第17話 吉野にて
正儀から速やかに、吉野の帝へ正行の事は伝わった。誰一人いない御前で、正儀は御簾近くまで寄り、小さく言った。
「主上。兄・正行が生きておりました」
御簾の内で大きく息を吸った帝は、震える声で「私をからかうのではあるまいな?」と言ったが、その声色から正儀は、わずかながら帝が希望を持っている事も感じていた。
そして──。
「帯刀……! まことに帯刀か!? 夢ではあるまいな!? いや、夢であるならどうか覚めないでくれ……!」
正行は御簾の前で平身低頭していた。顔の傷を白布で隠していたが、御簾の中の声はそれに気付くと「それは何事か……!」と小さく叫び、正行の横で同じように平伏している正儀の名を呼んだ。
正儀は身体を起こすと膝行して御簾に近付き、それを上げた。この場には三人しかいない。
「……お見苦しい姿を晒してしまいます事、どうかお許しを……」
平伏したまま正行は言った。
「また、長きにわたりこの身を隠しておりました事、この正行、本来であれば主上の御前に出るなど畏れ多き事と……」
「帯刀!」
正行の口上を、帝は遮った。
「そのような事など良い! もっと近くで顔を見せてくれ……!」
正行が身を起こすと、帝の目には涙が浮かび、今にも立ち上がりそうなほど身を乗り出していた。
四條畷へ向かう前。帝は正行へ「生きて戻れ」と言った。
だが。
正行が戻ってくる事はなく、帝は長い間涙に暮れて過ごしていた。
あれから四年。
「もっと近う!」
まさか生きていたとは。またこの世で会えようとは。
「──我が股肱……! 近う!」
膝行で近くに寄った正行の顔を、帝は四年分を取り戻すかのように眺めた。
「この白布はいかがした?」
四條畷での矢傷が残っている事を、正行は告げた。そして、胸にも大きな傷が残っているために、今でも動く事には大きな制限がかかる事も。当然ながら、大鎧を纏い、馬に乗るなどできはしない。弓を射る事もできない。
「私にはもはや、主上のお役に立てる事は何も残っておりませぬ」
正行はうつむく。正儀もうつむいた。
「……帯刀、そなたが生きて戻ってきた、これ以上の事があろうか。されどもしも親房をはじめ公家達がそなたが戻ってきた事を知れば、その身で戦に行けと言うであろう。そなたが生きている事は、私と正儀、楠木党の者達だけの秘密だが、……そなたに勅命を下す」
正行は顔を上げた。
「勅……、にございますか……?」
「──二度と戦の地に立ってはならぬ。『朕』の勅ぞ」
静かに河内で暮らすが良い──。帝はそう言うと、
「生きて戻った事、まことに大義である」
と、袖で顔を覆い、正儀に御簾を下ろさせたのだった。
それから一月。
正行は河内の山深くにある、小さな造りの隠れ屋敷にいた。
四條畷で散った正行の生存に関しては、足利直義に隠されていた頃から引き続き隠し通していかねばならない。まして、北畠親房をはじめ公家達に知られる事は、帝の言う通り再び戦場へ引き戻される可能性が高い。
母に生きた兄を会わせたいとは思ったが、秘密の保持から正行を本拠地の館へ置く事も、正儀はしなかった。
正行も、それでいいと思った。正時と共に、あの日己は死んだのだ。
隠れ屋敷には、正儀が信用する口の堅い楠木党の者がわずかに手配されていて、正行の身の回りの世話をしている。
小さな屋敷とはいえ中を自由に動け、庭に出て花を愛でたり風を感じる事ができる、何の窮屈のない暮らし。毎日が穏やかで、何も変わりばえなく時が流れていた。
外ではまだ戦乱が続いているとはとても思えなかった。
この日、忙しい合間を縫って正儀が訪ねて来ていた。
「兄上。お変わりはありませぬか? ご不自由はありませぬか? ……このような山奥ではご不自由ばかりでしょうが」
苦笑しながら正儀は円座に座る。
「皆よく尽くしてくれる。何の不自由もない。……お前に全てを任せて気楽なものよと思うておる」
「何を仰せか、兄上。世の事はこの正儀にお任せ下され。どのような道になろうとも、この正儀、命を散らす事は致しませぬ。必ずや生き延び、楠木の家名を潰えるような事は致しませぬ」
そこまで言うと正儀は、
「いや、父上や兄上を否定しておる訳ではございませぬぞ」
と、また苦笑した。
