる!」

「そうだぜ、カクよ。本国のオズヴァルトだか何だか知らねえが、数字だけで人間を歯車みたいに管理しようってなら、俺たちが旅先で叩き込んできた泥臭い現場の底力で、その小綺麗な書類ごと、ひっくり返してやろうじゃねえか!」

二人の力強い言葉に、ミトの胸の底に沈んでいた冷たい小石が、ふっと熱を帯びて溶けていくのを感じた。手元にある漆の箱の中の紋章を、そっと撫でる。今やこの徽章は、ただの権威の象徴ではなく、四人が共に戦い、実質を積み上げてきた絆の証へと、昇華されていた。

「……ふふ。頼もしいことですわね、みんな」ミトはゆっくりと、いつもの完璧な、けれど今度は甘さのない、より深い戦意に満ちた微笑みを浮かべて、扇を開いた。

「印籠も財も屋敷も、剥ぎ取れるものなら剥ぎ取ってみせなさいな、オズヴァルト様。すべてを失った底で、最後に残る『本物』がどちらなのか――本国の真ん中で、とくと値踏みして差し上げますわ」

四人の心が、嵐の夜の暗闇の中で、完璧に一つへと結束した。地平の先、不穏な雷雲が渦巻くヴァルハイト本国の灯りが、いよいよ間近に迫っていた。


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