第5話 男の正体
「さすが、軍勢を率いていた総大将。いい目をされる」
男はふふ、と嗤う。
「……喉笛と眉間を深く射られた弟御に比べれば、大した傷ではないと申し上げたまで」
正行の胸がドクンと鼓動した。
なぜそれを。
なぜ正時の最期の姿をお前が知っている──。
男は指を、正行の顔から胸へ移動させた。白い小袖の合わせから見える麻のさらしに巻かれ、胸の傷自体は見えないが、男はその上から指で強く押した。
「あっっ……!」
あまりの激痛に息が止まる。
「この胸の傷も。……浅かったから助かった。あれだけの深手を負った弟御では、河内殿と差し違える事など……、到底かなわぬ事」
正行は目を見開いた。
ドクン。
──真っ赤な空。折れた軍旗。不吉に鳴く烏。
ドクン。
──周りを囲む、陣僧たちの足。何かを囁いている声。胸から血塗れの短刀が抜かれる感触。
ドクン。
──返り血を浴びた笠の奥から、こちらを冷たく見下ろしていた、男の眼。
あの眼は。
今、目の前で己を覗き込んでいる、この眼だ──。
かつて直義が告げた言葉が、正行の胸を抉るように蘇る。動けぬ正行の傍らで、直義は無表情に、淡々と語った。
──我が腹心、上杉重能の手の者らが、師直の元に正時の首級と、偽物のそなたの首を届けた。
この男だ──。
薄れゆく意識の中で見た、あの瞬間。
正時の首を。
躊躇なく落とした、
──笠の陣僧。
目覚めてから、天井を眺めるだけの日々。声を出す事さえもできなかった毎日。
直義の感情のない言葉に、正行はただ一筋、涙を流す事しかできなかった。
喉笛と眉間を射られた正時は、自力で矢を抜く力も残っていなかった。それが、正行の記憶の中にある、生きている弟の最後の姿だった。
正時──。
一人で生き残ってしまった。
弟は一人で逝ってしまった。
あの日、二人で散るはずだったのに。
耳に入る直義の冷たい声に、泣き叫びたかった。
その名を。弟の名を。
声に出して呼んでやりたかった。
「……なにゆえ……」
正行は身体を震わせて、自分を見下ろす男を見た。不自由な腕を持ち上げて、椀を持つ男の手首を摑む。
男は、おや、という顔をした。
「なにゆえ生かした……っ! なにゆえ……っ、その場で殺さなかった……!」
腕に力を入れると胸の傷が激しく痛んだが、正行は構わず更に力を込め、椀を持つ男の手をギリギリと自分から引き離そうとした。
弟の首を、斬り落とした男。
そして、弟は、正時は。師直の前に差し出された──。
なのにこの兄はどうだ。のうのうと生き永らえている上に、あろうことか弟の首を斬った男から水を与えられ、喉の渇きを癒やしている。
御簾の外の明かりの光が、ギラリと正行の目に反射した。
正行の表情を見て、男はまた、口の端を上げた。
「くくっ、面白い、河内殿。まるで屍よと長きにわたり見ていたが、間違いであったわ」
男は続けた。
「戦場に立つ者が、ましてや南朝の総大将ともあろうお方が、ふふふ……たかが弟の首一つでそれほど怒るとは」
言いながら男は、怒りに震える正行を押し倒すように褥に寝かせると、手首を握る正行の手をゆっくりと外し、空になった椀をひらひらと正行に見せた。
「まだ飲まれるか? 総大将殿」
正行は顔を背けたが、男はその顎を摑んで再び自らの方を向かせた。
そして、濡れている正行の首筋を布で拭き、そのままその布を強く正行の口に押し当てた。
「……っ!」
男は正行に顔を近付け、自らの口元に指をあてて囁くように言った。
「静かにされよ。ここは直義様の邸ぞ……。あまり騒ぐと、お主の存在を知らぬ者たちまでお主を嗅ぎ付けてくるわ」
息もできないほどに布を押し付けられた正行は、あらぬ限りの力で男の身体を押し返そうとした。
身体が悲鳴を上げる。
「なにゆえ生かした、だと?」
正行に押し返されるのを楽しむように男は嗤った。
「お主らの首を、師直より先に拾う算段だったのだがな」
正行にも己の首が、師直にとって大きな手柄になる事は分かっている。師直は足利家の中で既に力を持っていたが、正行達兄弟の首を挙げれば、更に大きな力を持つだろう。
尊氏の弟である直義をも、凌ぐかも知れぬ。
「ところが、だ。南朝の総大将の骸を見つけてみれば、なんと生きておるではないか。これほどの僥倖があろうか」
まるで今ここが、四條畷のその場所であるかのように、男は興奮気味に語った。
「息のある、楠木正行だ。いざとなれば南朝や師直との交渉に使えるであろう。この駒を必ずや我が主に届けねばならぬ。俺は同じ場所で息絶えている弟の骸から首を落とし、師直にくれてやる事にした。面影も何も分からぬ、潰れた首と共にな」
正行の表情を楽しむようにじっくりと見つめて、男は続ける。
「あの死に様を見るに、兄を庇うたのであろう? 同じ場所で死んでくれたとは、なんと兄想いの弟よ。
──お蔭で、首を探しに行かずにすんだわ」
満足げに男はにやりと嗤った。
「──っっ!」
男は正行の口を押さえていた布を取り、今度は耳元に口を寄せて低い声で言った。
「弟御はまんまと師直を騙してくれたぞ。そして楠木正行を、生きたまま我が主に与えてくれたぞ。……くくく、せいぜいこれからは、我が主・直義様のために、よき働きをするがよい。弟御もそれをお望みぞ。くくく……」
こらえられないのだろう、男は肩を震わせて笑った。
感じた事のない、怒り。
いや怒りなどという簡単な言葉で表せるものか。
正行は唇を噛み、褥を握りしめて震えた。
男は立ち上がり、正行をあの日のように冷ややかに見下ろすと、音もなく闇に消えて行った。
第5話<男の正体>をご覧いただきましてありがとうございます。
正行がもしこのように匿われていたら、政治カードとして使えるものだろうか?と思いつつ、「まあそういう事にしよう」という感じにしました(笑)。実際には六条河原(刑場)行きとかなんでしょうか……(汗)。
ここでちょっと年齢設定について。
正行は生まれた年がはっきり分かっていないのですが、四條畷で23歳という話もあり、こちらではこの設定になっております(太平記では父・正成が湊川の戦いへ行く時に11歳で、逆算するとこうなります。が、四條畷の前年で25歳になってたりもします。昔から自分は23歳の方を取っているので、今作でもそうしました)。
尊氏は正行よりも22歳ほど、直義は20歳ほど上になります! ここも年齢差が1歳~2歳差と少し幅があるようですけけども。
次回は<復讐の始まり>
ご覧いただけましたら幸いです。




