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溶けぬもの

その夜、氷の大広間で、大公ヴィンターは自慢の客を、自慢の宮殿でもてなした。集まったのは、いずれ劣らぬ古い血筋の貴族たち。新しく彫り上げられた氷の彫像が、燭の光を吸って青白く輝いている。そして大公は、満座の血族を前に、わざわざミトを引き合いに出した。

「諸君、ご覧あれ。これが近頃の“客人”だ」彼は旅装のミトを扇で示して嗤った。「名も知れぬ、旅の女。血の系譜も、家の格も、何ひとつ示せぬ。かような者が平気で、高貴の宴に紛れ込む。――おい、旅の女。お前の家は何代続く? 言うてみよ。言えまいがな」

血族貴族たちが、どっと嗤った。

カクとスケの、こめかみが、ぴくぴくと痙攣した。

「……スケよ」

「……カクよ」

「もう、よかろう」

「よかろうなあ。……お嬢様」

ミトは扇の陰で、ふっと、息を吐いた。長い旅だった。鏡の国で侮られ、砂漠で名乗りを封じられ、霧の都で名を捨てた。けれど、この国は違う。この国は、血を、名を、何より崇める。ならば――。

(……ええ。今度ばかりは。存分に、おやりなさいな)

彼女の扇が、すい、と上がった。合図だった。

待ちかねた二人が、弾かれたように進み出る。その声が、氷の天井を震わせた。

「ええい、頭が高い! 頭が高あい――!」カクの声が轟いた。「血の系譜だと? 家の格だと? こちらにおわすお方をどなたと心得る!」

「建国の元勲! 世界最大の財閥を束ねる、ヴァルハイト公爵家がご令嬢――ミト・フォン・ヴァルハイトお嬢様に、あらせられるぞ――!!」

ミトの旅装の袖が翻る。その裏地で、薔薇と鍵の金糸の紋章が、氷の光を弾いて、燦然と輝いた。

刹那。血を崇める者たちが、雪崩を打って平伏した。

それは、この旅で最も見事な平伏だった。当然だった。彼らは、血を、家格を、何より崇める者たち。ならば――この大陸で最も古く、最も重い血の前では、額を氷の床に擦りつける以外に、できることなど、ありはしない。誇り高き大公ヴィンターその人が、誰よりも深く崩れ落ちていた。自らが信奉する“血の理”に、自ら縛り首にされたかのように。

「ヴァ……ヴァルハイト公の、ご息女とも知らず……数々の、ご無礼を……!」

型は、完璧に決まった。――けれど、今宵の裁きは、ここからもう一段、深い。

平伏の、その余韻のなかへ。ロウが静かに進み出た。

「大公どの。あなたは今、古き、重き名に、頭を垂れられた」その声はいつもの平坦さだった。「では――せっかくですから。ご自分の名がいま、いくらの値打ちか。お教えいたしましょう」

大公が平伏したまま、訝しげに顔を上げる。

「あなたは消えゆく氷に、毎年、惜しみなく財を注ぐ。それを高貴の証だと、誇っておいでだ。――ですが、妙ですね」ロウは一巻の帳簿を開いた。「この宮殿の氷を毎年一から築く費え。それはここ十数年、この御家の総収入を、ずっと上回っております。入るより、出るほうが多い。では、その差を、あなたは何で埋めてこられた?」

大公の顔が、こわばった。

「“残るもの”を売って、です」ロウは淡々と、もう一枚を抜いた。「領地。家宝。代々の、永く残る家産を一片ずつ手放して、その金で“消える”氷を買ってきた。血の永続を溶かして、ひと夏の荘厳に変えていた」

そして、彼は最後の一枚を掲げた。売券だった。

「これは今年の氷を賄うために売られた、貴家始祖の銀鹿。氷ではない、ただひとつ、永遠を象徴する銀の像。――その売券です。押されている印は」ロウはそれを大公の前へ、そっと置いた。「あなたご自身の、ものですね」

しん、と、広間が凍りついた。

「あなたの浪費は、確かに何かを証明しておりました」ロウは静かに言った。「――もう、浪費できるものが、何ひとつ残っていないことを」

「そして、その銀鹿をいま、客間に飾っておられるのは」彼はわずかに目を伏せた。「あなたがかつて『血も知らぬ成り上がり』と、玄関先から追い返された――塩の商人だ、と聞きます」

