第二話 書き挟み
翌朝、わたくしはドレスデ侯爵邸の書斎に、革の書き挟みを置いた。
「これは」
「三年分でございます」
侯爵は机の向こうで、それを見た。手は伸ばさない。
「アニエス嬢。昨夜のことは、若い者の行き違いだ」
「行き違いではございません。公卓でのご宣言でした」
「ユリアンは酒を過ごしていた。今朝は寝台から出てこられぬほど気に病んでいる。あれにも面目というものがある」
窓の外で、庭師が枝を落とす音がした。
「両家の当主が連名で署名すれば、破棄は撤回できる。手続きは私が整えよう。君は今日ここに泊まって、明後日の茶会に出ればいい。何事もなかったことになる」
何事もなかったことになる。
「侯爵様。撤回の署名をなさるということは、昨夜のご宣言が本気ではなかったと、王宮儀典官の前で認めるということでございます」
侯爵の指が机を一度打った。
「フォルジュ卿は、公卓の作法をご存じの方です。証人に立った以上、ご自分の名が使われた理由をお尋ねになります。あれは試しでしたと、ユリアン様がお答えになるおつもりでしたら、わたくしはもう何も申しません」
書斎が静かになった。庭師の鋏の音だけが続いている。
「その書き挟みは、何だ」
侯爵がようやくそれに触れた。留め具を外して、紙束を出す。
一枚目は今年の四月。ロベール男爵家。婚礼の祝いを二度お送りした件。
二枚目は今年の二月。王宮の楽長。演奏の途中で退席なさった件。
三枚目は去年の十一月。オルシー男爵家。
侯爵は三枚目で手を止めた。それから、紙束の厚みを指で測った。
「これは、詫び状か」
「控えでございます。届けたものの写しと、先方のお返事と、その後にお会いした日付を」
「何通ある」
「三年で二十七件。件数でございます。通数はもう少し多くなります」
紙束が机に戻される。
「二十七」
「ロベール男爵家は、二度目の祝いのご辞退に半年かかりました。王宮の楽長には、次の季の演目をお決めになるまで三度伺いました。オルシー男爵家は、まだ終わっておりません」
「終わっていないとは」
「先方がお受け取りになっただけで、こちらから何もお返ししていないという意味でございます」
侯爵は返事をしなかった。窓のほうを見て、それから紙束のほうを見る。
「昨年の夏、シャンベール公爵家の茶会で、ユリアンが席を立った件がある。あれは体調のためだと聞いた」
「体調ではございません。同じ卓に、その半年前にユリアン様が領地の話でお笑いになった方が座っておいででした」
「誰から聞いた」
「席次を作りましたのがわたくしでございましたので」
紙束の縁で、侯爵の指が止まった。
わたくしは、この方が数え始めたのが分かった。三年分の件数を、今この場で、初めて。侯爵家に醜聞が出なかったのは家格のおかげだと、この方はずっと思っておいでだった。
扉が開いた。
ユリアン様が入ってきた。上着は着ているが、襟のところが留まっていない。
「父上。話は私がします」
「ユリアン」
「アニエス。昨夜のことだが」
わたくしは立ったまま、その方の顔を見た。昨夜、待つものがなくなったときの顔が、ひと晩でずいぶん整えられている。
「私は君を試したのではない。あの場でああ言えば、君が何か言うと思った。三年、君は何も言わなかった。私は君の口から、一度でいいから」
「泣いてほしかったのでございましょう」
ユリアン様が黙った。
「一年目の冬、母の手紙を暖炉にお入れになったとき。二年目の春、指輪の意匠をシャルロット様にお見せになったとき。三年目の夏、父の家名をお間違えになったとき。そのたびに、翌朝わたくしの顔をご覧になりました。三度ずつ、あるいは四度」
「アニエス」
「わたくしが何も出さないので、お困りになりましたね」
返事の代わりに、ユリアン様は父親のほうを見た。侯爵は机の紙束に手を置いたままで、息子を見ていない。
「父上が署名してくださる。君の家にも私から話す。半年もすれば誰も覚えていない」
