第1話 学僧
折烏帽子に桜がはらはらと舞い落ちる。
一人の老人が、青空を見上げて小さく何かを呟いていた。
一際強い風が、雪のように降り注ぐ花びらを青空へ舞上げる。その風に、老人は直垂の袖で顔を覆った──。
* * *
「……そなたが、直義の話し相手になられているという学僧か」
庭からの昼のまばゆい光を背にして座る声の主は、そっと部屋の中に声をかけた。
視線の先には、下ろされた御簾と衝立。その奥の薄暗い褥に、白い小袖に肩から直垂を一枚羽織り、かろうじて身を起こしている人物がいた。
外の光が褥まではうっすらと届いてはいるが、その先は薄暗く、御簾も褥の上の人物の顔をちょうど隠すような高さまで下ろされているため、その顔を窺う事はできなかった。
声の主──足利尊氏の問いかけに、御簾の中の人物は、小さく息を吸ったようだった。
……答えようとしているのか。
尊氏はその答えを聞き逃すまいと、じっと御簾の中を見つめる。中の人物は力なく、掠れた声を発した。
「このような姿で……、お見苦しい事にございます…。いかにも、足利直義様より命を救われて以来、……徒然なるままに……。お話し相手をさせていただいております……」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。話す事はかなり苦しそうではあるが、直義の話し相手になっているというのは本当のようだった。
「……随分とお体が、その……お悪いようであるが……」
「……本来であれば私は、……今ここで話をする事もなく……、ただ、野に消えるのみの身でした……。動く事はかないませぬが、……何の因果か、……こうして生きておりまする……」
御簾の中の青年──まだ若いと尊氏は聞いている──は、そう答えた。
尊氏が聞く所によると、この青年は身を起こす事もやっとであるにも関わらず、軍略に造詣が深く、直義とは軍勢の動かし方、天候の読み方なども話しているという事である。
尊氏には最近、不思議に思っている事があった。弟・直義の戦が劇的に変わったのだ。それがどうしても分からなかった。
直義は、内政処理能力は非常に高いが、戦はそれほど得意ではない。真面目で堅い戦い方をするため、奇策に弱いという欠点がある。
それが。
ここ幾度かの戦では、『わざと退いて敵を狭い場所へ誘い込んで一網打尽』『敵の補給路を断つ』、そんな戦い方をするようになったのだ。
時には直義もそんな戦いをするかも知れぬ。
尊氏はそう思おうともした。だが、直義が戦っている相手は、高師直なのだ。
師直は、戦がうまい。押されて苦しくなると、師直を出せばいかなる窮地であっても敵を完膚なきまでに打ち砕き、勝利をもたらしてくれた。尊氏は、師直の戦場での強さに揺るぎない信頼を置いてきたのだ。
なのに。
──あの直義が。師直を。
直義とは長い間、多くの戦を共にしてきた。だから、尊氏は直義の戦い方やクセを誰よりも知っている。
……知っているはずだったのだが。
──あの師直の攻撃をかわしながら、お前にそんな戦い方ができたとは。
直義勝利という報告と戦況や戦果を聞く度に、尊氏の中には疑問しか浮かばなかった。
そんなある日。
直義の元に、若いが、病か何かで伏せってばかりの怪しい者がいる。あのような身体でなければさぞ世に名を馳せたに違いないほどの軍才がある。直義とは戦についても話しているらしい。
そんな噂を耳にした尊氏は、『その者』の事を直義に聞いてみた。そして、会わせて欲しいと言った。
『その者』について聞かれた直義は、一瞬心底驚いた顔をした。そして、それが自ら白状したようなものと諦めたのか、『その者』の存在を明らかにはしたが、会わせて欲しいという尊氏の要望には渋った。直義からしばらく良い返事はなかったが、数日前に「そんなに会いたいのであれば、この日にいらして下され。……私は立ち会いませぬが」と連絡があり、こうして来てみたのだった。
