名のない客
霧の国を出て、しばらく。馬車は、海と見まがう大きな潟のほとりに着いた。そこから先に、陸の道はなかった。四人は国境の宿場で馬車を預け、この国が差し回した一艘の船に乗り換えた。
ガラスの船だった。正確には、透き通った薄青の硝子で天蓋を葺いた、細長い小舟。漕ぎ手が長い櫂をひと差しすると、舟は水路の上を滑るように進みだす。無数の運河が街路の代わりに走り、橋が幾重にもかかり、水面には、色硝子の窓を灯した館が、さかさまに映って揺れていた。
水と硝子の都、ヴェネツィオ水都。
「綺麗……」とミトは思わず素の声を漏らした。鏡の眩さでも、黄金の重さでも、漆の厳めしさでもない。水に溶けて、揺らいで、消えそうな、儚い美しさ。
(……これは好きですわ)と、内心でも、正直に思った。(湯浴みのことを、少しだけ忘れられそう)
だが、その美しさに溶け込むように行き交う人々を見て、ミトの目はすぐに細くなった。広場を行き交う人々がみな、顔を隠しているのだ。色とりどりの、硝子と漆塗りの仮面。鳥の嘴のような面、涙のひと粒を描いた面、笑っているのか泣いているのか分からぬ面。老いも若きも、貴賤の別なく、誰もが素顔を隠して歩いている。
「この国では、公の場では仮面をつけるのが習わしです」とロウが書物から顔を上げた。「顔と名が隠れる国では、人は別のもので互いを測る。体面――すなわち、世間の『評判』や『噂』です。誰がどう言われているか。それがこの国では、その人そのものの価値になります。そして、その噂の出どころは、仮面の下に隠れて、決して分からない」
そのとき、舟が寄せた広場の片隅で、小さな騒ぎが起きていた。ひとりの若い女が、鳥の面をつけた一団に取り囲まれ、石畳の上で必死に訴えていた。
「違います、誓って、わたしは何も……! どうか、誰がそんなことを言ったのか、教えてくださいまし! 面と向かって、申し開きをいたします……!」
だが面のひとりは、冷たく嘲笑した。「申し開き? 誰に対して? 『皆がそう言っている』のですよ。それが、この都の答えです」
女は崩れ落ち、仮面がはらりと外れた。職人らしい娘の、素顔だった。通りがかりの面の男たちが声をひそめる。「あの娘はリーザ。硝子細工の職人だったが、依頼主の名品を贋物とすり替えて売った、という噂が立ってな。もう誰も仕事を頼まんよ。……噂の出どころ? さあ、誰も知らん。だが、皆が言っている。なら、本当なのだろう」
ミトは舟の上から、涙にくれるリーザの両手を、じっと見ていた。指の腹には細かな火傷の痕がいくつも重なり、関節は長年の細工で、わずかに節くれだっている。十二歳の折、地下倉庫で本物と偽物を嫌というほど見分けさせられたミトの目が、その手に宿る実質を、正確に捉えた。
「……あの手は、贋物を作る手ではございませんわ」と、ミトは呟いた。「あの手は、本物しか作れない手ですわ」
「ロウ。あの娘の噂、匿名の出どころを辿れますこと?」
「ええ」ロウは薄く笑った。あの冷徹な笑みだった。「噂には、必ず『最初の一人』がいる。嘘の足跡を、その顔まで辿りましょう。……それに、この都の仕組みは、実に興味深い」
ロウは手元の帳簿を取り出し、ペンを走らせた。「顔と名を隠した『匿名の承認』が、形のないまま既存の仕組みを完全に麻痺させ、ひとりの人間を社会的に抹殺している。……この、名をも持たぬ絶対多数の承認が世を動かす構造、しっかりと記録しておきます。いつか、我が家の定義を書き換える折に、極めて有効なサンプルになる」
舟が石畳に着き、ミトが立ち上がる。後ろで、カクとスケがそっと身じろぎした。「カクよ……仮面の国とはいえ、いざとなれば、アレを……公爵家の御名を高々と……」
ミトの扇が、すい、と振られた。
「今度ばかりは、無駄ですわよ。カク、スケ」
そう、ここではヴァルハイトの名すら、ただの匿名の噂のひとつにしかならない。顔も、名も、家の格も、すべて仮面の下。この都でミトは――生まれて初めて、「名のない、ただの客」だった。
(……奇妙な心地。わたくしから、名前を取ったら。家を取ったら。わたくしには、何が残るのかしら)
これまで考えたこともなかった、寒さに似た問いが、ミトの胸をよぎった。だが、前の国で泥にまみれ、名なき実務の強さを知った彼女の瞳には、怯えはなかった。彼女はその問いを、扇の陰にそっと畳んで仕舞った。いまは、まだ。
そして、顔を上げた。仮面の都の、揺れる水の光のなかへ。
「――まいりましょう。名前がなくとも、目はございますもの。誰もが顔を偽るこの都で、ただ一人、素顔の値を見抜いて差し上げますわ」
水の都に、名のない客が降り立つ。カクとスケは、もはや紋章器を取り出そうともしなかった。彼らもまた、名という鎧を脱いだお嬢様自身の「目」が、この匿名性の悪意をどう切り裂くのかを、静かに見届けようとしていた。




