第21話 新しい風と、新しい旅 ―― 前編「初めての朝」
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「……朝、か」
窓の外がぼんやりと白み始めた頃、ボレアスがぽつりと呟くのが聞こえた。俺は寝台の上で薄目を開けたまま、その声を聞いていた。
直也「まだ早いぞ。もう少し寝てろ」
ボレアス「妾は、寝ておらぬ」
直也「……は?」
ボレアス「眠るというのが、どういう感覚なのか、よく分からぬ」
俺は跳ね起きた。
夜と朝は知っている。だが、その間に身体を休めるという発想そのものが、こいつにはなかったらしい。
直也「じゃあ、昨日の夜からずっと起きてたのか」
ボレアス「うむ。天井の木目を数えておった。47本じゃ」
直也「暇すぎるだろ」
ボレアス「暇なのではない。落ち着かなかっただけじゃ」
そう言う彼女の横顔には、強がりというより、本当に戸惑っているような色があった。当たり前だと思っていたことが、彼女にとっては当たり前ではない。この短い旅の中で、俺はもう何度もそういう場面に出くわしていた。
ボレアスは、寝台の縁に腰掛けたまま、部屋の中をぐるりと見回した。木の壁、小さな窓、2つ並んだ寝台。それから、何かに気づいたように眉を寄せた。
ボレアス「……直也」
直也「なんだ」
ボレアス「この部屋は、妾一人のものなのか」
直也「いや、俺と同室だぞ。リィナたちは隣の部屋だ」
ボレアス「……金は」
直也「宿代のことか? もう纏めて払ってある」
ボレアス「妾の分もか」
直也「当然だろ」
ボレアスは、しばらく黙り込んだ。理解が追いついていないというより、その仕組み自体を初めて知ったような顔だった。
ボレアス「妾が何も差し出しておらぬのに、妾のための場所がある。そのようなこと、これまでになかった」
直也「そんな大袈裟な話じゃないよ。仲間なんだから、当たり前だ」
ボレアス「当たり前、か」
その一言を、彼女は噛み締めるように繰り返した。玉座にいた頃の彼女には、きっと"当たり前"という言葉そのものが縁遠かったのだろう。
そこへ、階下から鍋の触れ合う音と、リィナの鼻歌が聞こえてきた。
ボレアス「あの音は」
直也「リィナが朝飯を作ってるんだよ。行くか」
俺たちが階段を下りると、宿の食堂には、既に湯気の立つ器が並べられていた。それと同時に、部屋の隅の卓で、ポン太が羊皮紙を広げて何やら難しい顔をしていた。
ポン太「……ふむ、これで按分は合ってるはずだが」
直也「何やってんだ、朝から」
ポン太「戦力評価シートだよ。新メンバーが加わったんだ、食費、装備の消耗、危険手当の割り振りを、きちんと組み直さねぇとな」
差し出された羊皮紙には、几帳面な文字で表がびっしりと書き込まれていた。「氷結範囲攻撃:単体討伐比1.8倍」「防御貢献度:算定中」といった項目まで並んでいる。
直也「お前、こんなの本当に作ってたのか」
ポン太「契約と代償を扱う商売人だぜ。仲間が増えりゃ、まず数字から見るのが筋ってもんだ」
ボレアスが、興味深そうにその羊皮紙を覗き込んだ。
ボレアス「妾の評価が、既に書かれておるのか」
ポン太「まだ暫定だけどな。実戦で見てから正式に決める」
ボレアス「ふむ……この『危険手当』というのは、何じゃ」
ポン太「危ない仕事をした時に、その分多く貰える金のことだ」
ボレアス「妾にも、貰う権利があるのか」
ポン太「当然だろ。むしろ一番危ない橋を渡ってきたのはあんただ」
その言葉に、ボレアスは何か考え込むような顔をした。役目としてではなく、対価として自分の力が数えられる。それもまた、彼女にとっては初めての感覚らしかった。
ボレアス「妾の項目、他には何がある」
ポン太「へへっ、気になるか。ええと……『威圧効果:交渉時の後方待機で信用度上昇(要検証)』」
ボレアス「威圧、じゃと」
ポン太「悪い意味じゃねぇよ。あんたが黙って立ってるだけで、大抵の商人は弱気になるからな」
ボレアス「妾は、ただそこにおるだけじゃぞ」
ポン太「それが立派な戦力なんだよ、旦那の会計上はな」
直也「お前、俺のことを勝手に会計扱いするな」
ポン太「事実だろうが」
俺は反論の言葉を探したが、見つからなかった。ポン太の言い分は、いつも妙に筋が通っていて、それが厄介なところだった。
リィナが、湯気の立つ器を運びながら、俺たちのやり取りに笑った。
リィナ「おはようございます。今日は、少し豪華にしてみました」
直也「豪華って、どうしたんだ急に」
リィナ「ボレアスさんの歓迎ですから」
そう言って、リィナは照れくさそうに笑った。器の中には、パンと、湯気の立つスープ。具沢山の、はっきりとした味のスープだった。
ボレアスは、しばらくその器を見つめていた。それから、恐る恐るといった様子で匙を手に取り、口へ運んだ。
ボレアス「……」
直也「どうだ」
ボレアス「……ぱりぱりしておる」
直也「パンのことか」
ボレアス「食い物というのは、こんなにも、音がするものなのか」
