賽の目の玉座
雪の離宮の白さも、令嬢学園の白百合も、遠い記憶になりかけた頃。馬車は、大陸の西端に位置する奇妙な国へとたどり着いた。
街道の関所からして、もうおかしかった。通行料を取る役人が、旅人の前で、おもむろに賽を振るのである。「……出目は六。はい、では本日の通行料は、六十文になります」「お、おとといは二十文だったではないか!」通りがかりの商人が抗議する。役人は心底すまなそうに、けれど涼しい顔で肩をすくめた。「おとといは二の目でしたので。これはわたくしどもが決めているのではございません。運命が、賽が決めることでして」
「……ずいぶんと、運否天賦な国ですこと」とミトが馬車の窓の外を眺めて呟いた。向かいの席のロウが書物から顔を上げる。「“運命が決めた”――便利な言葉ですね。決定を非人格な機構に外注すれば、誰も決めた覚えがないことになり、誰も責任を負わずに済む」
この国を治めるのは、「賽の領主」と呼ばれる男だった。税も、刑罰も、訴えの裁きも、何もかもを、自らの指先で転がす賽の出目で決める。「余の意志ではない。すべては運命が、賽が決めること」――それが彼の口癖であり、統治の作法だった。もっとも、賽が転がるたびに領主の指先がほんの少し都合よく動いているのを、皆、薄々知っていた。けれど、口にはしない。「運命のせい」にしておけば、領主を正面から恨む筋がなくなるからだ。彼は権力と、やましくない顔とを、同時に握っていた。
* * *
その日、領主の館の広間では、ひとりの老農夫が平伏していた。「お、お願いでございます。今年は不作で……どうか、年貢の、お慈悲を」
「ふむ」玉座の上で、賽の領主は退屈そうに、金箔の貼られた特製の賽を一つ、つまみ上げた。「では、運命に聞いてみようではないか。一から三なら、お情けで免除。四から六なら、罰として倍取り立て。――よいな? これは余が決めるのではないぞ。賽が決めるのだ」
領主の指先が艶めかしく動き、賽が転がる。出目は――五。「ああ、残念。倍取り立てだ。恨むなら、運命を恨め」
老農夫が青ざめてくずおれるなか、広間の隅で、ひとりの古参の徴税吏――ゴーシュという男が、打算と諦めの混じった目で帳簿を閉じるのを、ミトは見逃さなかった。
そこへ、旅装のミトがロウを従えて、広間へと堂々と進み出た。女学院での凡庸の仮面は、もう脱ぎ捨ててある。「なんだ、貴様らは。賽も振らずに勝手に入ってくるとは」領主が不快げに顎をしゃくる。「衛兵、こやつらをつまみ出――」
その時だった。ミトの背後に控えていたカクとスケの目が、きらん、と狼のように輝いた。砂漠で居直られ、霧の国で一蹴され、女学院では出すことすら許されなかった、あの「牙」を剥く瞬間が、二カ国ぶりに訪れたのだ。ミトの扇が、すい、と上を向く。今こそおやりなさい、の合図。
「待ってましたァァァーーーッ!!!」
カクとスケが、ほとんど感極まった咆哮を上げながら、前に飛び出した。
「ええい、頭が高いッ! 頭が高あぁいッ!! こちらにおわすお方をどなたと心得るッ!」カクが懐から、うやうやしく漆の箱に収められたヴァルハイト公爵家の紋章器を、これ以上ないほど高々と掲げた。
「建国の元勲! 世界最大の財閥を束ねる、ヴァルハイト公爵家が御息女――ミト・フォン・ヴァルハイトお嬢様に、あらせられるぞッ!!」
ミトが上着の袖を軽く翻すと、裏地で、薔薇と鍵の金糸の紋章が、館の灯を弾いて燦然と輝いた。
その名と紋章が響いた瞬間――。「ヴ、ヴァ……ヴァルハイト公の……!?」賽の領主の顔から、すうっと血の気が引いた。彼は玉座を転がり落ちるようにして、床にガタガタと額をこすりつけた。「は――ハハーッ! こ、これは恐れ入りました! 知らぬこととはいえ、世界最大の財閥の姫君に、不調法を! 何なりと、何なりとお申し付けくだされ!」
カクとスケが、あまりの効き目の良さに、背後でボロ泣きしながら、互いの袖を握り合っていた。
「……効いた、効いたなあ、スケよ! 二カ国ぶりのアレだ……!」「絶品ですな、カクよ! やっぱりアレは、最高のご馳走だ……!」
ミトは平伏する領主を、静かに見下ろした。名乗れば、頭が下がる。あの女学院で名を伏せて戦ったからこそ、逆に、この印籠が持つ圧倒的な権威の重みと、それによって一瞬で人をひれ伏させる快感が、大広間を支配した。
