第2話 楠木正行
午後の陽光が部屋を照らしている。
静けさ。鳥が一声鳴いた。
「……はて、……生きていた、……とは」
御簾の中の影は、今度は明らかに尊氏を見据えている。
「……私はこの通り、生きておりまするが……。」
微かに笑う。
それを見て、尊氏は静かに言った。
「……楠木正行殿……、であろう?」
影は、また微かに笑った。
「……そのお方は……。そのお方は、二年前の四條畷での大きな戦で亡くなられたと聞き及んでおりまする。……私はこの通り、……生きております」
身体が冷えるのか、肩に羽織った直垂をそっと掴み胸元まで引きながら、青年は掠れた声で答える。
「……そうか……。……今はそなたが何者かを問うのはやめよう」
しかしな──。
直義の戦いぶりは、まるであの楠木正成殿、あるいは……、その流れを思わせてな。そなたが直義に戦の話をしていると知り、思わず妙な事を口走ってしまった。……正成殿を討たねばならなかったのは、今でも悔いておる。その悔いが、あらぬ望みを口にしてしまったのやも知れぬ。
尊氏の独り言のような言葉を、青年はじっと聞いているようだった。
「正成殿の忘れ形見が生きている。それがどれだけわしの心を震わせたか、そなたには分からぬであろうが……。嬉しさのあまり失礼な事を言ってしまった。……許せ」
「…………」
表情の窺えぬ青年は、何も言わなかった。
「あまり長居をすると、お体に障ろう。そろそろお暇致す」
尊氏が立ち上がると、青年の視線は尊氏を追ったようであった。
尊氏が帰るのが合図だったのか、青年の身の回りの世話をしているのであろう者が、部屋の中にそっと入ってきた。御簾の前で平伏すると、内に入り、褥に寄った。
「さ。痛みませぬか? ごゆっくり、そう、ごゆっくり横になられませ」
青年を横にさせようとしているのであろう声が、部屋を後にした尊氏の背後から聞こえる。
「……生きて……、生きていてくれたか……」
陽の光が明るく射す廊下を一人歩きながら、尊氏は己の言葉を噛みしめていた。
尊氏が去った、伏せる者の部屋。
介添えの者の手で褥に横にされた青年は、少し苦しそうに息をしていた。声を出すにも、呼吸をするにも、胸の傷に激痛が走る。
傷口こそ塞がってはいるものの、深くえぐられた肉がかろうじて癒着しているに過ぎない。綺麗になど塞がっているはずもなく、呼吸をし、僅かに身体を動かすたびに、引き攣った皮膚があちこちから引っ張られた。
掠れたうめき声を漏らすと、介添えの者が心配そうに顔を覗き込む。
「痛みまするか……。今日は慣れぬ来客ゆえ、いつもよりお疲れもありましょう。後ほど夕餉をお持ちするまで、お休みなさりませ」
介添えの者はしばらく褥のそばで様子を窺っていたが、疲労からか青年がうとうとと微睡み出すと、静かに部屋から出て行った。
土煙。
響く怒号。激しい叫び声。
馬のいななき。飛び交う矢の音。
鎧の小札が擦れ合う音。
──ここは。
「兄上! 兄上!」
呼ばれる声に我に返る。ああ、この声は。
「師直はこの先にいるとの事! 今こそ師直の首を取りましょうぞ!」
土埃や血で汚れた顔。
「……正時」
──ここは。
──四條畷。
懐かしいその姿に手を伸ばした、その時。
褥の上で青年は目を覚ました。
目を覚ましてから、ただ天井を眺めた。
夕闇に染まる庭。
先ほどの尊氏の言葉が蘇る。
──正成殿を討たねばならなかったのは、今でも悔いておる。その悔いが、あらぬ望みを口にしてしまったのやも知れぬ。
──正成殿の忘れ形見が生きている。それがどれだけわしの心を震わせたか。
「……父上……」
掠れた声で、床に伏せる青年はつぶやいた。
その夜。
夕餉の後、再び微睡んでいた青年は、御簾の外に気配を感じて目を開けた。
燭台の灯りが、御簾に影を写す。