その言葉に、俺は思わず笑ってしまった。皮肉でも強がりでもない、ただの素朴な驚きだった。スープを一口すすると、今度は目を僅かに見開いた。
ボレアス「これは……」
直也「熱いか」
ボレアス「熱いのではない。染みる、というのか。腹の底から、じんわりと」
言葉を探しながら、彼女はそう言った。あの氷の玉座で口にした、ぬるいスープとはまるで違う感覚に、戸惑っているようだった。
リィナ「お口に合いましたか」
ボレアス「……嫌いではない」
リィナ「よかった」
ボレアス「褒めてはおらぬぞ」
リィナ「はい、分かってます」
そう言いながらも、リィナの顔には隠しきれない嬉しさがあった。ボレアスは、それに気づいたのか気づかないのか、黙って匙を動かし続けていた。器の底が見える頃には、彼女の表情から、最初にあった警戒の色はすっかり消えていた。
ゼピュロスが、パンを頬張りながら、じろじろとボレアスを眺めていた。
ゼピュロス「なんか、ちょっと変な感じ」
ボレアス「なんじゃ、その目は」
ゼピュロス「だって、あんた、もう氷の玉座に座ってる女王様じゃないんだもん。宿代の話聞いて驚いて、パンの音に驚いて、ただの旅人になってる」
ボレアス「……」
ゼピュロス「氷女、卒業したわね」
からかうような口調だったが、その声には、意地悪さよりも親しみが滲んでいた。ボレアスは、一瞬言葉に詰まったようだったが、すぐに眉を吊り上げた。
ボレアス「氷女とは、誰のことじゃ」
ゼピュロス「あんたのことよ、他に誰がいるの」
ボレアス「妾は北風の魔剣娘じゃ。今も昔も、その性質は変わらぬ」
ゼピュロス「じゃあ今の、パンの音に驚いてた顔は何なの」
ボレアス「……あれは、ただの、確認作業じゃ」
ゼピュロス「確認作業って何よ」
ボレアス「知らぬなら、黙って食べておれ」
しどろもどろになりながらも、ボレアスは一歩も引かなかった。売り言葉に買い言葉のようなやり取りだったが、そこに険しさはなかった。むしろ、二人の間にあった距離が、少しだけ縮まったような、そんな空気があった。
ゼピュロスは、それ以上追及せず、代わりに残りのパンを口へ放り込んだ。
ゼピュロス「まあいいけどね。確認作業でも何でも」
ボレアス「分かればよい」
ゼピュロス「今度は私にも教えなさいよ、その確認作業とやら」
ボレアス「……気が向けば、な」
素っ気ない返事だったが、拒絶ではなかった。次を匂わせる程度の、彼女なりの譲歩だった。
リィナが、そんな二人を見て小さく笑い、俺の隣に座った。
リィナ「賑やかになりましたね」
直也「ああ、そうだな」
窓から差し込む朝の光が、食卓を柔らかく照らしていた。皿の音、笑い声、軽口。この旅の中で、何度も繰り返されてきた、ありふれた朝の光景。それが今、一人増えただけで、こんなにも違って見える。
会社員だった頃の俺なら、こんな騒がしい朝を、きっと面倒だと思っていただろう。今は、そう思わない自分に、少しだけ驚いていた。
食事を終える頃、頭上の光球が、静かに動いた。
ALMA『直也さん。次の目的地について、確認したいことがあります』
直也「ああ、そうだった。決めないとな」
ALMA『未確認反応2件の追跡は継続中です。ただし、現時点では方角を特定できません』
直也「なら、情報を集めながら待つしかないか」
俺は懐から、宿の主人にもらった簡単な地図を広げた。街道が幾筋も描かれているが、行き先を決める手がかりは、まだ何もない。
直也「さて、どこへ行くか」
ボレアス「妾に聞かれても、分からぬ」
直也「聞いてないよ」
ボレアス「聞く前に断っておいただけじゃ」
ゼピュロス「とりあえず、外に出ましょうよ。ここにいたって決まらないし」
ポン太「そうだな。表を歩きゃ、何かしら情報も転がってるもんだ」
リィナ「賛成です。せっかくですし、街の様子も見てみたいです」
俺は地図を丸めて、立ち上がった。
直也「よし、決まりだ。まずは街を見てから決める」
その一言に、誰も異論を挟まなかった。ポン太が羊皮紙を丁寧に折り畳んで懐へしまい、ゼピュロスが伸びをしながら椅子から立ち上がる。リィナは空になった器を手早く重ね、宿の女将に軽く会釈した。
ボレアスだけが、しばらく席を立たずにいた。
直也「どうした」
ボレアス「……皆、出かけるだけで随分と騒がしいのじゃな」
直也「お前ももう、その騒がしい側だぞ」
ボレアス「まだ認めた覚えはない」
そう言いながらも、彼女は小さく息を吐くと、椅子を引いて立ち上がった。口では突っぱねていたが、その足取りに、拒む色はどこにもなかった。
宿の扉を開けると、外はもうすっかり明るくなっていた。街の喧騒が、朝の空気と共に流れ込んでくる。
新しい一日、新しい旅の始まりだった。
◆◆◆(初めての朝)◆◆◆
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次回更新予定:9月18日(金)になります。
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