消えない悪意
リーザの仕事場は、運河のいちばん奥、火の落ちた炉と、埃をかぶった硝子棒が並ぶ、ひどく静かな部屋だった。仮面の客が訪ねてきたと知って身構えるリーザの前で、ミトはゆっくりと自分の仮面を外した。
「わたくしは、名のない客ですわ」素顔のまま、彼女は言った。「けれど、あなたには素顔で参りました。嘘で来た者には、素顔は見せられませんもの」
リーザの目が潤んだ。久しく、誰も彼女に素顔を見せてはくれなかった。彼女が語った真相はこうだ。ある収集家に頼まれ、名匠セルヴィオの代表作――硝子細工「潟の月」の手入れをした折、それがセルヴィオの手によるものではない「贋物」だと、正直に告げた。すると数日後、「リーザが本物を贋物にすり替えて売り払った」という噂が、都に放たれたのだという。
「噂の最初の一人を辿りました」その夜、ロウが調べ上げた紙束を広げた。「匿名の告発は、都じゅうへ広がる道中で枝葉を落としましたが、私が辿り着いた“最初の一滴”の文書には、余計な一語が混じっていた。『満ち潮の夜に』――と。広まる過程で誰もが落としたその刻限、すなわち『盗人だけが知りうる正確な事実』を、最初の発信者だけが記述していた。道は、一人に通じています。名匠セルヴィオ。この都の硝子師の、頂点です」
さらに、ロウはその紙束の隅に、もう一つの奇妙な印を見出していた。
「……ミト。不穏なのは、セルヴィオがこの噂を流すために用いた、裏の伝達網です。本国の、それも我が公爵家の財政の隙間を狙う、ある『分家』の商会から、多額の資金がこの都へ流れている形跡があります。……出どころは、サディラの両替商。あの砂漠で、わたしが水利の控えとともに、そっと写し取ってきた金の流れと、同じ筋ですよ」
「分家……? まさか、お父様の周囲をうろつく、あの者たちかしら」
ミトは扇を固く握りしめた。敵の影は、すでにこの漫遊の裏で、静かに糸を引いている。だが、今は目の前の実質を正さねばならない。
三日後。水上の大広間で開かれた、品評の宴。銀の面をつけた名匠セルヴィオが都じゅうの賞讃を浴びる中心で、件の「潟の月」が披露されようとしていた。ミトには名乗りがない。仮面でも勝てない。だから彼女は、この都自身の、忘れられた古法を突きつけた。
「――対面の理を行使いたしますわ」
ロウが、古い水都の法の写しを高々と掲げた。「貴都の古き理に、こうございます。『告発されし者は一度だけ、告発者に、素面での対面を求めうる』。リーザ殿はあの日、面と向かっての申し開きを求めた。それはわがままではない、この都の法です」
宴の主は、否とは言えなかった。法は、そこにある。ミトはリーザを連れ立ち、「潟の月」の前へ進み出た。そして、展示された杯をそっと手に取ると、灯にかざした。
「仮面は、顔を隠せます。けれど――硝子は、作った者の手を隠せません。ご覧なさい。泡の流れ、縁の厚み、火の入れ方。この手は、震えながらも誇りを失わぬリーザの手ではございませんわ。これは、ある名匠の手。わたくしには、その名を読み上げられます。もし異論がおありなら、ご自分の確かな作を、この隣にお並べなさいまし。手を、見比べさせてくださいまし」
かつてヴァルハイトの地下倉庫で目利きを叩き込まれたミトの眼光が、硝子の実質を、白日の下に晒す。銀の面のセルヴィオが、嘲笑を漏らした。「名もなき、よそ者が。誰がお前の言を信じる」
「ええ。名はございません。けれど、目はございます」ミトは静かに頷いた。「あなたは体面で語り、わたくしは硝子で語る。――この場で、硝子を見ているのは、どちらかしら」
セルヴィオの面の奥の息が、乱れた。「ば、馬鹿な……すり替えなど、満ち潮の夜に行われたと、誰もが――」
言いかけて、彼は凍りついた。
「満ち潮の、夜」ロウが静かにその言葉を拾い上げ、セルヴィオを見据えた。「“誰もが”と、おっしゃいましたか。いいえ。いまこの都で『満ち潮の夜』と言える者は、もうおりません。その一語は、噂の過程でとうに振り落とされた。……最初の一滴だけが知っていた不都合な事実を、いま、あなたが口にした。最初に噂を放った口と、いま漏らした口が、まったく同じでしたね」
セルヴィオの銀の面がはらりと落ち、その下から、嘘の露れた男の顔が現れた。だが、ミトたちの勝利に広間が沸き立ったのも束の間、ミトはすぐに、奇妙な寒気を覚えることになる。
セルヴィオは失脚した。リーザの無実も、証明された。しかし、宴の終わり、仮面の群衆は蜘蛛の子を散らすように去りながら、ひそひそと囁き合っていたのだ。「セルヴィオが嘘つきだったとはね」「まあ、次の面白い噂を、誰かが流してくれるさ」「誰が本当で誰が嘘かなんて、どうでもいい。退屈がしのげればね」
都の空気は、何ひとつ変わっていなかった。仮面の下に潜む「匿名の悪意の仕組み」そのものは、名匠一人の没落など意に介さず、依然として、ビクともせずに機能し続けている。
ミトは、ぽつりと、冷え切った自分の両手を見つめた。
(……名前を奪われるというのは、これほどまでに寒く、理不尽なことなのですわね)
実質を以て、目で勝った。しかし、この都の底流にある歪みは、消えない。苦い余韻を胸に、名なき客は、水の都を後にした。




