第10話 観応の擾乱
年が明け、摂津国打出浜にて、直義は兄・尊氏と高師直、師泰兄弟が率いる軍勢と衝突する。尊氏らは当初、直義を難なく破れると見ていたが、結果は違った。
師直に反感を持つ各地の武士達が直義側に参戦した事、それによる士気の上昇により、直義が大勝利を収めたのである。
一年にわたり、密書を送り続ける策を出していた正行の読みが当たった形であった。
正行は戦場に立つ事はなかったが、いつものように絵図面の上で直義に指南をした。
敗れた尊氏は直義との和議を申し入れ、条件として師直、師泰兄弟の出家を飲む事になった。
戦から三日後の和議の場で、尊氏はぼつりと
「直義。此度の戦も、あの学僧は絵図面を引いたか?」
と呟いて──。
にやりと笑った。
打出浜の勝利から四日。
「この度の勝ち戦、まことにおめでとうございまする」
直義の前で正行は平伏した。
「うむ。しかしこれは、そなたの力があってこそ」
直義はそう言ったが、その顔は曇っていた。
「だが師直を討てなかったのが口惜しい……。これでは重能、直宗に顔向けができぬ……!」
平伏したままの正行の顔が、にやりと歪む。
「案ずる事は何もございませぬ」
正行は身体を起こし、片目で直義をまっすぐ見つめた。
「将軍様が摂津より京へ戻られます。その通り道を、上杉の者、あるいは畠山の者へ伝えておけば良いのです」
直義は目を見開いた。
「勝手に師直、師泰の首を討ってくれましょう。こちらは何も労する事はありませぬ」
「……よくもそのような恐ろしい策がすぐに思いつくものだな」
「恐ろしい……?」
正行は目を細める。
懐から取り出した扇を少しだけ開くと、パチン!と閉じた。
「これはこれは……、心外にございます。この正行にとりましても、師直は討つべき憎き相手。かなうものならこの手で討ち取りたい所ではございますが……、動けぬ身ゆえ仕方なく上杉、畠山の者らに譲るまでの話」
正行は扇をわずかに開き、それを口もとに当てる。
「──あとは直義殿、あなた様が師直達の護送の道のりを、少ぉし伝えるだけでよろしい」
囁くように言い、冥い目で正行は直義を見据えた。
その恐ろしくもどこか艶めかしい所作に、直義は目を離せなかった。
それから五日後──。
高師直、師泰兄弟並びにその一族は、上杉重能の養子である能憲に護送中に襲われ、殺害されたのである。
その報告を、正行は直義から聞いた。
正行に始終を伝え終えると、直義は深く安堵の息を漏らし、しばらく沈黙した。そして、正行の片目に己の視線を重ねた。
いつもなら冷徹な、その眼差し。今は、隠しきれない歓喜と熱がにじんでいた。
「見事だ……! やはりそなたの策は恐ろしいほどによく当たる! まごう事なき、当代一の名将よ!」と力強く言った。
──喜んでいるがいい。師直を討った今、次は足利ぞ……。
喜ぶ直義を見ながら、正行は内心で冷やかに嗤っていた。
忘れかけていた胸の傷がまた、激しく疼いた。
「……笑って、……いた……?」
翌日の昼を過ぎた頃。
正行は直義から和議の席での尊氏の様子を聞いた。
身体の痛みは大分なくなったとは言え、正行が自ら外に出る事は難しい。ましてや、隠されている身では尚更である。
自由に動けない正行にとって、外からの情報は事細かく知りたいものであった。
それを知る直義は、外に出る度に、或いは外の世界で何か動きがある度に、或いは家臣が新たな情報を持ってくる度に、それらの話を正行の耳に入れていた。
当然、和議の席での話も、直義は戻ってくるなりすぐに正行に伝えた。
伝えたのだが。
「将軍様が笑っていた……と……?」
「それがどうした、楠木? 『あの学僧がまた絵図面を引いたのか』と、兄上は笑いながら聞いてきたぞ」
直義は鼻で笑った。
「まさかの大負けで、頭がおかしくなったのかと思うたわ」
師直という長年の政敵を排除してからというもの、直義は明らかに慢心していた。足利幕府の、いや、尊氏の軍事面を長年強力に支えていた師直。それが排除され、直義は己にその実権が転がってきたと思っている。
師直が軍事を支えていたように、政治はずっと、直義が見ていた。尊氏の強さは、この二人が絶妙に釣り合いが取れていた事。それが大きい。
元々それほど戦が得意ではない直義に、今更軍事の舵取りができるのか。
今回の件は正行にとって、足利を食い破る好機ではある。兄と弟の間に入った、もはや元に戻す事は不可能な、大きな亀裂。
だが、軍事の屋台骨であった師直を失って、尊氏が黙って引き下がっているものなのか。
沈黙する尊氏の言いようのない気味の悪さを感じていた所に、……笑っていた、とは。
「師直を消し、そなたという『軍師』がおれば、もはや何も怖れる事はない。兄上が笑っていた程度で何をそんなに心配するのだ、楠木」
「……何が要になるのか分かりませぬゆえ、……どんな小さな事でも早く教えて貰えねば困りまする」
──笑っていただと……。
正行は床に目を落とし、少しだけ開いていた扇を閉じた。
パチン、と乾いた音が響く。
「兄上は昔からああだ。わけの分からぬ時に、わけの分からぬ事をする」
──なにゆえ笑った……?
正行は考える。
そして、『学僧』として足利尊氏という男に会った日の事を思い出す。
本気で隠し通そうとは思っていなかったが、あの時、尊氏は学僧を『楠木正行』だと見抜いた。
そして尊氏は、父・正成の話をした。惜しい武将を死なせたと──。あの尊氏は本当に父の事を悔やんでいるのだろうと、正行は今でも思っている。
尊氏は、正行の事を見抜いていながらそれ以上追及しなかったが、正行にとってそれは、『お前の事などいつでも暴ける』と言われているに等しく、弱みを握られたような不気味さも感じた。
「直義殿……」
「……ん?」
「将軍様は、笑っただけでしょうか? 他に何かございませんでしたか」
──笑ったとは。なにゆえ。
「……何を気にしておる」
直義は大きなため息と共に、呆れたように言ったが、
「だがそう言われてみると、ご自分の立場が分かっておられないのか、あのような席だというのに、妙に機嫌が良かったな」
と、顎をさすりながら目線を上に向け、思い出すように話した。
「薄気味悪いとは思うたが、あんなのはいつもの兄上だ。そなたに伝えるほどでもないであろう」
──機嫌が良かった?
弟に戦で大敗し、自分から頭を下げて和議を申し入れた兄。普通ならそれだけで腸が煮えくり返りそうなものだ。そこに更に、右腕である高兄弟を出家させるという条件を受け入れる、屈辱的な席で。
──機嫌が良かった?
あの日、正行の正体を見抜きながら、あれ以来何も言って来ないあの男。
背中を冷たい汗が流れた。
「直義殿。策を立てねばなりますまい」
正行は文机に絵図面を広げていた──。
第10話<観応の擾乱>をご覧下さいましてありがとうございます!
史実と創作を組み合わせるのは難しいなぁ、と改めて思いながら書いた回です。……歴史モノ書いてる方ってほんと凄いですね(しみじみ)。
軍師という言葉はあったのだろうか、と思いつつ、伝えるのに分かりやすいので使ってみました(笑)。
次回は<山科の戦い>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■摂津国 現在の大阪市を含む大阪府北中部と兵庫県南東部あたりです。
■高師泰 個人的には師直の弟なんですが、兄説もあって謎です。が、ここでは自分のイメージ通り、弟としています。




