承認の儀
承認の儀の朝が来た。
ヴァルハイト邸の大広間は、かつてないほどの人いきれで満ちていた。居並ぶのは、グレーバーをはじめとする家人の群れ。都の経済を文字通り動かしている、古い取引網の長たち。そして、ヴァルハイトと同格である、本国の名家当主やその名代たち。
新しい当主が、公爵家という巨大な実務機構を本当に動かせるのかを「公に承認する」ための、古い本国法が定めた、絶対の儀式。
その上座に、オズヴァルト・フォン・ヴァルハイトが座していた。膝の上には、あの完璧に整えられた継承証の一切が抱えられている。彼は満ち足りた顔で、広間を見渡していた。紙が当主を作る。ならば、この儀など、自らの勝利を飾る、ただの形式的な追認にすぎない――彼は、そう確信していた。
広間の隅に、ひとりの娘が立っていた。
名もなく、財もなく、屋敷も追われ、掲げても誰も平伏しない紋章しか持たぬ娘。ミトだった。けれど――その佇まいは、奇妙なほどに静かだった。
完璧な令嬢としての隙のないお化粧も、扇の陰の計算された微笑みも、もうそこにはない。代わりにそこにあったのは、守るべき「看板」をすべて剥ぎ取られた者だけが持つ、おそろしく澄んだ、ただのひとりの人間の輪郭だった。
ロウのくれた「素のまま、おなりなさい」という言葉を、彼女はその身ひとつで体現していた。口をつぐんでいた人々が、破滅を賭してまで自分の側に立つかどうか、その答えはまだ開いていない。けれど、もう、それはどちらでもよかった。残るのは自分自身、それだけで立てる。
* * *
「では」オズヴァルトが傲然と立ち上がった。「承認の儀を始める。皆の者、新たなヴァルハイト当主に――」
「お待ちくださいまし」
静かな声が、大広間をすっと通った。ミトが隅から、ゆっくりと中央へ歩み出る。ざわ、と場が揺れた。
オズヴァルトは鷹揚に微笑んだ。「ほう、往生際が悪いか、ミト嬢。よかろう。敗者の弁を認めてやろう」
ミトはオズヴァルトの前まで進み――そして、誰もが予想しなかった行動に出た。継承証の穴を突くような抗弁も、対抗の証文を出すことも一切せず、静かに、こう告げたのだ。
「オズヴァルト様。あなたはすべての紙をお持ちです。法も、名も、財も、屋敷も、紋章も。一枚残らず、あなたのもの。――わたくしはそれをすべて、今この場で、公式にお認めいたしますわ」
完全な降伏宣言。広間がどよめき、オズヴァルトの口元が、勝ち誇りに歪む。けれど、ミトはそこで終わらなかった。彼女はくるりと振り返り、オズヴァルトではなく、居並ぶ家人や取引網の長たちの目を、まっすぐに見据えた。
「ですから、皆さま。彼に従いなさい。中身のない『紙』に仕えるのが正しいと、それがあなた方の生き方だとお思いなら。それで、よろしいのです」
ミトは、自らの空っぽの両手を、皆の前でわずかに開いてみせた。
「ただ、一つだけ。――わたくしには、もうあなた方に差し上げられるものが、何ひとつございません。名も、財も、地位も、後ろ盾も。ですから、もし、いまわたくしのほうへ来てくださる方がいらしても……その方は何の得もなく、ただ『破滅』だけを背負って来るのですわ」
しん、と広間が、水を打ったように静まり返った。
さらにミトは、旅路で懐へ仕舞い込んできた、あの無数の羊皮紙の写しを、静かに大広間の卓へと広げた。
「これは、わたくしたちが巡った国々の、実務の記録ですわ。ロサリスの歪んだ労働、サディラの人を物と数える慣習、礼華の形式、リリウムの人形工場。オズヴァルト様。あなたが施そうとしている『人間をただの数字と名簿として扱い、角を削る統治』が、いかに数年で組織を腐らせ、立ち行かなくなるか――この旅の記録が、完璧に証明しております。中身を、人を、実務を見ないあなたの完璧な仕組みは、数年と経たずに、我が家を致命的な破滅へと導くでしょう」
彼女の言葉は、かつての傲慢な断罪の響きではなく、泥にまみれ、名なき悪意と戦ってきた者だけが持つ、圧倒的な実務の説得力を帯びていた。
「どうぞ、ご自由に、お選びくださいまし」ミトは微笑んだ。完璧な仮面を脱ぎ捨てた、素の微笑みだった。
握るのではなく、譲って、完全に放す。それが、名もなき彼女が放った、たった一つの「手」だった。




