第四話 署名
王宮からの呼び出しは、父ではなくわたくし宛に来た。
儀典局の小部屋に通された。書記が一人、壁際で紙を広げている。
フォルジュ卿は先に座っていた。
「ヴァルニエ伯爵令嬢。急に呼び立てて申し訳ない」
「いえ」
「先日、ドレスデ侯爵家より回答が届いた。読んでいただきたい」
一枚の書面が机を滑ってきた。
婚約記載の件について。当該婚約は解消されておらず、先の宣言は両家の合意により撤回済みである。よって名簿の記載は現状のままとされたい。
署名はひとつ。ユリアン・ドレスデ。
読み終えて、書面の端を見た。受理の印は、十日前の日付になっている。
「侯爵様のご署名がございません」
「そこだ」
フォルジュ卿は指を組んだ。
「撤回には両家当主の連名が要る。この書面には子息の名しかない。にもかかわらず、撤回済みと書いてある。私は二つのうちどちらかを疑わねばならん。書式を誤ったのか、事実を誤ったのか」
「両家の合意という点について、わたくしは何も伺っておりません」
「令嬢のもとへ、侯爵家から書面が届いたことは」
「ございません」
「口頭でのお話は」
「戻れば元に戻る、というお言葉をいただきました。書面ではございません」
フォルジュ卿は書記のほうを見た。書記は書いた。
「合意していないということか」
「はい」
書記の筆が動いた。
「もう一度伺う。あの夜の宣言は撤回されていないか」
「撤回されておりません」
「令嬢は、撤回を望むか」
書面をもう一度見る。文字が急いでいる。先日届いた手紙と同じ手の癖だった。
「望みません」
筆の音が止まって、また動いた。
扉が叩かれる。侯爵が入ってきた。
侯爵はわたくしを見て、それから書面を見て、椅子に座らなかった。
「ドレスデ侯爵。この書面に、貴殿は関与しておられるか」
「……見ておりません」
「撤回に同意しておられるか」
書記の筆が止まった。
同意したと言えば、連名の署名がないまま撤回済みと書いた責任を、当主自身が負うことになる。同意していないと言えば、息子が単独で王宮に虚偽を出したことになる。
侯爵は窓のない壁を見て、それから言った。
「署名しておりません」
書記の筆が動いた。
あの朝、この方は書斎で紙束の厚みを指で測った。息子を庇えば、次に返ってくるのは当主自身の名になる。
侯爵はわたくしのほうを見なかった。わたくしも見なかった。この方は今、あの朝に自分の机の上で数えたものを、もう一度数えているところだった。
扉がまた開く。
入ってきたのはユリアン様。今度は襟が留まっている。
「父上。私が説明します」
「ドレスデ子息。座りなさい」
「書式を誤りました。撤回の手続きは進行中で、書面が先に出てしまったのです」
「進行中とは、誰と誰のあいだで進んでおるのか」
「両家のあいだで」
「侯爵は今、署名しておらぬと申された」
「父上は、細かい手続きまでご存じないだけです」
侯爵は何も言わない。ユリアン様はもう一度父親を見て、それから待った。
それから、わたくしを見た。
「アニエス」
「はい」
「君が一言、合意したと言えばいい。それだけで全部収まる。父上の名にも傷がつかない。君の家にもだ。頼む」
頼む、と。
三年、この方はわたくしに何も頼まなかった。今日が初めてだった。
「ユリアン様」
「頼む」
「三年、わたくしが黙って収めてまいりましたのは、頼まれたからではございません」
「今は頼んでいる」
「はい。ですから、お答えいたします」
フォルジュ卿のほうへ向き直る。
「合意しておりません。撤回に同意した事実はございません」
書記の筆が、今度は長く動いた。
ユリアン様は立ったまま、わたくしの横顔を見ている。
出てこないと分かるまでに、今日は少しかかる。
「アニエス。君は私を潰す気か」
「潰しておりません」
「では何をしている」
「何もしておりません。三年、していたことをやめただけでございます」
フォルジュ卿が書面を引き取った。
