第15話 直義の最期
明かりを点けて、部屋でひとり身体を休めていた正行は、背後から突然言われた。
「直義が死んだぞ」
時が止まったようだった。
頭がその言葉を理解するまで、ほんの少しだけ時がかかった。
ぱち。
まばたきをした。
ぱち。ぱち。
ぱちぱちぱち。
正行は円座に座ったまま身体ごと、ゆっくりと。ゆっくり、振り返った。
部屋の薄暗い入り口に、尊氏が立っていた。
「正行、聞こえたか? 直義が」
「なにゆえ」
正行は尊氏の言葉をさえぎった。
「直義殿が亡くなられたとは、なにゆえ」
視線の先にいた尊氏の頬が、燭台の明かりにきらりと光った気がした。
「随分と苦しんでいたが、今は穏やかな顔をしておる。皆で手厚く弔うとしよう。直義が道に迷わず極楽へ行けるように、な」
涙の跡──角度の加減か、今は見えない──も隠さずに話す尊氏は、どこか晴れやかだった。
──まさか。いや……、
実の弟ぞ……? そんな事はあるまい。
胸に去来する、漠然とした不安。
「はて尊氏殿。聞いてはおりませんでしたが、直義殿は……、病だったのでしょうか」
声が震えそうになるのを隠しながら、正行は静かに尋ねた。
「そなたは直義との関わりも長い。最後に顔を見てやれば、直義もきっと喜ぶであろう」
尊氏は、一歩、踏み出した。
一歩。また一歩。
正行にゆっくりと近付いてくる。
座ったまま己を見上げる正行の前まで来た尊氏は、正行の腕を摑んで
「早う立たぬか、正行。直義を見送ってやろうぞ」
と、急かすように言った。
「死んだとて、わしが弔ってやれば皆極楽往生するのだ、何を悲しむ事があろうか。ささ、正行、早う」
腕を引かれる痛みに耐えられず、正行は立ち上がった。尊氏は満足げに頷くと、直義がいるのであろう部屋へ向けて、正行の腕を摑んだまま歩き出す。
暗い廊下を進む。
──恐ろしい……。
歩を進めるにつれ、正行の中に湧き上がる恐怖。
この先にあるものは。
奥の部屋に着いた尊氏は、正行の腕から手を離すと、先に中に入っていった。
この先に。
「正行、何をしておる、直義が待っておるぞ」
中から尊氏が呼んでいる。
正行は、呼吸が乱れるのを感じながら──、
中に入った。
一歩入るとそこには。
うつ伏せに直義が倒れていた。
僧衣の袖や裾が乱れている。近くに盃が転がっていた。
それを見た正行は、ただ、はぁはぁと激しく呼吸をする事しかできなかった。
「どうした、正行、直義と会うのは久方ぶりであろう。もう少し近くに寄るが良い」
尊氏は倒れる直義の頭の辺りに座った。
「穏やかな顔をしておる。きっと極楽浄土へ行けようぞ」
そう言う尊氏の目から、涙が一筋流れているのを正行は見逃さなかった。
「尊氏……っ殿! これは、これはあなたが! あなたがやったのか……! 直義殿をっ、実の弟を……!」
尊氏は一筋の涙を流したまま、その顔を正行に向けて、
「──分からぬのだ」
と困ったような顔をした。
「わ、分からぬ、とは……! 何が分からぬ! 何が分からぬのだ! あなたは我が父を、今でも惜しんで下さっているのに……! なにゆえ、なにゆえ実の弟は!」
正行は叫んだ。
──父上の死を心から嘆いていながら、血の繋がった実の弟をいとも簡単に殺しているこの男は。目の前の『これ』は一体何だ。
「いつからこうなってしまったのか……。この兄と弟はいつから、歩く道が違っていたのであろう……」
困ったような、しかし笑っているような顔で尊氏は正行から目を離さず話し続ける。
「直義はこうして死んでしもうたが、わしは確かに直義を悼み、弔い、極楽へ導いておる。極楽へ行く直義は幸せだ、そう思うておるのに、」
つー、と、尊氏の目から光が流れた。
「なぜに涙が流れるのであろうな」
正行は尊氏から視線を逸らし、冷たくなっているであろう直義を見た。
死ぬはずだった正行を拾い、何年も自らの邸に隠していた直義。
足利が憎かったのに。絵図面の上の駒として、正行の手で動かしていたはずなのに。
正行はよろよろと直義に近付いた。
「それでも! 命まで奪う事はありますまい……!」
「──正行。そなたにも弟がおろう。どうであった? ……正時の死は」
「──!?」
突然の正時の名に、正行は一瞬だけ怯んだ。胸がズキリと痛む。
「正時を刺したであろう、短刀で。どうであった? そなたのやった事は、わしと同じ事であろう?」
「な、なにを……」
顔を引き攣らせて正行は言葉を繋ぐ。
「直義殿を殺める事と、正時と差し違えた事が同じと本気で思うてか!?」
「なぜ怒るのだ、ん? 正行? 正成殿はそんなに簡単に怒ったりはせなんだぞ?」
分からぬ。
分からぬ分からぬ分からぬ!
何を言うておるのだ!
「正時の分もわしが丁重に弔ってやるゆえ、安心せよ。たとえ地獄に堕ちていたとしても、すぐに極楽へ向かうであろう」
はぁ、はぁ、はぁ──。
己は今、息をしているのか──。
胸が痛い。傷が痛む。
ああ、正時。兄は、この兄は。
──『人』であったのだな。
四條畷で生き残ってしまってから。
ずっと暗闇にいる気がしていた。上も、下も、右も、左も分からぬ、永遠の闇。歩いているのか、それとも立ち止まっているのか、それさえも分からぬ暗闇。
そこに射し込んだ、一筋の光。
四條畷で逝ってしまった弟が、己につけた傷。弟が、確かに生きていた証。これは、この痛みは。
今はもうどこにもいなくなってしまった弟が、ずっと指し示していた、闇の中の一筋の光だったのだ……。
正行は、その場に座り、目を閉じた。
第15話<直義の最期>をご覧下さいましてありがとうございます。
遂に尊氏が直義を手に掛けてしまいました。実際の所はどうだったのかはっきりしていませんが、太平記で描かれている毒殺をこちらも採用しております(なお、直義は師直の死のちょうど一年後の同じ日に亡くなっています)。
それにしても、諸々あってこうなってしまったのであろうとは思いますが、正時と差し違えた事と同じにされたら、正行としてはちょっとねぇ……、とは思います。
人の感情というのは同じ部分からできていて、プラスかマイナス、どちらに働くかの違いなんだろうなぁ(多分)と思っていますが、同じ部分からできているからこそ区別がつかない尊氏、という感じにしてみました。そして、山科の時に兵が死んでいったのと同じように、「弔ってやれば極楽に行くのだからオールオッケー」的な感覚があるので、悪気も一切ありません。
次回は<菊水の陣幕>
ご覧いただけましたら幸いです。