大公の、誇りという添え木が、音を立てて折れた。血を崇め、商人を蔑んだ男。その男の血の遺物が、いまや、蔑んだその商人の客間に飾られている。彼の思想そのものが、彼を貫いていた。

ミトがゆっくりと進み出た。手には――ひとひらの、氷のかけら。オーレンが捨てた、あの失敗作だった。

「大公。あなたの、今年ご自慢の、氷の彫像」彼女はそれを、傍らの壮麗な氷像と並べて掲げた。「――この、捨てられたひとかけらより、技が落ちておりますわ」

血族貴族たちが、息を呑んだ。目利きでなくとも、並べられれば、分かる。打ち捨てられた断片に刻まれた結晶のほうが、命じられた壮麗より、はるかに生きていた。

「あなた方の家はもう、本物を作らせる金がないのですわ。だから、量と、見栄で、ごまかしている。目のある者には――この荘厳は、ただの倹約のお化粧にしか見えませんのよ」

ミトは彫像の陰で、霜焼けの手を握りしめて立つ名工を、振り返った。

「オーレン。あなたに、伺いますわ」彼女は柔らかく言った。「あなたはなぜ、これをお捨てになったの」

オーレンは長いこと、黙っていた。それから、かすれた声で、ぽつりと言った。

「……命じられたのは、大きく、見栄えのする、立派なものでした。これは……違います。ただ、わたしが美しいと思ったものを、彫っただけで。お屋敷の役には、立ちません。だから、捨てるしか――」

「いいえ」ミトは静かに首を振った。「これだけが、この宮殿で、ただひとつ――溶けたあとも、わたくしの記憶に残りましたわ」

オーレンの、霜焼けの目が潤んだ。

ミトは、平伏したままの大公を見下ろした。

「あなたは“残るものを作るなど、商人のすること”と、嗤いましたわね」彼女の声は冷たく、けれど、どこか哀しかった。「ご覧なさいまし。本当に消えてしまったのは、毎年溶ける氷ではなく――あなたの、その古き名のほうでしたわ。血の永続を誇ったあなたの血が、この国で、いちばん先に溶けた」

彼女はオーレンの氷片を、そっと掲げた。

「そして、あなたが蔑んだ、この職人の手だけが――この国で、唯一、“溶けぬもの”を作っておりましたのよ」

裁きは、淡々と進んだ。オーレンへの長年の未払い賃金――それ自体が、この家の破産の、動かぬ証拠の一つだった。恩人を救うことと、空っぽの名門を暴くことが、同じ一枚の帳簿の、表と裏だった。

ヴィンター家は、見栄の氷をやめることになった。代わりに、たとえ小さくとも、オーレンの手による、永く残る一作を。そして、宮殿を支えてきた職人たちへの、正当な報いを。監査は例によって、ヴァルハイト家が引き受ける。血ではなく、価値を生む手を敬うこと。実質と持続を、見栄の上に。それが、この白い国に置いていく是正だった。

橇が、雪原を戻っていく。

カクとスケが、ほくほくと満足げだった。

「スケよ……久々の、アレは効いたなあ」

「効いたなあ、カクよ。やはりアレは、ええものよ」

「スケよ。砂漠でも、霧でも、水の都でも、効かなんだ」カクの声が、ふと低くなった。「だがこの国は――血を崇める。だからアレが、いちばん効く」

「効かぬ国を、三つ越えて……ようやっと、ですなあ」

二人は、しばし、しみじみと頷き合った。効く喜びが、効かぬ心細さを知った者の、顔だった。

ミトは毛皮の奥で、小さく、ため息をついた。

「……結局、湯浴みは、できずじまいでしたわ」

「次は」とロウが書物をめくった。その指が、ふと止まる。「……少し、毛色が違います。国ではなく――名門の令嬢が集う、学び舎だとか」

「学園?」

「ええ。ただ……どうも、きな臭い噂が。少し、中を覗いてみる必要があるかもしれません」ロウはわずかに目を細めた。「――今度はこちらが、名を“伏せる”側に、なるかもしれませんね」

ミトは扇の陰で、ふと考えた。名を伏せる。これまで、名を封じられたことは、あった。けれど――自分から、伏せる。それは、どこか奇妙な感触だった。けれど、その感触の正体を、彼女はまだ知らない。

白い国が、雪の向こうに遠ざかっていく。溶ける宮殿と、溶けなかった、ひとひらの氷を残して。


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