第20話 氷の玉座を降りる日 ―― 前編「降りれば、崩れる」
◆◆◆
「旦那、この包帯代、経費で落ちるよな」
ポン太が、ぐるぐる巻きにした自分の尻尾を掲げ、しかつめらしい顔で言った。あの激しい戦いから一夜明け、俺たちは保管庫の外の安宿で、まだ抜けきらない疲労を引きずっていた。
直也「落ちるわけないだろ。誰に請求する気だ」
ポン太「均衡執行体だよ。あいつのせいで俺っちの尻尾はこのザマだ。慰謝料と治療費、しめて銀貨10枚ってとこだな」
直也「もう消えて残ってないんだよ、あいつは」
ポン太「逃げ得かよ。世知辛ぇ世の中だぜ」
リィナが、朝の光の中で洗濯物をたたみながら、くすくすと笑った。杖を壁に立てかけ、いつもの生活の手つきで、しわを一つずつ伸ばしていく。窓の外からは、街の喧騒が聞こえてくる。皿の触れ合う音も、誰かの笑い声も、きれいには揃っていなかった。
ゼピュロスは寝台に寝転がったまま、退屈そうに天井を眺めていた。
ゼピュロス「ねぇ、いつまでここでダラダラするの。もう身体は動くんでしょ」
直也「動くけど、行く先が決まってない」
そう言いながら、俺の頭の片隅には、ずっと同じ光景が居座っていた。氷の玉座に座ったまま、こちらを見送ったあいつの姿だ。あの戦いのあと、ボレアスは玉座を離れなかった。というより、離れる様子はなかった。
あの戦いの終わりに、あいつは小さな声で言っていた。何を止め、何を残すべきなのか、まだ分からぬ、と。あれから、その一言がずっと胸に引っかかっていた。止めることしか知らなかったはずのあいつが、初めて、その先を考えようとしていた。それが、どうにも気になって仕方なかった。
直也「なあ、ALMA。あの保管庫、今どうなってる」
頭上の光球が、静かに明滅する。
ALMA『保管庫内部の構造は、まだ安定していません。崩落した区画の一部で、均衡の乱れが継続しています』
直也「危ないのか」
ALMA『即座の崩壊の兆候はありません。ですが、安全とも言い切れません』
歯切れの悪い言い方だった。こいつがこういう返事をするときは、たいてい、まだ底が見えていないときだ。
俺は、洗濯物をたたみ終えたリィナと、寝転がったままのゼピュロスと、包帯を勲章みたいに撫でているポン太を順に眺めた。
直也「様子を見に行くか。あいつが、どうしてるかも気になる」
リィナ「はい。私も、気になっていました」
リィナは、たたんだ布をそっと置き、少し考えるように付け加えた。
リィナ「よかったら、また温かいものを持っていきましょうか。あの人、ちゃんと食べているか、分かりませんし」
ゼピュロス「また、あの薄いスープ?」
リィナ「今度は、少しだけ濃いめにします」
ゼピュロス「……まあ、それなら、付き合ってあげてもいいけど」
素っ気なく言いながら、ゼピュロスはさっさと寝台から起き上がった。文句を言いつつ動くあたりが、いつもの彼女だった。
ポン太「ま、料金外の善意ってやつだな。たまにはいいだろ」
そう言いながら、真っ先に支度を始めたのはポン太だった。口では損得を並べながら、身体はいつも素直だった。
◆◆◆
崩れた通路を抜け、氷の気配が濃くなる奥へと進む。あの戦いの跡は、まだ生々しく残っていた。倒れた棚、割れた壁、固まりきらない氷の破片。ポン太が尻尾を庇いながら先頭を歩き、時折、足元の危うい場所を顎で示す。それでも、以前のような敵意に満ちた緊張は、もうそこにはなかった。
玉座のある広間へ入ると、冷たい空気の奥に、あの静かな気配があった。
氷の玉座に、ボレアスが座っていた。昨日と同じ姿勢で、昨日と同じ場所に。手足を縛る鎖も、変わらずそこにある。指先から腕にかけて走る霜の亀裂は、あの戦いの負荷のせいか、以前より深く刻まれて見えた。
ボレアス「……また来たのか」
その声には、追い払うような棘はなかった。ただ、来訪を意外に思っているような、そんな響きだけがあった。玉座の背に、いつもより深く身を預けている。あの戦いが、彼女から確かに何かを削り取っていったのが、遠目にも分かった。
直也「様子を見に来た。保管庫が、まだ落ち着かないみたいでな」
ボレアス「妾がここにおる限り、崩れはせぬ。案ずるな」
事もなげに、彼女は言った。まるで、それが世界の当たり前であるかのように。
リィナが、そっと器を差し出した。ボレアスは一瞥して、小さく鼻を鳴らしたが、今度は「持ち帰れ」とは言わなかった。ただ、玉座のそばに置かれるのを、黙って許した。それだけでも、あの日からの、確かな変化だった。
俺は頭上の光球へ視線を向けた。
直也「ALMA。念のため、もう一度調べてくれ」
