第21話 新しい風と、新しい旅 ―― 後編「最初の依頼」
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市場を抜けた先、広場の隅に、木の掲示板が立っていた。何十枚もの紙が、風に揺れながら貼り重ねられている。魔物討伐、護衛依頼、荷物運搬、迷子の猫探し。大小さまざまな困り事が、そこには詰まっていた。
ボレアス「これは、何じゃ」
直也「依頼掲示板だよ。困ってる人が、報酬と引き換えに手伝いを頼む場所だ」
ボレアス「面白い仕組みじゃな」
直也「面白いか?」
ボレアス「知らぬ道理を、また一つ知った。それだけで、妾には十分面白いのじゃ」
ボレアス「紙を貼れば、誰かが助けてくれるのか」
直也「金を払えばな」
ボレアス「困れば助けを求める。それが、この世界では普通のことなのか」
その問いには、単なる疑問以上の響きがあった。氷の玉座で、誰にも頼ることなく一人で全てを背負い続けてきた彼女にとって、それはまだ、簡単には飲み込めない概念なのだろう。
会社員だった頃、俺も似たようなものだった。困っていても、誰かに助けを求めるくらいなら、一人で抱え込む方を選んでいた。それがいつの間にか、この旅の中で少しずつ変わっていた。頼ることも、頼られることも、思っていたより悪くない。
ボレアスにとっては、その両方が、まだ新しい発見なのだろう。誰かに頼ることも、誰かから頼られることも、氷の玉座にいた頃には、縁のない話だったはずだ。
リィナ「はい。一人じゃできないことも、たくさんありますから」
リィナが、そっと寄り添うように答えた。ボレアスは、それきり黙って掲示板を見上げていた。
ポン太は、報酬額だけを追いながら紙を捲っていく。
ポン太「銀貨15枚……悪くねぇな」
直也「魔物討伐か」
ポン太「いや、これは論外。討伐対象がでかすぎる」
ポン太「こっちは危険すぎる。護衛依頼で、依頼主の身元も怪しい」
物色を続けるポン太の手が、一枚の紙で止まった。
ポン太「……安っ」
直也「第一声、それか」
紙にはこう書かれていた。
『街道橋付近 荷車通行障害 原因調査・簡易補修 銀貨2枚』
ポン太「現地確認、補修、往復移動込みで銀貨2枚だと? 依頼主、相場を分かってねぇぞ」
リィナ「だから、誰も受けてないんですね」
ポン太「……そういう言い方されると、断りづらいんだよ」
ゼピュロス「結局行くの?」
ポン太「行くけど、文句は言うぞ」
直也「分かりやすいな、お前」
その様子を見て、ボレアスが小さく笑った。誰かの分かりやすさを、面白がる余裕が、彼女の中にも育ちつつあるようだった。
俺たちは、街道橋へ向けて歩き出した。地図を確認するまでもなく、街の外れへ続く道は、市場の喧騒からすぐに切り離されていく。石畳が土の道へ変わり、両脇の建物も、次第にまばらになっていった。
ゼピュロス「銀貨2枚の仕事のために、こんなに歩くの?」
ポン太「安くても仕事は仕事だ。手を抜くと信用に関わる」
ゼピュロス「意外と真面目なところあるわよね、あんた」
ポン太「意外は余計だ」
◆◆◆
街道橋は、街の外れにあった。石造りの、それなりに年季の入った橋だった。川幅はさほど広くないが、荷を積んだ車が渡るには、十分な作りに見える。見た目は、特に壊れているようには見えない。石の橋脚も、木の板も、しっかりとその形を保っている。
だが、ちょうど一台の荷車が、橋の途中で立ち往生していた。
商人「またか!」
直也「……どこが壊れてるんですか」
商人「壊れてはいないんだよ」
直也「じゃあ何で止まるんですか」
商人「通れないんだ」
直也「壊れてるじゃないですか」
商人「いや、歩くことはできる」
直也「どっちなんですか」
商人は困り顔のまま、繰り返すばかりだった。噛み合わない問答に、ゼピュロスが、こらえきれずに噴き出す。
ゼピュロス「壊れてないけど通れない橋、ね。哲学みたいな話になってきた」
ポン太「へへっ、こういう『壊れてないけど困る』案件が、一番厄介なんだ」
直也「哲学的な依頼に銀貨2枚か」
ポン太「安すぎるって言っただろ、旦那」
リィナも、橋を見上げながら首を傾げていた。木材にも石にも、目立った損傷は見当たらない。
その中で、ボレアスだけが、何も言わずに橋脚と木材を静かに観察していた。指先で軽く触れ、目を細め、また少し離れた場所へ移動する。膝をつき、橋の下の水面を覗き込むこともあった。誰かに命じられたわけでもないのに、彼女はその作業を、丁寧に続けていた。
ゼピュロスが、その様子を横目で見て、小さく呟いた。
ゼピュロス「なんか、真剣ね」
リィナ「らしくないですね、って言ったら失礼でしょうか」
ゼピュロス「言えばいいのよ、思ったこと」
そんな二人のやり取りにも気づかず、ボレアスは観察を続けていた。
直也「何か分かるか」
ボレアス「橋そのものではない」
皆が、彼女の方を見た。
直也「じゃあ何なんだ」
ボレアス「荷重が、少しだけ、逃げておるのじゃ」
直也「逃げてる?」
ボレアス「歪みが、僅かに積み重なっておるのじゃ。目には見えぬほど、少しずつな」
彼女は、橋脚の継ぎ目の一つを指差した。
ボレアス「ここじゃ。他より僅かに沈んでおる。おそらく、以前の補修で、この一点だけを強く固めすぎたのじゃろう。荷車がここへ来るたび、その一点だけへ、重みが集まり続けておる」
