凡庸という仮面
馬車の窓の外を、見慣れぬ「白」が流れていた。丘の上に建つ、白い回廊と尖塔を幾重にも連ねた、令嬢教育の最高峰――リリウム女学院。
「……ずいぶんと、お行儀のよさそうな建物ですこと」
旅装をほどいたミト・フォン・ヴァルハイトの呟きに、向かいの席のロウが、一通の書簡から顔を上げて応じた。
二人がこの学び舎へ向かうことになった経緯は、いつもの旅とは、少しばかり毛色が違っていた。きっかけは、雪の離宮を発って間もなく、ロウのもとへ届いた一通の訴えだった。差出人は、かつて礼華の門前で世話になった商人の、遠縁にあたる女。娘をこの女学院へ入れたところ、半年で、まるで別人のように「磨かれて」戻ってきた――いや、戻ってきたのは、娘の顔をした、よくできた人形だった。そう書かれていた。
「磨く、ですか」と、ミトは眉を寄せた。「人を、品のように」
「ええ。そして、この女学院の評判は、恐ろしく良い。卒業生はこぞって名家へ嫁ぐ。親は感謝し、世間は称える。――誰ひとり、損をしていないように、見える。だからこそ、覗いてみる値打ちがあります」
問題は、その「覗き方」だった。
「いつものように、堂々と乗り込むのは無理ですわね」ミトは自分のことながら、ため息まじりに言った。「“他国の宮廷で愚者を裁いて回る公爵令嬢”――その噂はもう、わたくしより先に着いておりますもの」
正面から門を叩けば、女学院は一夜で見栄えを整え、磨かれた人形たちは奥へ隠され、ミトの前には、ただ清らかな白百合だけが並ぶだろう。だから今度は――名を伏せる。
「あなたは地方の小領主の娘『ミト』として、編入生に。家名は出さない」ロウは淡々と段取りを述べた。「私は、急病で倒れた教師の代理に、臨時で潜り込みます。幸い、書簡作法の講師が一人、欠けたところでしてね」
「臨時教師のロウ……」ミトは扇の陰で、少しだけ面白そうに目を細めた。「似合いませんこと」
「似合う必要はありません。怪しまれなければよろしい。むしろ似合わないほうが安全です。誰の記憶にも残らない、平凡な代理講師――それがいちばん、潜りやすい」
「あら」ミトはつい、得意げに胸を張った。「では、わたくしの番ですわね。任せてくださいまし。わたくし、こう見えて、誰の目にも留まらない、平凡な編入生を、見事に演じてみせますわ。きっと誰ひとり、わたくしのことなど、気にも留めませんことよ」
ロウは書簡から目を上げず、ただ一言、平坦に返した。
「無理でしょうね」
「……なぜですの」
「あなたは厚かましいので」
「厚かましっ……!?」
「黙って立っていても、いちばん前にいるように見える。それが、あなたという人です」ロウはようやく顔を上げ、ごく真面目に言った。「だから、努力してください。せいぜい、二番目あたりに見えるように」
ミトが何か言い返そうと口を開きかけたとき――御者台のほうから、ひそひそと、抑えきれない声が漏れてきた。側近のカクとスケである。
「のう、スケよ」とカクが、待ちきれぬとばかりに身を乗り出す。「雪の離宮であれだけ効かせた、アレが……今回も、できるのではないか」
「アレですなあ、カクよ」スケも、うずうずと手をこすり合わせる。「お嬢の、アレをひとつ……」
二人の手はもう、懐の紋章器のあたりを、そわそわと探っている。
「いけません」ロウが静かに、しかしぴしゃりと止めた。「今回は名を伏せる旅です。アレを出した瞬間、すべてが終わります」
「な……アレ、なし!?」
「アレ、抜きですと!?」
カクとスケが、世界の終わりのような顔で、顔を見合わせた。
「うう……ならば、せめて、心の中で……」
「振りだけでも、ひとつ……」
「いりません」
名を封じられた側近二人を乗せ、馬車は白百合の門を、静かにくぐっていった。
* * *
リリウム女学院の中庭は、完璧に磨き上げられた令嬢たちが、互いを値踏みし合う、笑顔の品評会だった。その頂点に君臨する女王、ヴィオレッタ・ダルトワが、回廊の隅に立つ地味な編入生ミトを捉え、扇の陰で目を細めた。
「あら、見ない顔ね。家名は?」
「……ミト、と申します。ささやかな、地方の家ですので」ミトは極力慎ましく頭を下げた。
「そう。聞いたこともないわ。あなたのお辞儀、肩がほんの少し、力みすぎているわね。田舎の流儀かしら」