「ユリアン様。撤回には侯爵様とわたくしの父の連名が要ります。侯爵様が署名なさるとき、フォルジュ卿にはこう申し上げることになります。昨夜のあれは本気ではございませんでした、と」
「それは」
「ご自分でそうお書きになれますか」
ユリアン様の口が動いて、言葉が出てこなかった。
わたくしは、その方が何を計っているのかも分かった。書けば、三年間のすべてが試しだったと認めることになる。書かなければ、破棄はこのまま残る。この方は、どちらを選んでも自分が損をする卓に、昨夜自分で座った。
「お手数をおかけいたしました」
わたくしは礼をして、扉のほうへ向かった。
「待て。あの書き挟みは持って帰れ」
侯爵の声だった。
振り返る。侯爵はまだ紙束の上に手を置いている。
「置いてまいります。侯爵家に宛てられたものではございませんが、侯爵家から出たものでございますので」
「アニエス嬢」
「二十七件のうち、十九件は先方がまだこちらのご様子をご覧になっております。どなたがいつお伺いになるかは、侯爵家でお決めくださいませ」
書斎を出た。廊下は薄暗い。燭台に火が入っていない。朝のうちは入れない決まりで、それを決めたのはわたくしだった。
玄関まで、家令のバルトが送ってくれた。三年、わたくしの馬車の手配をしてきた方である。
「お嬢様」
「バルト」
「四月のロベール男爵家の件、二度目の祝いの品を出したのは私でございます。お嬢様に止められる前に」
「存じております」
「あれから、私は品を出す前に必ずお嬢様に伺うようになりました。明日からは、誰に伺えばよろしいのでしょうか」
「ユリアン様にお伺いくださいませ」
バルトは黙っていた。
「バルト」
「若様は、お決めになりません。お決めになったことにして、あとでお嬢様が直しておられました」
答えを持っていなかった。持っていないと申し上げるのも違う気がして、わたくしはただ礼をした。バルトも礼を返す。それから馬車の扉を閉めるとき、外から一度、留め具を確かめた。三年、この方はいつもそうする。
馬車が門を出るまで、後ろは見なかった。北の翼の三つ目が書斎、その隣が客間、廊下の燭台は朝のうちは入れない。三年で覚えたことは、覚えたままそこにある。使い道だけがなくなる。
ヴァルニエ伯爵邸に着いたのは昼だった。父は玄関まで出てきていて、わたくしの顔を見るなり、何も言わずに書斎へ入っていった。
夕方になって呼ばれる。
「ドレスデ侯爵から手紙が来た」
父は封を切ったものを机に置いた。
「両家の話し合いの席を設けたいと。日取りはこちらの都合に合わせるとある」
「お受けにならないでくださいませ」
「アニエス。うちは伯爵家だ。侯爵家から席を設けたいと言われて断る家ではない」
「断るのではございません。日取りを決めないだけでございます。侯爵様は、こちらの都合に合わせるとお書きになりました」
手紙がもう一度開かれる。読み直して、父は同じところで目を止めた。
「席を設ければ、撤回の話になります。撤回すれば、あの方はもう一度わたくしを試されます。四年目の冬に」
「試すとは、何のことだ」
「三年、そういうことがございました」
父は聞き返さない。
手紙がたたまれる。たたんでから、父はしばらくそれを手の中に置いていた。
「お前は昨夜、泣かなかったそうだな」
「はい」
「母さんのときも泣かなかった」
「はい」
父は何か言いかけて、やめた。それから、返事はこちらで考えると言って、話を終わらせた。
自分の部屋へ戻る。侯爵邸から持ち帰ったものは少なかった。母の手紙はもうないので、持ち帰るものが減っている。
机の引き出しを開けた。書き挟みの入っていた場所が空いている。
今夜は書くことがない。
わたくしは引き出しを閉めて、そのまま椅子に座っていた。しばらくして、頬に手をやってみた。乾いている。昨夜も、今朝も、今も。
治らない病だと思っていた。
侯爵邸から最初の使いが来たのは、それから四日後のことだった。




