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溶ける宮殿

白だった。

見渡すかぎり、白。空も、地も、境を失って、ただ白く凍てついていた。国境で馬車を預けた四人は、この国の差し回した橇に乗り換えている。白い大鹿が三頭、銀の息を吐きながら、雪原を音もなく曳いていく。鈴の音だけが、凍った空気に澄んで響いた。

「……寒い」

毛皮にくるまったミトが、鼻の頭まで埋もれながら、恨みがましく呟いた。

(涼しいのがよい、などと、どの口が申しましたかしら、わたくし)と、彼女は深く反省していた。(砂漠で焼かれ、ここで凍る。世界はわたくしを、ちょうど良い温度に置く気がまるでないのですわ。せめて、湯浴みを)

やがて雪の地平の果てに、それは現れた。塔も、回廊も、円蓋も、欄干の一本に至るまで――そのことごとくが、透き通った氷で築かれた宮殿。陽の光を吸い込んで内側から青白く発光し、無数の氷の彫像が、庭という庭を埋め尽くしていた。鏡の眩さとも、黄金の重さとも違う、凍てついた、息を呑むほどの荘厳。

「……これは見事ですわね」とミトも、さすがに認めた。

「ええ」とロウが低く言った。「見事です。――ただ、ひとつ、引っかかる。あれだけの氷の彫像。この国は夏になれば、すべて溶けるはずだ。なのに、なぜこれほどの数を」

その答えを、四人は間もなく、当の主の口から聞くことになった。

氷の大広間で四人を迎えたのは、痩せた、酷薄なほどに端正な老人だった。古びてはいるが、一分の隙もない毛皮の礼装。背筋は、誇りという名の添え木で、まっすぐに伸びている。雪と古格の国を統べる、名門ヴィンター大公家の当主、大公ヴィンター。その目がミトの旅装を捉えた瞬間、すっと温度が下がった。

「……旅の装いとは。これはまた、ずいぶんとつましいご身分の客人がいたものだ」大公は薄く嗤った。「近頃は、金を持っただけの成り上がりが増えて困る。血の重みも知らぬ者が礼装の真似事をして、宮廷を汚す。――まあ、旅装でおいでなら、いっそ清々しいがな」

カクとスケの肩が、ぴくり、と跳ねた。聞き覚えのある侮辱だった。ロサリスの、あの夜会と、同じ匂い。

「カクよ」スケが待ちかねたように囁いた。「これは……アレの、出番では」

「アレだな、スケよ。久しぶりの、アレだ。血が騒ぐぞ」

二人の手が勇んで懐へ伸びる。だが、ミトの扇がすい、と横に振られた。

(……まだですわ。今度の方は、よくよく、その“血”とやらがお好きらしいから)

ミトは答えず、ただ広間を見渡していた。窓の外に並ぶ、氷の彫像の群れを。

「ご立派な、氷のお庭ですこと」と彼女は静かに言った。「けれど――夏になれば、溶けてしまうのでしょう?」

「溶けるとも」大公はむしろ誇らしげに、胸を反らした。「毎年、夏に溶け、冬にまた、一から彫らせる。何百年も、そうしてきた」

「……まあ。それは、もったいないこと」

「もったいない?」大公は心底おかしそうに笑った。「逆だ、お嬢さん。残るものを作るなど、商人のすること。――溶けて消えると分かっているものに、惜しみなく人と時を注がせ、それを毎年、繰り返せる。その“無駄”をこそ、我が血は誇りとする。消えるものを作らせ続けられること。それこそが、真の高貴というものだ」

「……ずいぶんと、寒々しい誇りですこと」

「ほう。では、問おう」老人の目が、ひたとミトを捉えた。それまでの侮りとは、別の温度だった。「聞けば、お前は各国を巡り、領主を裁き、宮廷を正して回っているそうだな。さぞ気分がよかろう。――だが、その裁き。お前が去ったあと、どれほど残る?」