「兄上が参られたそうだな」
「……お見えになりました」
「どんな話をした? 兄上はそなたが何者かと気付いたか?」
御簾の向こうの青年は、昼に尊氏と話した事を、掠れる声でゆっくりと伝えた。
そして。
「……直義殿……。将軍(尊氏)様は、あなたの戦のやり方が変わった事に、疑念を持っておいでだ……。……やはり師直を叩くのは、……やり過ぎでありましたかな……」
青年は、息を漏らすように微かに、楽しそうに笑った。
「痛むであろうに、笑い事か。そなたが言ったのだぞ、『直義殿の軍勢をお貸し下されば、師直を破ってみせましょう』と! 確かにそなたの言うとおりに兵を動かせば、師直に打ち勝てはしたが……、兄上に疑われただけであったな……!」
御簾の中で伏せる青年と話す男──、足利直義は、忌々しげに御簾の内へ声を荒げた。
──直義、お前の元にいる戦上手の何者かに、この兄を会わせてはくれぬか。
尊氏にそう言われた時、直義は首筋に冷たい刃を当てられた気がした。
直義の元にいるこの青年の存在は、直義の屋敷の中でもごく限られた少数の者しか知らぬ事。
もしもこの者の正体が知られたら。
足利の世がひっくり返るかも知れず、そして直義は重罪人として裁かれるだろう。
「私は……、あまり多くの軍勢を率いる事はありませんでしたからな……。直義殿の足利の軍はさすがに大軍ゆえ、絵図面を見ながら考えるのは、……まことに楽しき事でしたぞ……」
褥に寝たまま、青年はまた笑った。
「さて次は……。どのように師直を叩きましょうや、……直義殿」
その声に、直義は奥歯を噛み締めた。 足利家の執事であり、本来なら身内であるはずの高師直。だが、ここ数年で直義と師直の対立は修復不可能なほどに冷え込み、ついには軍事的にぶつかる事態にまで陥っていた。
直義は知っている。
この青年の、異常なまでの師直への執念を。
もう太刀を振るう事も、褥から出る事も叶わぬ身になってもなお、師直を討とうとする執念を。
直義は戦において、機転の利くような動きはできないが、言われた事は確実にこなす。それが、この動けぬ青年の絵図面遊びと絶妙に合った。
そして師直とぶつかる度に、勝ちを上げる事になったのである。
確かに直義は、師直を叩きたい。
だが。
兄・尊氏がここに来たからには、何かが音を立てて動き出すのではないかとも感じていた。
「私はそなたのように、暗がりで戦の絵図面ばかりを引いていれば良い身ではない……! 政を背負う者の重圧など、そなたには分かるまい! 楠木正行……!」
不機嫌に低く言い放った直義は、立ち上がり部屋を出て行った。
残された青年──、正行は、胸の傷の痛みの中一人、御簾の内で微かに笑っていた。
第2話<楠木正行>をご覧いただきましてありがとうございます。
四條畷の戦いで実際に正行が当時の医学で生き残るのは難しいとは思いますが……。また、もしその時は助かっても、感染症などでやっぱり無理だろうなぁ、とも思いますが、筆者の思いが書かせた歴史IFという事で……。
この、直義vs.師直の戦も、正直「いつの話ですか」感があるのですが(泣)。南朝側に戦上手がいればそれでも良かったと思いますが、一応味方のはずの師直にしてしまいました……。観応の擾乱本格化前の小競り合いですかね?
次回は<四條畷>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■小札 鎧を作っている小さな短冊状の板です(鉄や牛革などでできています)。ここに空いた穴に紐を通して繋げて(縅と言います)鎧が作られています。イメージ的には魚の鱗、若しくは屋根瓦。あの一枚一枚が小札で、それぞれを紐で繋げて鎧を作っている感じでしょうか。……伝わりますかね……(汗)。




