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泣くと思っていましたか?  作者: 九葉(くずは)


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第一話 春の夜会

婚約を破棄すると告げる前に、あの方は必ずこちらを見る。


ユリアン・ドレスデ侯爵子息は、今夜も見た。公卓の向こう、燭台の列の下から、わたくしの顔を確かめるように。


「アニエス嬢」


広間の話し声が引いていく。楽団がひとつ拍を落として、そのまま止まった。


「この場をお借りする。私は、ヴァルニエ伯爵令嬢アニエスとの婚約を、本日をもって破棄する」


誰も動かない。公卓の白い布の上に、席札が三枚。王宮儀典官のフォルジュ卿、ベルモン子爵、それからオルシー男爵家の交渉役の方。証人が三名。数が足りている。


今夜の席次を組んだのは、わたくしである。公卓のそばに誰を置くかも、三日前に決めた。


わたくしは、その三枚を数えてしまった。数えてから、自分がそんなことをしていると気づいた。


「理由をお聞きしても」


「君は私を愛していない」


ユリアン様は言い切る。言い切る前に、もう一度こちらを見た。


「三年だ。三年のあいだ、君は一度も私に何も求めなかった。怒りもしない。責めもしない。私が何をしても、君は同じ顔で書き物をしていた」


書き物、と。


「愛のない婚約に、これ以上互いを縛る意味はない」


広間の端で、誰かが扇を鳴らした。ベルモン子爵の隣で、シャルロット様が両手を膝の上に置いたまま、床の一点を見ている。あの方の髪飾りは、今夜のドレスの色と合っていない。急に着せられたのだと分かる。


ユリアン様の話は続いた。侯爵家の名誉、両家の将来、これが双方のためであること。わたくしはその声を聞きながら、明日の朝いちばんに誰へ手紙を書くべきかを考えていた。


フォルジュ卿へ。王宮の儀典に関わる方が証人に立った以上、名簿から婚約の記載を外す手続きが要る。


ベルモン子爵家へ。シャルロット様を巻き込んだ形になったので、噂が固まる前に。膝の上の手を見れば分かる。


オルシー男爵家へ。


そこで手が止まった。


オルシー男爵家へは、去年の秋にもう詫びに行っている。


去年の秋、ユリアン様は狩猟の集まりで、オルシー領の土地の話をなさった。あの程度の湿地に人が住んでいるのが不思議だ、と。笑い話のつもりで、周りも笑った。笑わなかったのは、その場にいたオルシー家の交渉役の方だけだった。


わたくしは三日後に馬車を出した。詫び状は道中で書き直しを重ね、届けたのは四通目。応対に出たのは、その交渉役の方。名を、レナート・オルシーという。


あの方は詫び状を最後まで読み、それから顔を上げて、こうおっしゃった。侯爵子息のお言葉を、なぜあなたが詫びるのですか。


わたくしはそのとき、なんと答えたのだったか。覚えていない。たぶん、当然のことですと申し上げた。


帰りの馬車で、わたくしはその問いを何度か思い返した。詫びるべき人が詫びないなら、誰かが詫びるしかない。そう言えばよかったのだと思いつき、そこで、それは答えになっていないと気づいた。以来、あの問いは書き挟みの底に沈んだままになっている。


その方が今、公卓の証人席に座っている。婚約の破棄に、必要な数として。


「アニエス嬢」


名を呼ばれて、視線を戻した。


ユリアン様は待っている。話し終えて、腕を後ろで組んで、こちらを見て、待っている。


広間も待っている。三百人の貴族が、わたくしの顔を見ている。ここで泣くのだろうと思っている。婚約者に公然と捨てられた娘が、人前で崩れる場面を、この人たちは今夜の土産に持ち帰るつもりでいる。


後ろのほうで、若い令嬢が小声で言った。かわいそうに、と。その隣の方が、あの方はいつも顔色を変えないから、と返した。二人とも悪気はない。


そしてユリアン様だけは、別のものを待っていた。


三年でわかったことがある。この方は、わたくしを傷つけたいのではない。わたくしが傷ついた証拠が欲しいのだ。


一年目の冬、母の手紙の束を、湿っぽいと言って暖炉に入れられた。わたくしは灰を掃除して、その日のうちに侯爵邸の使用人へ詫びを言って回った。手紙の燃える匂いが屋敷中に回ってしまったので。翌朝、ユリアン様は朝食の席で三度こちらを見た。三度目のあと、パンを置いて出ていかれた。


