第16話 菊水の陣幕
──正時。もう迷わぬ。
少しずつ、呼吸が整っていく。
ゆっくりと目を開ける。
視界に最初に入るのは、目の前で倒れている直義。そして、その傍らに座る尊氏。
「……尊氏殿。私は、足利を憎んでおりました。『鬼』となりて足利の行く末を見届けてやろうと思うておりました」
──されど。
「もう、終わりに致しまする」
正行は直義を見た。
この兄弟は確かにすれ違っていたのかも知れない。いつの間にか、道が違っていたのかも知れない。誰が悪いでもなく、こんな荒んだ時代でさえなければ、あるいは。
「尊氏殿の頬を流れるその涙。それはきっと……、尊氏殿の真心から流れているのでありましょう」
──されど。
「あなたは、何かがどこかで壊れてしまわれた。直義殿への想いが、兄弟への『慈しみ』なのか『憎しみ』なのか、区別がつかなくなられた。されどそれは、このような世では仕方のない事なのやも知れませぬ」
「正行、わしは直義を憎んでなどおらぬぞ? 幸せに極楽へ行けるよう、心から願うておる」
──ああ。この人は。
この人はきっと、
『慈しみ』も『憎しみ』も知らぬ、子どものように純粋な何か……、もしかしたらバケモノなのかも知れぬ。……『憎しみ』を知らぬ者に、『憎しみ』をぶつけた所でただ虚しくなるだけだ。
「左様でございまするか。……ならば私から申し上げる事は、……もはや何もございませぬ」
尊氏は困ったような顔をした。
「どうした、正行? 直義がいなくなってしもうたのが悲しいのか? 悲しまなくても良いのだぞ? わしが極楽へ導いておるのだから……。それとも、おおそうか、寂しいのか?」
──ああ、やはり。何の悪意もなく分からぬのだ。
哀れむような、しかし何の感情もないような眼差しで、正行は尊氏を見た。そして、倒れている直義を見た。
──直義殿。あなたは、大きな野分(台風)や地震に遭われたようなものかも知れませぬな……。あなたの兄君は、人がどんな言葉や想いを持とうが、不条理に襲いかかるそのようなものに似ている。
「わしが先頃吉野の帝と和睦したのは知っておろう。そして今直義を極楽へ送ったゆえ、世の中が思うような足利の兄弟げんかも終わった。長かったが、争いがなくなり、これで太平の世になった。これで皆が血を流す事もなくなる」
尊氏は、直義の頭を撫でながら正行に言った。
「直義がいなくなり寂しくなってしもうては、立派に南朝を背負うておる実の弟に会いたいであろう。そろそろ吉野に帰るが良いぞ。──正成殿もそれを願うておろう」
そして尊氏はまた、一筋涙を流した。血で血を洗う戦乱の世を終わらせた、実に満足げなその顔に、正行はまた、人ではないモノを見たような気がした──。
新緑が眩しい。
正行は、吉野近くの寺に張られた陣幕の中にいた。陣幕の紋は──、菊水。
言いようもない程、心が震えた。
床机に座り、陣の主を待つ。控えている者達は、正行を見ては涙を拭っていた。
そこに。
数人の供を連れて、まるでこの新緑のように瑞瑞しい若者が、直垂の袖を翻して現れた。
顔にまだ幼さが残っているというのに、無理に南朝の総大将としての威厳を取り繕っているな、と正行は思った。
「あ、兄上……!」
「正儀ッ……! 正儀!」
正行が立ち上がり、現れた弟を抱きしめると、正儀は入ってきた時の取り繕った顔を維持できず、一瞬で子どもの頃に戻した。
「苦労をさせたな……! 正儀……!」
「兄上、兄上……! よくぞ……、よくぞ生きておいでで! 大和での直義殿の帰順の交渉をしたあの日、どれだけ声をかけたかったか……!」
元服してすぐに兄二人を失い、南朝を背負う事になった弟。己が家督を継いだ時よりも遙かに早い段階で重責を背負わされ、その辛さや重圧はいかほどであっただろう。
──そばにいてやれず、すまなかった。
ずっと押さえ込んでいた様々な感情が溢れ出たのだろう。直義との交渉の際、あの場での絵図面の対戦でそこに正行がいると気付いていながら、静かに去って行った弟・正儀は、正行の胸の中で、声を上げて泣いた。
周りの楠木党の者達も皆、泣いている。
──正時。やっと。やっと帰って来たぞ……。
正儀が顔を埋める胸にある傷へ、正行は心の中で語りかけていた。
第16話<菊水の陣幕>をご覧下さいましてありがとうございます。
やっと正行が弟の元へ戻ります。四條畷の戦いから実に4年、正行の正確な年齢は不明ですが、四條畷で23歳という説を採用しているので、ここでは27歳くらいとなります。そう考えるとまだまだ若いですね(数え年だと思えば現代ならもっと若い事に……。四條畷の時点の歳でいろいろ説がありますが、数え26あたりで満23とか24くらいが妥当な気もします)。
そしてまた、この時代のややこしさ、尊氏が南朝側になってるんですよねぇ……。
次回は<吉野にて>
ご覧いただけましたら幸いです。
【用語】
■家督 家族やら一族のトップとでも言いましょうか。家督を継ぐ、家督争いなど歴史ではよく見る文言ですね。ただいろいろなものを受け継ぐのみならず、それを後ろへ繋いでいく責任も大きいと思います。