直也「直せそうか」
ボレアスは、しばらく考え込んだ。誰かに答えを求められたわけではない、彼女自身の中だけで交わされている、静かな検討だった。やがて、彼女は顔を上げ、まっすぐに橋を見据えた。
ボレアス「……試してみたい」
その声には、迷いよりも先に、確かな意思があった。誰に強制されたのでもなく、自分から、そう口にしたのは、これが初めてのことだった。
◆◆◆
ボレアスが、橋へと歩み寄る。
商人「お、おい……凍らせる気か?」
ボレアス「少し黙っておれ」
商人「……はい」
即座に従う商人の様子に、ゼピュロスが肩を揺らして笑った。
ゼピュロス「威圧効果、早速実証されたわね」
ポン太「評価シート、更新しとかねぇとな」
直也「仕事が早いなお前」
軽口が飛び交う中、ボレアスは橋脚の一つに手を添えた。目を閉じ、集中するように、しばらく動かない。冷気は、最小限だった。壊すためではない。ただ、緩んだものを、そっと締め直すための力だった。
白い霜が、一瞬だけ木材の表面を走る。氷の粒が、細い糸のように橋脚を伝い、緩んでいた継ぎ目を、そっとなぞっていく。
小さく、乾いた音がした。締め付けられたものが、正しい形へ収まるような、そんな音だった。
橋が、静かに整った。
荷車が、ゆっくりと動き出す。今度は、途中で止まることはなかった。
商人「おっ」
旅人「通った!」
別の商人「何したんだ、今」
ボレアス「少し、締めただけじゃ」
商人「橋を?」
ボレアス「橋を」
ポン太「説明が雑だなぁ」
周囲から、笑いが起きた。
雑な説明だったが、俺には、なんとなく分かった気がした。沈んだ一点だけに集まっていた重みを、彼女は凍らせて縛ったわけじゃない。その一点の緊張を緩め、橋全体が、本来受け持つべき重さへ戻しただけだ。
そして、通り過ぎていく人々の口から、ぽつぽつと声が上がった。
「助かった」
「ありがとうな、お嬢さん」
「こんなに早く直るなんてなあ」
大歓声ではなかった。ただの、生活の中の、小さな感謝だった。それでも、その一つ一つが、ボレアスの表情を、少しずつ和らげていくのが分かった。彼女は、その言葉の一つ一つに、どう応えればいいのか分からないような顔をしていた。だが、拒む素振りは、どこにもなかった。
商人の一人が、荷車の脇から果物をいくつか取り出し、遠慮がちに差し出した。
商人「これ、少しだけどよ。礼だ」
ボレアス「……いらぬ。妾が、勝手にやったことじゃ」
商人「そう言わずに。受け取っておくれ」
押し問答の末、ボレアスは、渋々といった様子でそれを受け取った。手のひらに乗った果物を、しばらく不思議そうに見つめている。
ゼピュロス「もらっとけばいいのよ、素直に」
ボレアス「素直にもらっておるではないか」
ゼピュロス「今の顔、全然素直じゃなかったけど」
ボレアス「うるさい」
そんなやり取りにも、もう誰も驚く者はいなかった。
直也「どうだった」
ボレアスは、しばらく答えなかった。橋を、通り過ぎていく人々を、自分の手のひらを、順に見つめていた。手にした果物を、大事そうに握り直す。
ボレアス「……悪くなかった」
そう言って、彼女は歩き出した。数歩進んだところで、ふと足を止める。
ボレアス「役目ではない」
直也「うん」
ボレアス「妾が、選んだ」
俺は、それに何も言わなかった。ただ、少しだけ笑った。それで十分だと思った。
リィナが、そんなボレアスの隣に並んだ。
リィナ「その果物、あとで一緒に食べましょうか」
ボレアス「……好きにするがよい」
素っ気ない返事だったが、握りしめた果物を懐へしまう仕草に、拒絶の色はなかった。誰かから対価としてではなく、ただの気持ちとして何かを受け取ったのは、彼女にとって、これが初めてかもしれない。俺は、その小さな出来事を、頭の片隅にそっと留めておいた。
ゼピュロスとポン太も、それぞれのペースで後に続く。誰もが、来た時よりも少しだけ軽い足取りで、街道を歩いていた。
◆◆◆
街道を歩き出した俺たちの頭上で、光球が静かに明滅した。
ALMA『解析誤差、0.4パーセント増加を検出しました』
直也「……またか」
ALMA『……原因は、特定できていません』
その間の取り方が、心なしか、中編で聞いたものと似ていた。
直也「前と同じやつか」
ALMA『同一の傾向と推定されます。ただし、断定はできません』
その報告に、誰も深い意味を見出さなかった。ゼピュロスは、次の目的地の話を始めている。ポン太は、また別の依頼の噂を仕入れようとしている。リィナは、ボレアスの隣で、何か楽しそうに話しかけていた。ボレアスも、時折、短く相槌を返している。
いつも通りの、賑やかな旅の光景だった。
ただ、頭上の光球だけが、まだ何かを、静かに測り続けていた。誰にも気づかれないまま、少しずつ、何かが積み重なっているのかもしれない。それが何なのか、今の俺には、まだ知る由もなかった。
それでも、旅は止まらない。
新しい旅は、こうして、静かに、それでいて確かに、動き始めていた。
◆◆◆(最初の依頼)◆◆◆
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次回更新予定:9月25日(金)になります。
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