第3話 四條畷
──死んだはずだった。
この胸に、弟の刃を受けて。
暗い部屋の御簾の内、褥に横になる正行は、麻のさらしがしっかりと巻かれている胸をそっと触った。
なぜこの兄だけが。
なぜお前だけが。
「……正時」
正行はそっと目を閉じた。
* * *
──正平三年一月五日。
楠木正行は生きる望みを一切捨てて、最後の戦場となる河内国四條畷の地に、南朝総大将として立っていた。対する北朝の総大将は、高師直である。
圧倒的戦力差の中、正行の決死の猛攻は、師直の人生において後にも先にもないほど彼を追い詰めた。だが、やはり多勢に無勢、満身創痍となった正行は、弟の正時と互いの胸を、菊水の紋が入った短刀で差し違えた。
痛みなどなかった。
後悔もなかった。
生温かいものが胸を伝って流れていくのを感じながら、正行は深い闇へと落ちていった。
夕刻。
先ほどまでの激戦が嘘のような静けさ。
真っ赤に染まる空。むせ返るような血のにおい。色を失った戦場。
泥にまみれ、ぼろぼろになった菊水の紋が、折れた軍旗の先で微かに揺れている。そこに止まった烏が、不吉な声で鳴いた。
おびただしい数の死者が転がるこの世の地獄を、静かに歩く者たちがいた。
敵味方の区別なく戦死者を供養し、わずかな生存者を探し歩く従軍僧。──陣僧である。
先頭を行く者が、足を止めた。
「これは」
「……なんと立派な鎧ではないか。これはもしや……」
「楠木正行殿と……、弟の正時殿ではあるまいか……!」
陣僧たちは重なるように倒れている骸の周りに、声を殺して集まった。
「……まだ若い身で……、なんと哀れな」
手を合わせる。
一人が身をかがめ、弔おうとしたその時。
「まさか」
「い、息がある……! 虫の息だが……! 一人は生きておる!」
身を低めた陣僧は、驚きながらも声を抑えて仲間たちを見上げた。
「し、しかし、これは助からぬ、じきに亡くなろう……。もしこのまま生きていても、師直殿の手の者が、この首を探しに来るはずじゃ……、いずれにしても……」
──死は避けられぬ。
老いた陣僧が、力なく首を振る。
「されど! 生きているならば助けるのが仏の道ではありますまいか……!」
若い陣僧が絞り出すように声を出す。
遠くから、大将首を探す兵たちの声が聞こえる。
「このお方を……、救いたいと申すか」
「救えるかは分かりませぬ……。されど、……まだ生きております」
若い陣僧は、足元に横たわる鎧武者に目を落とした。矢がかすったのか、それとも刺さった矢を抜いたのか、左目尻から頭部にかけて大きな傷がある。
年の頃は二十を越えているだろうか。自分とさほど変わらぬ年であろう。軍勢を率いる総大将であろうと、死ぬにはあまりにも早いと思った。
少しでも希望があるのなら。
「私はこのお方を救いたいのです」
「とは申せ、大将首が見つからぬとなれば、近く落ち武者狩りにかかる事もあろう」
確かに。
もしどこかへ運び出す事が出来ても、首が見つからぬとなれば、師直は必死に探すだろう。正行討伐は、南朝方への打撃だけではなく、師直の功績にも大きく影響するからだ。
しかも。
落ちて行ったのではなく、正行を誰かが運び去った事が知れたら。
考えるまでもなく、無謀な話だった。
「……救う事はかないませぬか」
「──あまりに難しい……。それに。生きるほうが、このお方に更なる地獄を見せる事になるやも知れぬ」
老いた陣僧が、諭すように言った。
首を捜している兵達の声が聞こえる。
「ではせめて……、せめてこの短刀を」
若い陣僧は震える手で、正行の胸に刺さる菊水の紋が入った短刀を抜こうとした。
「こ、これは……」
その声に、老僧が覗き込む。
「おお、これは……、力が足りなかったか……。斜めに刺さっておる……! 深さも足りておらぬようじゃ……。本当に助かるやも知れぬ」
老僧の声に、若い陣僧は正行と共に倒れている正時を見た。
喉笛と眉間に、深々と太い矢が突き立っている。
「兄を庇われたのでしょうか……。先に力尽き、短刀を握る力もなかったのではありますまいか」
若い陣僧は、深く憐憫の情を正時に向け、静かに手を合わせた。
正行の胸から、短刀を抜く。真っ赤に染まった刃から、血が滴り落ちた。
──助かるかも知れぬ。
が、正行をどうやってここから運ぶのか。
正行は総大将なのだ。
師直がどうしても欲しい大将首。見つからなければ、師直の兵たちは地の果てまでも探すに違いない。
その時、笠を被った陣僧が口を開いた。
「このお方を救いたいのであれば、拙僧が匿おう。ちと当てがある」
陣僧達は一斉に、声の主を見た。
「当て……?」
笠の陣僧は、手で笠を少し上げると驚いている陣僧達を見渡す。
「救うため、匿うための当てはある。だが、……お前たちはここで見た事、聞いた事、……そして拙僧の事はすべて忘れろ。さもなくば、
──命はないと思え」
陣僧たちは息を呑んだ。
首を探す兵たちの声が、先ほどよりもよく聞こえた。
時間はなかった。
「では……! ではどうするのです……!」
若い陣僧が声を殺して問うた。
笠の陣僧は、正時の冷たい骸を見た。
「正時殿の首を、このまま師直に渡す」
「なんと……。兄弟の首を……分かつというのか……!」
老僧が悲しそうな目を正時に向けた。
「師直を欺くには、正時殿の首が本物でなければならぬ」
笠の陣僧はそう言って、ためらいもなく正時の骸から首を落とした。次いで、近くにあった骸を引きずってくると、手際よく正行の鎧を剥ぎ取り、その骸に着せ替えた。
出来上がった身代わりの首を刎ね、その顔を刀の柄で叩き潰すと、固唾を飲んで見守る陣僧たちに言った。
「これなる骸の胴は、南朝の総大将、楠木正行殿として、正時殿の胴と共に置いていく。今、そこで首を探している師直の兵たちは、これを見て『差し違えて果てた楠木兄弟』と信じ込むだろう。そして拙僧の手の者が、正行殿、正時殿の首を師直の元へ届ける」
おそらく既に師直の元へは、正行たち兄弟が互いに差し違えて果てたという一報が届いているはずだ。正行の顔に矢傷がある事も伝わっているかも知れぬ。
であるならば。
どうしても本物の正時の首と、潰れた顔の首の二つ、そして辻褄の合う胴体が二つ必要だった。
首を探す兵たちの声が、より一層近くなった。
首も。胴体も。
──準備は整った。
第3話<四條畷>をご覧いただきましてありがとうございます。
実際にこんな戦場に行った事はなく、映画やドラマでしか観た事がない、想像の産物ではありますが、少しでも雰囲気が出ていたら良いなと思います……!
次回は<首実検>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■正平三年 1348年になります!
■河内国 現在の大阪府東部あたりです。当時は四條畷という地名ではなく、太平記に四条縄手と書かれた事が由来のようです(野崎・北四条)。
■菊水の紋 楠木家の家紋です。
■陣僧 もう少し後の、室町時代くらいに現れたようですが……(笑)。