ヴィオレッタが上品に、くすくすと笑う。
(……肩が、力みすぎ? このお辞儀は、ヴァルハイトの礼法師が三代かけて練り上げた、大陸最古の完璧な作法ですけれど……)
そう思った刹那、ミトの背筋が自然とすっと伸び、地味な衣服のまま、圧倒的な「格」の輪郭が現れかけた。ヴィオレッタの笑みが、かすかに止まる。ミトは慌てて、また肩をすぼめてみせた。凡庸を演じるというのは、各国の愚者を裁くよりも、遥かに骨が折れる仕事だった。
その日の午後、ミトは立ち入りを禁じられた回廊の奥で、この学び舎の「本当の顔」を覗くことになった。ひとりの少女――リネットが、交易と均衡を論じた政治経済の書を手に、うつむいて立たされていた。その前に静かに立っていたのは、豊かな白銀の髪を結い上げた、一片の隙もない気品をまとう女傑――理事長セヴリーヌだった。
「リネット。またこんな書物を。意見を言う娘は、可愛げがないと疎まれます。あなたがその頭の良さを誇らしげに見せるたびに、あなたを娶ってくださる名家は、ひとつ、またひとつと減っていくのですよ」
セヴリーヌの声は、心の底から温かかった。
「わたくしは、あなたがたを幸せにしたいのです。良い家に嫁ぎ、愛され、守られる。そのために、わたくしは、あなたがたの要らぬ角を削ってさしあげているのです。痛みますか? ええ。けれど、削られた木だけが、上等な家具になれるのですよ」
リネットは答えず、ただ手の中の書物を、ぎゅっと握りしめていた。セヴリーヌが去ったあと、ミトは柱の陰から、静かに息を吐いた。
(……なるほど。これが、この学び舎の、いちばん怖いところですわね)
ここには、あからさまな悪人がいない。理事長は心の底から娘たちの幸せを願い、善意で「考える頭」を削っているのだ。
ミトはそっと歩み出て、リネットの手に、値踏みのない、ただの一粒の甘い飴を押しつけた。「これ、落としましたわよ」自分の値を測られ、削られることばかりだったリネットの目の奥に、小さな火が灯った。
* * *
その夜、学院の客間に戻ったミトは、忍んできたロウと、ひそやかに頭を突き合わせていた。
「あの理事長は、自分を善人だと信じきっておりますわ。印籠を掲げて『裁いてやる』と凄んだところで、ここには明白な悪人がいない」
「ええ。だからこそ、今回は名を伏せたまま、あなたの『目』と、私の『実務』で勝たねばならない」
臨時の書簡作法教師となったロウには、卒業生の名家への挨拶状を管理する雑務が割り当てられていた。ロウはその過程で、女学院の裏に隠された「操業台帳」を、探り当てていた。
「ミト、あのセヴリーヌという女がやっているのは、慈愛の教育などではない。単なる、人形を磨き直して売り回す商い――『計画された使い捨て』ですよ」
「……どういうことですの、ロウ」
「彼女は、その時代の上位名家が好む従順さの流行を読み、娘たちをその型に完璧にはめて出荷している。だが、流行は数年で変わる。意思を持たぬよう脳の角を削られた娘たちは、嫁ぎ先に危機が訪れた際、自力でそれを切り抜け、婚家を支える力――すなわち実務が皆無だ。結果として、彼女たちは最初の嵐で真っ先に『不良債権』として、実家や学院へ戻される。そしてこの理事長は、戻ってきた彼女たちを『再教育』の名で磨き直し、二線級の別の家へ、安値で売り直している。恥の記録は、商売の都合上、成功の記録と同じ台帳に、融けて綴じられているのですよ」
ミトの表情が、すっと冷たくなった。善意を装った、冷酷な循環。
「記録を残しましょう。明日の『披露の宴』――彼らが完璧な製品を並べる、その品評会の真ん中で、この完璧な檻の論理を、叩き潰す」
ロウはそう言って、手元の書類を丁寧に揃えた。その時、彼の指が、女学院の後援者名簿の一覧に触れて、止まった。代々この学院に多額の寄進をしている、旧い血筋の一覧。そこには――ヴァルハイト本国の宮廷の奥深くで、近頃静かに勢力を伸ばしているという、ある「分家」の名が、ひっそりと在った。
ミトとロウの視線が、一瞬、交わった。
「……今は措きましょう。見るべきは、この花嫁工場のほうです」ロウは静かに名簿を閉じた。
だが、その「それだけのこと」が、ミトの胸の底に、冷たい小石のようにひとつ、沈んで残った。名を伏せ通さねばならぬ理由が、ここにもまた一つ、深く潜んでいたのだ。




