第9話 「正儀」
差し込まれてきた絵図面を、正行は見た。
閉じた扇で駒の一つひとつを差し示しながら考える。そして、己が置くべき駒の動きを、まずは扇でなぞってみた。
──この布陣、負けはせぬ。負けはせぬが、勝てぬ……! 正儀、見事だ……。どこでこれを身に付けた? いや……、『勝てる』ものを、敢えてこの布陣にしているのか?
正行は駒を置かなかった。代わりに扇を絵図面の上に置くと、持ち上げた御簾の下からするすると外に押し出した。
戻ってきた、扇の載った絵図面。直義はそれを凝視する。視線を上げると、御簾の隙間から正行がゆっくりと、首を横に振った。
直義は正儀に向き直り、
「正儀殿。学僧はこのように扇を置いた。……勝負にならぬ。……降参だ」
と言った。
そして、正儀の前に、戻ってきた絵図面を押し出した。正儀はそれに視線を落とす。閉じられた扇が載っている。
そっとその扇を手に取ってみると、ふわりと落葉の香が漂った。
「……直義様。……学僧殿は……、……楠木の流れを汲む者ではございませぬか」
静寂。
「なにゆえそう思われる」
直義は目を細めて低い声で問うた。
「この度の直義様の帰順、帝ははじめは罠ではないかと疑っておいででした。ですが……、書状の『花押』にお気付きになられた。帝は震えるお声でこの正儀をお傍近くにお呼びになり、『これはどういう事であろう』と仰せになられた」
正儀は直義に迫るような勢いで言った。
「あの花押は兄・正行が、密かに帝にだけお伝えしていた、楠木の者にしか使わぬもの……。私は此度、交渉のみならず、帝に真相をお伝えすべくここへ参ったのです」
表情を微塵も変えず、直義は正儀の言葉を静かに受け止めている。
「あれを知る者は楠木の者。そして、今の絵図面の手合わせ。……一手も打たずに返して来るとは、なるほど確かに直義様の用兵の相談相手をされているのも納得致しました」
凛とした表情で正儀は言った。
「されど、もし」
息を吸う。
「もし、直義様があの花押をお使いであるなら、どこで知ったのでしょうや……? 私にはそこの学僧殿が楠木の者に思えてならぬのです」
篝火が爆ぜた。
「この学僧は、痛みは随分となくなったとは言え、まだそれほど歩けるわけでもなく、顔の傷も深く残っていてな。いずれ、……正儀殿の前にも出す日が来ようが……」
直義は、御簾の中の者に言い聞かせるかのようにそちらを向き、再び正儀を鋭く見据えた。
「それは今ではない」
いくつもの修羅場をくぐり抜けてきた男の気迫に押されたのか、正儀はそれ以上の追及はしなかった。
そのまま深く一礼をすると立ち上がり、踵を返して直義の陣を後にした。
「出て来るがよい」
遠ざかる足音を確認し、直義は御簾の内に声をかけた。中からゆっくりと正行が這うように出て来る。そして、正儀が先ほどまで座っていた円座に座った。
正面の直義がじっとその姿を見つめる。
「この答えは何だ」
正儀が置いていった絵図面。それを指差し、直義は再び口を開いた。
「この答えは何だと言っているのだ、……楠木正行……!」
正行は目を閉じている。顔の左側を覆っている白布が、薄明かりに浮かぶ。
「答えろ!」
直義は床を打って怒鳴った。
ゆっくりと正行は目を開け、
「──あれは、勝てませぬ」
と静かに言い、直義を見た。
「何だと……?」
「負けは致しませぬが、勝ちも致しませぬ。見事な布陣……」
正行は少しだけ満足そうな表情を浮かべ、床に置かれた絵図面に目を落とした。
「馬鹿なっ……、名将と謳われたそなたが……、そのように簡単に勝てぬとは……!?」
正行はくすりと笑い、もう一度
「勝てませぬ」
と、直義を見てきっぱりと言った。
「しかもあれは、敢えてあの陣を布いたのやも知れませぬな」
恐らく、正儀は勝てる駒の配置もできたはずだと正行は見ている。それを敢えて、『負けない布陣』を展開した。
それは自身が負けないためだけではなく、恐らく、この兄を二度と負けさせないため──。
もう一度、絵図面を見た。
きっと弟は。
幼き日に父を失い、元服して間もなく兄二人も失い──。
負けるとは何なのかを、ずっと考え続けたのかも知れぬ。
勝てぬ戦に向かう事。生きて帰ってはならぬ戦に向かう事。
勝てなくても。負けなければ。
生きてさえいれば、また戦えるのだと。きっとその答えに辿り着いたのだろう。
どれだけ不安だっただろう。
どれだけ心細かっただろう。
頼る者もなく、正成の血を引く者、正行の弟というただそれだけで、二十歳にもならぬ身で南朝の全てを背負わされ、立たねばならなかった弟。
「ではなにゆえ、あの場で勝てぬと、見事な布陣と正儀に言わなかった。褒めてやれば良かったであろう」
直義の言葉が、夜の闇に滲む。
ぽつりと正行の手の甲に雫が落ちた。肩が微かに震える。
身動きができない絶望の毎日の中、正時の死を聞いたあの日。その名を呼んでやりたくても、声を出す事もできず、ただ一筋の涙を流す事しかできなかったあの時。
今は、声を出せるのに。ここに、生きた弟がいたのに。
直義などに言われるまでもない。
「……口を開けば、……その名を呼んでしまいそうな気がして……」
──正儀、と。
冬の冷たい風が、二つ引両の陣幕を揺らす。篝火の爆ぜる音だけが、闇夜の寺に響いていた。
第9話<「正儀」>をご覧下さいましてありがとうございます。
物語はだいたい半分くらいまで来たかな?という所です。ここに出て来る「落葉の香」は、意味がありそうではありますが、単純に季節感を出したくて入れてみました(笑)。
当時正行は名将と呼ばれたかな?どうかな?と思いつつ、そうであって欲しいな、という筆者の願望が溢れ出てしまっています、お許し下さい(謝)。
なお、正儀は何と兄を失った直後(四條畷の戦いから9日後)に、高師泰と戦っています(初陣(デビュー戦)が師泰って……)。その後もその月の末にも2度、月が変わって2月の頭にも戦っています。年齢はっきりしてませんが、元服はしていて16歳くらいでは?という話があります。
次回は<観応の擾乱>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■元服 大人になる事、今で言う成人式を迎えるイメージですかね。冠や烏帽子を被って、名前も幼名から実名(諱)になります。ばらつきがありますが、だいたい12歳~16、7歳位で元服したようです。




