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第6話 復讐の始まり

 静寂。呻き声。小さく荒い息。

 乱れた褥《しとね》。乱れた髪。乱れた白い小袖。

 あまりにも無理に力を入れすぎた。そしてあの男は、あまりにも正行《まさつら》を乱雑に扱った。

 男が去った後も、激しい身体《からだ》の痛みは引く事はなく、正行はただ呻いて堪えるしかなかった。

「……正時《まさとき》ッ……」

 言いようのない、悔しさと。

 どこにぶつけていいのか分からない、怒り以上の感情。

 軍勢を率いる正行が、戦に敗れた将の行く末を知らぬはずもない。負けて命を落とした正時がどうなったのか、説明されるまでもない。

 だが。

 正時は、師直《もろなお》を欺くためだけに使われたのか。矢の雨から兄を庇《かば》い、力尽きた弟は、足利《あしかが》家のくだらぬ権力争いの『駒』として扱われたのか。

 ギリギリと音がするほど奥歯を噛みしめて、正行は暗い天井を睨みつけた。

 今までは、死んでいった正時の、一族の、そして兵たちのための、弔いのつもりだった。だから執拗《しつよう》に、師直の首だけを狙っていた。

 ──師直の首だけでは足りぬ……!

 奥歯を噛みしめていた正行の唇が、いびつな弧を描く。

 弟を『駒』として弄《もてあそ》んだ、足利の者ども。

 絵図面の上の『駒』として、こちらもお前たち足利家を動かしてみせよう。

 身体の痛みなど、もはや感じなかった。

 知るがいい、我が楠木《くすのき》の恐ろしさを。

 見届けてやろう、足利の行く末を。

 正行は、声にならない声を上げて、

 ──嗤《わら》った。


 絵図面の上にいくつか駒が置かれている。

 閉じた扇がその上を行き来していた。

「こちらから……師泰《もろやす》が」

 肩から直垂《ひたたれ》を羽織り、褥の上に身を起こした正行は扇で絵図面を指す。

「……そしてここから……」

 扇をゆっくりと動かす。

「こう、師直は動きましょう……」

 絵図面を指したまま、正行は口の端を歪ませて、目線だけを正面に座る直義《ただよし》に向けた。

 部屋の片隅に置かれた火鉢の中で、炭が静かに爆《は》ぜる。外から木枯らしの音が聞こえる。

 正行は、絵図面の上で直義にこの日も策を立てていた。

 直義は、師直はおろか、兄の尊氏《たかうじ》とも完全に冷え切った関係になっていた。


 正行が『学僧』として尊氏に会ったあの日の、少し後──。

 直義の邸《やしき》を師直が軍勢を率いて抱囲した。

 事の発端は、直義の腹心、上杉重能《うえすぎしげよし》である。彼が師直を排除しようと、直義に讒言《ざんげん》した事だった。そして直義が尊氏を動かし、師直は足利家の執事を解任され、怒った師直が直義の邸を包囲したのだった。幾月前の事である。

 師直の武力に屈した直義は、一旦師直と和議を結び責任を取る形で出家したが、師直は代償として直義の腹心、上杉重能と畠山直宗《はたけやまただむね》を流罪《るざい》にし、その後密かに暗殺した。

 その暗殺の報が届いたのが、数日前。

 腹心を殺された直義は激怒したが、正行は直義の後ろでその報を冷ややかに聞いた。

 ──上杉重能、か。

 正行はある時から気付いていた。己の部屋を直義が尋ねてくる時に、時折後ろに控えていた男に。その男があの夏の夜やってきた男だという事に。

 上杉重能。男の名前を知った時、正行は理解した。重能の配下にやらせても良かったにも関わらず、あの日、地獄のような四條畷《しじょうなわて》をなぜ直義の重臣である重能本人が歩いていたのか。

 任務の内容があまりにも重要だったために、重能が他人に任せられなかったのだろう。

 四條畷で正時の首を師直に差し出すように仕向け、正行を拾って足利の駒にしようとした男の、

 ──惨《みじ》めな最期よ。

 嘆き、怒れる直義の背後で正行は嗤った。


 絵図面を指したまま、正行は口の端を歪ませて目線だけを直義に向ける。

 復讐に燃える直義は、絵図面の全体を何度も眺めた後、正行の目を見ると頷いた。

 直義は、今までの正行の用兵での勝ち戦に大きな自信を持つと同時に、本来は敵将であるはずの正行に、絶大な信頼を寄せるようになっていた。

「これならまた容易《たやす》く師直に勝てよう。楠木、そなたの用兵はまこと、そなたの父にも負けぬな」

 その声に、正行はゆっくりと絵図面を指していた扇を引いた。

「私など……父の足下《あしもと》にも及びませぬ……。しかし直義殿……。このように献策は致しましたが、しばらくは……、戦は避けた方がよろしいかと」

「何……?」

「重能殿、直宗殿を失われ、お怒りになるのはごもっとも……。されど今は──」

 正行は手に持つ扇を少し開き、パチンと閉じた。

「今は動くべきではございませぬ……」

 正行は不自由な身体でゆっくりと、浅く平伏した。

「……なぜだ? わけを言え、楠木」

「直義殿が御出家され、……そして此度《こたび》腹心お二方を失った事……。世間や師直は……、直義殿は牙を抜かれた虎と思うておりましょう。……そう思われている間に、全国に……、密書を送るのです。必ず、時機《とき》はやって参りまする」

 平伏したまま、正行は正面の直義に説いた。

「重能、直宗を殺されたまま、黙って見ていよと言うのか」

 直義は語気を強めた。

「そうではありませぬ。……少し、ほんの少ぉしだけ……、仇《あだ》討ちが遅くなるだけにございます……。必ずや、お二方の無念、晴らす日が参りますゆえ……、どうかこの策をお入れ下さりませ……」

 まだ激痛が走るであろう身体で、正行はじっと平伏している。

 かつて、正成の再来と足利を震え上がらせた、楠木の名を継ぐ男。直義は、今までの正行の戦術による数々の勝利を思った。

「……分かった……。そなたの言う通りにしよう」

 直義はそう言うと、部屋を後にした。

 部屋に残った正行は、平伏したまま、冥《くら》い目をして微笑んでいた──。

第6話<復讐の始まり>をご覧いただきましてありがとうございます。

いよいよ、観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)という感じになってきました。ただ、この辺りは学校で勉強してても何だかよく分からないまま終わるんですよね(下手をすると歴史嫌いになるくらい、わけ分からない気がします(笑))。なるべく複雑にしないようになっているでしょうか……。


次回は<朝敵(ちょうてき)討伐の綸旨(りんじ)>

ご覧いただけましたら幸いです。


【用語】

■上杉重能(うえすぎしげよし) 個人的イメージでは直義の腹心中の腹心ですが、あんまり戦場とか歩かないかも知れません(笑)。腹心=何でもいろいろやってくれる人!みたいなノリで四條畷を歩かせてしまいました。

直義の腹心としては他に畠山直宗(はたけやまただむね)、桃井直常(もものいただつね)などがいます。

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