「ドレスデ子息。この件は儀典局の記録に残る。当面、公卓での宣言に関わる手続きから貴殿の署名を外させていただく。侯爵家からの書面は、以後は当主の名で出されたい」
「それでは、私は」
「貴殿の名では、当家に何も出せぬということだ」
「一季だけでございますか」
「記録が消えるまでだ。記録は消えぬ」
ユリアン様は書面のほうへ手を伸ばしかけて、途中で止めた。フォルジュ卿がすでに引き取っている。
侯爵は最後まで息子の顔を見なかった。
小部屋を出た。
三つ目の扉の前に、女の人が立っていた。年は父と同じくらい。飾りのない濃い色の上着を着ている。
「ヴァルニエ伯爵令嬢」
「はい」
「マノンと申します。調停局におります」
わたくしは礼をした。オルシー男爵家で名前だけ聞いた方だった。
「今の部屋の話が、扉の外まで聞こえました。書記の筆の速さで、だいたい分かります」
「そうでございますか」
「あなたは、収めなかった」
言われて、返事に困る。
「三年で二十七件、公にせずに収めたと聞きました。今日、収めようと思えば収められた。一言で済んだ。それをしなかった」
「あの一言は、収めるものではございませんでしたので」
「その区別ができる人を探しています」
「区別の仕方を、わたくしは教わっておりません」
「教わって身につく人を、私は見たことがありません」
マノン殿が廊下の先を見る。
「調停局の仕事は、揉め事を消すことではありません。消してよいものと、消してはいけないものを分けることです。前者だけができる人はたくさんいる。後者ができる人は少ない」
「わたくしは、後者ができておりませんでした。三年」
「今日はできた」
そう言って、その方は懐から一枚出した。調停局の見習席の書式だった。
「返事は急ぎません。オルシー家の若い方にも同じことを言われたでしょう」
「はい」
「あの家は待つのが上手です。私は下手なので、こちらから来ました」
「オルシー男爵家とは、長いお付き合いでございますか」
「あの家が湿地の水を引き直したとき、隣の三家と揉めました。三年かかりました。私が入る前に、あの家の若い方が一人で回っていた」
一人で回る。
去年の秋、四通目を届けたとき、応対に出たのがなぜ交渉役だったのかが、そこで分かった。
書式を受け取った。
「ひとつだけ伺っても」
「どうぞ」
「わたくしは、泣けないのでございます。母の葬儀でも泣きませんでした。それを、情がないと言われて育ちました」
マノン殿は、それを聞いても表情を変えなかった。
「調停の席で泣かれると困ります」
書式を持ったまま、しばらく廊下に立っている。
伯爵邸に帰ると、父が書斎から出てくる。
「王宮から使いが来た。名簿の記載は外れたそうだ」
「はい」
「侯爵家からは、詫びの手紙が来ておる。当主の名でな」
父は封を持ったまま、それを差し出そうとして、途中でやめた。
「これは、わしが読む」
「はい」
「お前が読むものではない」
三年、この家に届いた侯爵家からの手紙は、すべてわたくしが先に読んでいた。父が読む前に開けて、返事の下書きまでつけて渡していた。
「返事の文面は」
「わしが書く」
「はい」
「長くなったら、そのときは言え」
「はい」
父の言い方が、少し不器用になっている。
自分の部屋に戻って、机の引き出しを開ける。オルシー男爵家の返書の隣に、調停局の書式を並べた。
紙が二枚になった。
閉めようとして、手を止める。返書のほうを取り出して、封を切った。
去年の十一月の日付で、こう書いてあった。
貴女様のお心遣いに感謝いたします。ただ、当家が待っておりますのは詫びではなく、湿地の話を笑った当人からの一言でございます。それが参りませんうちは、当家はこの件を終わりにいたしません。貴女様が終わりになさる必要も、ございません。
わたくしはその紙を、引き出しに戻さなかった。机の上に置いたままにした。
その夜、シャルロット様から手紙が届いた。