ミトの扇が、わずかに止まった。

「鏡の国の宮廷。砂漠の王の慣習。一晩で正したものが、一年後も、お前の置いたとおりに在ると、本気で思うておるのか」大公はゆっくりと氷像を撫でた。「人は元の形に戻る。水が低きに流れるようにな。お前の裁きこそ――ひと夏で溶ける氷の彫像よ。消える美を蔑むお前が、いちばん消えるものをばら撒いている。違うか」

しん、と、ミトの内心が静かに冷えた。

(……ロサリスの王子は、誰が磨いているかを知らなかった。この方は知ったうえで、消える美に人を注ぎ込み続けている。無知ではなく、確信犯。――よほど、たちが悪いこと)

大公という男は、確かにたちが悪い。それは裁けばよい。けれど、いま、この老人が放った問いだけは――男から切り離して、後に残った。

お前の裁きこそ、ひと夏で溶ける氷ではないか。

鏡の国に置いてきた是正は。礼華の堤は。あれはいま、どうなっているのだろう。すぐには、言葉が出てこなかった。返せないのではない。ただ、彼女がただの一度も自分に問うてこなかった一点を、その問いは、正確に突いていた。

人がひれ伏すのは、この旅装の下の紋章ゆえか。それとも、わたくし自身ゆえか。

初めて彼女は、自分の扇の手応えが、ほんの少しだけ頼りなく感じられた。その正体を、彼女はまだ知らない。知るのは、もっとあとだ。すべての名と、財と、紋章を剝がされた、いちばん底で。

その、氷の彫像の群れの片隅で。ひとりの男が黙々と、鑿を振るっていた。粗末な綿入れ。霜焼けで赤く割れた指。けれど、その手から生まれていく氷の鹿は――いまにも雪原へ駆け出しそうなほど、生きていた。大公の誇る、どの壮麗な彫像よりも、その一頭には、息が通っていた。

「あれはオーレン」と傍らの侍従が声をひそめた。「先代からの、氷彫りの名工で。腕は北で随一。……だが、しがない平民の生まれゆえ、いくら彫ろうと、名は残らん。彫った端から、夏がすべて溶かしていく」

ミトは、その男の足元に目を留めた。割れて捨てられた、ひとかけらの氷。失敗作として打ち捨てられたそれは――けれど、欠けたその断面に、はっとするほど精緻な、雪の結晶の意匠が彫り込まれていた。命じられた壮麗のためではなく、ただ美しいものを作りたくて彫ったとしか思えぬ、ひとひら。

(……あれは、本物ですわ)と、ミトは思った。鏡の国でも、砂漠でも、霧の都でも、彼女が見つけてきたのと同じ光が、そこにあった。消える氷の下に捨てられて、それでも消えていない、まぎれもない価値が。

「ロウ」と彼女は囁くように言った。「あの方を、助けますわよ。――それと」

「ええ」ロウはすでに別のものを見ていた。氷の柱の根元に走った、細いけれど深い亀裂を。「この宮殿、外は荘厳ですが……あちこちに、ひびが入っている。修繕の手が追いついていない。氷を磨く人手も、明らかに足りていない」彼は声を落とした。「この御家――“血”は誇っておいでですが、その内実、思いのほか、傾いているかもしれません。少々、帳簿を覗かせていただきます」

ミトは扇の陰で、大公の、誇り高く反らされた背筋を見た。血を崇め、古格を誇り、けれど、その名の中身は――氷のように薄く、ひび割れているのかもしれない。名にすがって、中身が空ろになっていく者。

(……ずいぶんと、寒々しい生き方ですこと)

「カク。スケ」と彼女は後ろの二人を、ようやく振り返った。「もう少しだけ、その“アレ”を温めておおきなさいな。――今度の国はきっと、いちばん、効きますわ」

二人の目が、期待に、きらりと光った。

氷の宮殿の、溶けて消える荘厳のなかで。血の名だけが残り、中身の溶けかけた国で。いちばん効く印籠を、いちばん気持ちよく撃つための舞台が、静かに整いはじめていた。


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