だが、ミトの隣に立つロウだけは、やはり笑っていなかった。彼の冷徹な目は、領主が落とした賽と、平伏する領主の指先を、じっと見つめていた。
「……ミト。やはり、印籠は相手の頭を下げさせる。ですが――それだけだ。あなたが去れば、この男はまた『運命のせい』にして、この国を転がす賽の仕組みを繰り返す。名乗りだけで直せるのは、相手の不作法だけ。……この国の歪んだ仕組みそのものを直すには、やはり別の論理が要ります」
「ええ、わかっておりますわ、ロウ」ミトは扇を閉じた。「では、この男から、その便利な『運命の隠れ蓑』を、毟り取って差し上げましょうわ」
旅はいつも通り、ここからロウの法理が、この国の歪んだ仕組みを解体していく――はずだった。
その時である。館の大扉が、物凄い音を立てて弾け飛んだ。広場じゅうが騒然とするなか、街道の向こうから、一頭の早馬を乗り潰した使者が、土煙を上げて大広間へと駆け込んできた。その身に纏うのは、見慣れたヴァルハイト公爵家の急使の制服。だが、その顔は死人のように蒼白だった。
「み、ミトお嬢様……! ロウ様……! 本国より、緊急の、緊急の伝令にございます……!」使者はミトの前にすがりつくように倒れ込み、泥と汗にまみれた一通の書状を差し出した。
ロウが鋭い手つきでそれを受け取り、封を切る。正式な執務記録の魔導刻印をなぞり、読み進めるにつれて、いつも平坦な彼の横顔から、すうっと感情が消え、凍りついていった。
「……ロウ? どうかいたしましたの」ミトが眉を寄せた。
ロウはすぐには答えなかった。彼は、信じられないというように、その書状に記された「法的な手続きの記録」を、何度も読み返した。そして、掠れた低い声で、信じがたい事実を告げた。
「ミト様。……本国で、分家のオズヴァルト・フォン・ヴァルハイトが、動きました」
「分家……? 学園の後援者名簿に名を連ねていた、あの?」
「ええ。彼らは、あなたが留守にしていたこの数ヶ月の間、秘密裏に枢密院を動かし、公爵家の『家督継承証』の書き換え手続きを完了させました。……呼び戻された古い多額の借財、差し替えられた相続の証。そのすべてが、一滴の血も流さず、一枚の法も破らず、完璧に“合法に”整えられている」
ロウは、書状を握りしめる指を、白くなるほどに強く震わせた。
「ヴァルハイト公爵家の当主の座、その全財産、土地、そして――あなたの持つ『ヴァルハイト』という家名そのものが、今この瞬間、法的に、あなたから奪われようとしています」
大広間が、悲鳴のような静けさに包まれた。カクとスケが、掲げていた紋章器を落としかけ、我が目を疑うように使者を見つめた。
紙で。剣を一本も抜かず、毒を一滴も盛らず。たった一束の書類だけで、世界最大の名家が丸ごと、奪われようとしている。この賽の領主が出目に隠れて責任を逃れていたように、本国では「合法」という非人格な機構の陰に隠れた簒奪の天才が、ミトたちの本拠を乗っ取ったのだ。
ミトは、手にした扇を、強く握りしめた。ぱちん、と閉じる音だけが、不気味なほどはっきりと響く。名を伏せて勝つことを、彼女はあの白百合の学園で学んだ。けれど、これから彼女が直面するのは――その名すら根こそぎ奪われた、剥き出しの戦いだった。
「……戻りますわよ、ロウ。わたくしたちの家を、その紙の刃とやらから、毟り戻しに」
発つ前に、ミトはただ一つだけ、済ませた。
平伏したままの領主の手から、金箔の賽を、そっと取り上げる。それだけだった。
「これは、もうあなたのものでは、ございませんわ」彼女は静かに言った。「運命のせいにする道具は、もう、ございません。――今日からこの国の年貢も、刑も、水の割り当ても、あなた方が、ご自分で、お決めなさいな」
賽が消えた、というそのことに、領民たちは、わっと沸いた。長く自分たちを縛ってきた出目が、消えたのだ。喝采が、広間を満たす。
けれど、その喝采の隅で。古参の徴税吏ゴーシュだけが、ひとり、青ざめていた。決める道具が消えたあと、その『決める』を、明日から誰が背負うのか。それを、この実務の男だけが、正確に理解していた。
ミトは、その顔に気づかなかった。気づく間が、なかった。本国の嵐が、待っていたから。
「……後始末を、ゴーシュとやらに、丸投げしてしまいますわね」馬車に乗り込みながら、ミトはかすかに眉を曇らせた。「いつか、必ず、確かめに戻らねば。――でも、今は」
賽の目の玉座を後にして、馬車は急転直下、嵐の都へと向きを変えた。