ALMAの光が、玉座と、鎖と、床の亀裂へ沿うように伸びていく。淡い光の筋が、一つ一つを丁寧になぞっていった。長い沈黙のあと、事務的な声が響いた。
ALMA『再解析の結果を報告します。対象が玉座を離れた場合、保管庫全体の均衡が崩壊する可能性が、極めて高いと推定されます』
その断定に、俺は思わず眉をひそめた。ALMAが「極めて高い」と言い切ることは、そう多くない。
ボレアス「聞いての通りじゃ。妾が退けば、この場所は崩れる。だからこそ、妾はここを動けぬ」
彼女の口調は、諦めではなかった。もっと静かで、もっと深く沁みついた、当たり前だった。動けないのではなく、動かないことこそが役目だと、そう信じきっている声だった。
俺は、玉座のそばに歩み寄って、しゃがみ込んだ。
玉座のそばは、他のどこよりも冷たかった。手をかざすと、掌の熱が、すうっと吸い取られていくのが分かる。まるで、この一点へ向かって、辺りの温度が静かに流れ込んでいるようだった。
俺は、鎖を見た。太い鎖が、玉座の根元から伸び、彼女の手足へと繋がっている。よく見ると、鎖の表面には、あの均衡執行体の核にあったものと同じ、細かなルーンが刻まれていた。あの日、ボレアスは言っていた。あの核は、自分を封じたのと同じ癖を持つ、と。
そして、彼女の指先の霜を見た。あの戦いのあと、また少し広がった亀裂。触れれば切れそうなほど、乾いて、白い。
最後に、玉座を見た。冷たく、美しく、彼女の背をぴたりと支える、氷の椅子。
ふと、妙な感覚が胸をよぎった。
これは、玉座がボレアスを支えているのか。それとも――。
直也「なあ」
ボレアス「なんじゃ」
直也「この玉座、お前を支えてるように見えるけどさ」
言いかけて、俺は言葉を選んだ。断定できるほど、何かが分かったわけじゃない。ただ、引っかかっただけだ。
直也「……逆なんじゃないか、って気がしただけだ。忘れてくれ」
ボレアス「逆、とは」
直也「いや、うまく言えない。まだ、俺にも分からん」
本当に、分からなかった。会社員だった頃、答えの出ない書類を前に、こうやって何度も宙を睨んだものだ。断片だけが増えていって、それを繋ぐ一本の線が、まだ引けない。
それでも、俺はそれ以上は聞かなかった。答えのないまま相手に迫るのは、この旅で一番やってはいけないことだと、もう学んでいた。
だから、ただ、そこにいた。
ボレアス「……妙な男じゃ、貴様は」
直也「よく言われる」
ボレアス「役にも立たぬことばかり、じっと見ておる」
直也「役に立つかどうかは、あとで分かることもある」
ボレアスは、それきり黙った。だが、その沈黙は、拒絶のものではなかった。むしろ、何かを言いあぐねているような、そんな間だった。
その沈黙のなかで、ボレアスの視線が、ふと動いた。崩れた通路の奥、あの黒い扉の方へと。鎖を握っていた指が、ほんの少しだけ、緩んだ気がした。
その時だった。
ゼピュロスが、ふと壁の方へ顔を向けた。
ゼピュロス「……ねぇ、何あれ」
つられて視線を向けると、崩れた通路の奥に、あの黒い扉があった。継ぎ目のない黒い表面。氷のルーン。いつもは静かに一定のリズムで明滅しているだけの、あの扉。
それが、震えていた。
刻まれたルーンの一つ一つが、これまで見たことのない強さで、脈打つように輝きを増していく。氷の奥を、幾筋もの光が走り抜ける。空気そのものが、微かに軋むような感覚があった。
ALMA『警告。黒い扉に、これまでで最大の反応を検出しました』
その声に、ボレアスもまた、扉の方へ視線を向けた。鎖を握る指先に、無意識に力がこもるのが分かった。
直也「おい、これ……」
ボレアス「……直也」
呼ばれて、俺は振り返った。あの日から、こいつが俺を名前で呼ぶのは、まだ数えるほどしかない。
ボレアス「あの扉が……妾を、見ておる気がする」
その声は、いつもの尊大さとは違っていた。長く目を背けてきた何かと、初めて視線がぶつかってしまったような、そんな戸惑いがあった。
扉は、開かない。だが、確かに、何かが応えていた。
そしてその反応が、ボレアスの座る玉座と、無関係ではない。それだけは、どうしても見過ごせなかった。
◆◆◆(降りれば、崩れる)◆◆◆
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【第二部 クライマックス公開スケジュール】
8/27(木)第20話 中編
8/29(土)第20話 後編
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