「分かっておる、正儀。直義殿が南朝に帰順した際、絵図面で勝負をしたであろう。あの布陣でお前の考えが分かったわ」
「──私が死んでしまえば、それこそ父上・兄上の死が無意味になると思うたのです。どんな事をしても生きながらえる、勝てなくても負けさえしなければ、必ずやまた道は拓けると」
正行は、頼もしげに正儀を見た。
ああ。父上。
一人残された弟は、正儀は立派に立っております──。
我らのように散る道ではなく。
正時。
正儀は、これから辛い道を歩く事を決めているのだろう。きっと、華々しく散ってしまった方が楽なのかも知れぬほど、辛い道を。そこを一人で歩いて行くつもりなのだろう。
──この兄は、まだまだお前の元に行けそうになさそうだ……。
正行は胸を触って微笑んだ。
「正儀。足利殿……、尊氏殿と戦をした事はあるか?」
「尊氏殿と、でございますか?」
正儀は不思議そうな顔をした。子どもの頃から変わらないな、と正行は思った。
「義詮殿ら足利の軍勢とは都で干戈を交えた事はございますが、尊氏殿ご本人とはありませぬ。……これからまみえる事はあるやも知れませぬが」
それがいかがなされましたか、と正儀は正行に尋ねた。
正行は、山科で直義に従軍し尊氏と対峙した時の事を伝えた。
「あのお方には、我らの常識など通じぬ。どれだけ緻密に策を練ろうとも、何か理解を超えたもので自らそれにはまり、力ずくで踏み抜いてくる」
「常識が通じぬ……?」
「……何と言えば良いのか……」
正行には今も分からない。
味方の犠牲を意に介さず、ただひたすらこちらの策にはまる様は、兵の命を軽んじていたように思える。だが、尊氏は本気で兵を悼んでいるようにも感じた。
「……言葉にしようとすると難しいのだが」
正行は手に持つ扇を少し開いてパチンと閉じると、目を伏せ言葉を探した。
「……決して邪悪ではないのだ。『人とは違う理屈で動いている』だけなのだと、この兄は思うた」
そして正儀をまっすぐに見た。
兄の真剣な眼差しに、正儀は顔を引き締める。
「……あれは、言葉の通じぬバケモノぞ」
「兄上のご忠告、肝に銘じておきます」
正行は思い返す。
あれはこの山々のような。この空のような。或いはどこまでも続く海のような。穏やかな時は人を包み込み、戦となると人の想いなど関係なく牙をむく。
もしもこの弟があの男とまみえる事があるのなら。
「──気を付けよ、正儀」
第17話<吉野にて>をご覧下さいましてありがとうございます!
本来、帝の御簾が上げられる事というのは少なくても正行クラスでは基本的にはほぼないですし、この時代は直接会話をする事もありません。ただただ平伏して、間の伝奏が「主上が仰せである」的に伝えてくるのを聞くだけ。ドラマや映画などでは直接会話をしていますが、正確なものを取り入れるとひたすら話が長くなりますからね(笑)。今回のこの場面では、3人だけの秘密の時間なので尚更直接会話もありますが、太平記などでは正行が四條畷に行く前に、後村上天皇が直接話したりもしているっぽいので、後村上天皇はやはり正行を特別に見ていたかも知れませんね(年も近いし)。
残り1話、お付き合いいただけましたら幸いです。
最終話<戦乱の果て>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■帯刀 正しくは「たちは(わ)き」のようですが、ここでは「たてわき」としました。東宮(皇太子)の護衛官的なものです。後村上天皇が東宮だった頃から仕えていたのかも知れないですね(そのまま後村上天皇が呼び名を引っ張ってる的な)。
■膝行 膝ですりすり進んで行く事です。貴いお方の御前や他に神前でも、立ち上がるのは不敬なので、このように移動します。
■親房 北畠親房の事です。この頃の南朝では絶大な力を持っていたと思われます(はず)。
■勅命 天皇の命令です。
■朕 天皇や皇帝が自身を指す事です。この場面の後村上天皇は、3人だけなので「私」と言っていますが、勅命の時だけ敢えて「朕」としてみました。
■義詮 尊氏の息子、室町幕府二代将軍です。なお、京都の宝筺院には正行の首塚と義詮のお墓が並んで存在しています。