尊氏は改めて、目の前の褥に身を起こす人物をじっくりと見た。御簾で顔は見えないが、真っ白な小袖を着ている身体は細く、少し乱れた合わせの隙間からは、痛々しく巻かれた麻のさらしが見えた。よくは見えないが、上半身を覆っているようである。
「……病で伏せっておられるのか、それとも……」
「……手負いにございます」
影のような青年は答えた。
「大きな……深手を負いました……。私は……、十日ほど生死の境を彷徨い、…眠り続けていたそうでございます…。目覚めても、目を動かす事しかできぬ死人のような日々が……、一年以上も続き……」
青年は苦しそうに呼吸をしながら、ゆっくりと、手を胸に当てた。
「死人のように暮らしていた頃は、……耳に入る無残な報せを聞いても、ただただ……、涙が流れ落ちるばかり……。どれだけ恐ろしく、そして悲しくても……、……その名を呼んでやる事も、泣き叫ぶ事も私にはできませんでした……」
「一年以上も……」
どうしてそんな大きな手負いを、と尊氏は続けようとしたが、青年は小さく息を吐き、
「……慈悲深き直義様より命を救われ……、ようやく身を起こせるようになったのは半年ほど前でしたか……。こうして声を出せるようになったのは……、この二月ほど……。まだあちらこちらと痛みはしますが……、直義様のお話し相手をしながら、絵図面を眺める事で……、悲しみを紛らわせております……」
と言った。
大怪我の理由は聞きそびれてしまったが、直義の話し相手をしながら絵図面も見ているという話を呼び水に、尊氏は軍略についても話しているのか、と青年に尋ねた。
「……直義様には命を救っていただいたご恩がありますゆえ……、このように伏せる学僧の身ではありますが、絵図面にて軍勢の動かし方を、ぼつりぼつりとお話し致したまでにございます……」
──それが、何か……。
と、青年は御簾の向こうで尊氏の方を向いたようであった。
「……直義はな……、戦はあまり得意ではないのだ」
尊氏は御簾の内を窺いながら、静かに言った。
「…………」
青年は胸に手を当てたまま、黙っている。
「それがある時から、別人のような軍勢の動かし方をする。不思議なものよと思うていたのだが……、そなたの教えであったか」
「……私は」
苦しいのか、ため息のように青年は言葉を発した。
「直義様へ、絵図面の上にてお話を致したまで……。……直義様の才でありましょう」
そう、青年が答えると。
尊氏は一度視線を下に落とし、直垂の膝の上で拳を握りしめ、そしてまた、御簾の向こうの人物へ視線を戻した。
二年前に負った、動けぬほどの深手。そして直義の戦い方を変え、師直をも圧倒する底知れぬ軍略。
尊氏の中でくすぶっていた疑念が、確信へと変わる。
かつて湊川で刃を交えた、あの名将の忘れ形見が。死なせたくはなかった、あの名将の子が。
今、ここに確かに生きている──。
「そなた、生きていたのだな……」
尊氏は、声を震わせてそう言った。
第1話<学僧>をご覧いただきありがとうございます。
遙か昔、太平記を初めて読んだ時から頭の中に何となくぼんやりあった話を、思い切って形にしてみました。
つたない文章ではありますが、全18話、お付き合いいただけましたら幸いです。
なお昔は諱(本名)で呼ぶ事はあまり(ほとんど?)なく、官職名などで呼びますが、誰が誰なのか分からなくなるため、本作では基本的には諱で呼ぶ形にしています。
次回は<楠木正行>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■折烏帽子 侍烏帽子とも言います。お相撲の行司さんが被ってるアレの顎紐がないものをイメージしていただければ。
■直垂 これまたざっくり、行司さんの着ているのが直垂のイメージに近いと思いますね。
■褥 敷物やふとんの事です。時代劇などで見る、これって着物掛けて寝てるの?というアレですかね。