二年目の春。婚礼で使う指輪の意匠を、わたくしより先にシャルロット様へ見せている。わたくしは意匠を褒めた。褒めてから宝飾師のもとへ行き、注文が二重に入っていないかを確かめる。二重になっていた。片方を取り消す費用は、わたくしの小遣いから出した。


三年目の夏。祝いの席でわたくしの父の家名を言い間違えて、そのまま訂正なさらなかった。わたくしは席次の札を書き直し、父には自分の手違いだと申し上げた。父は、お前がそう言うならと言って、それきりその話をしなかった。


そのたびに、ユリアン様は待つ。次の日も、その次の日も、こちらの顔色をうかがっていた。何も出てこないと分かると、少し不機嫌になって、そして次のことを考えた。


わたくしは、それを自分の欠けたところのせいだと思っている。


母の葬儀でも涙が出なかった。棺の前で立っていたら、伯母が小声で、この子は情がないのねと言った。八つのころ。以来、泣けないというのは治らない病のようなもので、治らないなら別のもので埋めるしかないと決めた。


埋めるものは、いくらでもあった。ユリアン様は毎月、埋めるべきものを作ってくださる。詫び状を入れる革の書き挟みは、三年で表紙の角が丸くなった。一年目より二年目、二年目より三年目のほうが厚い。厚くなっていくのを、わたくしは自分の努力の記録のように思っていた。


だから今夜も、そういう夜のはずだった。


この方はわたくしが泣くのを待ち、泣かないので、破棄という一番重い札を出した。ここで縋れば、冗談だと言うつもりでいる。この方の言葉には、いつも撤回の余地が残してある。去年の暮れにも一度、婚約はなかったことにしてもいいと言われた。あのときは屋敷の居間で、聞いていたのは使用人が二人だった。わたくしが黙っていたら、翌朝には何もなかったことになっていた。


けれど今夜は、公卓。


証人が三名。王宮の儀典官が一人。


公卓で宣言された婚約の破棄は、その場で成立する。撤回には両家当主の連名署名が要る。ユリアン様がそれを知らないはずはない。知っていて、なお使った。それだけ確かな試しだと思われたということだ。


わたくしは書き挟みのことを考えた。明日の朝、あれを開いて、フォルジュ卿への手紙から書き始める。ベルモン子爵家へは、シャルロット様の名がどこにも残らないように書く。


そこまで考えて、手が止まった。二度目だった。


書かなくていい。


明日から、わたくしはその手紙を一通も書かなくていい。


胸のあたりが、静かになった。


顔を上げた。


「ユリアン様」


「なんだ」


わたくしは、待っている三百人の顔をひととおり見た。それから、婚約者だった方を見る。


「泣くと思っていましたか?」


ユリアン様の口が、少し開いた。


「わたくしが泣けば、今のお言葉を冗談になさるおつもりでしたでしょう。三年、そうしてこられましたので」


広間から音が消えた。


「けれど今夜は公卓でございます。証人が三名。フォルジュ卿がいらっしゃいます。冗談にはなさいません」


「アニエス。私はそういうつもりで言ったのでは」


「破棄のお申し出、承知いたしました」


言い終えて、裾を持って礼をした。深く、正しく、三年間そうしてきたとおりに。


顔を上げたとき、ユリアン様はまだ同じ姿勢のままだった。腕を後ろで組んで、口を開けて、こちらを見ていた。待っていた顔のまま、待つものがなくなっていた。


ドレスデ侯爵が息子の名を呼んだ。低く、短く。それから、わたくしのほうへ一歩出ようとして、途中でやめた。この場で侯爵が動けば、破棄そのものを侯爵家が惜しんだことになる。わたくしなら止める。


誰も動かない。楽団が拍を取り直せずにいる。証人席のレナート様が、席札に手を伸ばして、自分の名の書かれた一枚を裏返した。証人の役目が終わったという意味の作法だった。この場でその作法を思い出した人は、あの方だけだった。


わたくしは公卓に背を向けて、広間を出る。誰も呼び止めなかった。


夜気が首筋に触れた。馬車まで歩きながら、明日の朝にすることを数えようとして、数えるものがないことに気づいた。


明日から、この家であの方の詫びを書く人間は、一人もいない。

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― 新着の感想 ―
そもそもこの婚約破棄の宣言がなされた場がなんなのか記述がない上に定義のわからない「公卓」が出てきて混乱しています。 楽団がいて席次を侯爵令息の婚約者である伯爵令嬢がきめているので、侯爵家主催の夜会でし…
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