第18話 黒い扉は、選択に応える ―― 前編「再現できない反応」
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「……妙な波形だな、これ」
俺は、ALMAが見せている観測記録を覗き込みながら呟いた。宿の一室、朝食を終えたばかりのテーブルの上に、淡い光の波形が幾重にも浮かんでいる。
あの時、ボレアスがスープを口にした瞬間の記録。時刻を示す線の脇に、小さな山が2つ、ほぼ同時に立っている。何度見返しても、その形は変わらなかった。
ALMA『対象内部の熱流出量が、一時的に変化しています。同時刻、黒い扉のルーンにも通常とは異なる発光パターンを検出しました』
直也「原因は」
ALMA『特定できていません。当該時刻に発生した外部要因は、スープの摂取のみです』
俺は、光球の淡い明滅を見上げた。ALMA自身も、この結果に対して何か引っかかっているような、そんな気配があった。いつもなら即座に断定的な解析を返すこいつが、珍しく歯切れの悪い言い方をしている。その些細な違和感が、余計に胸の奥をざわつかせた。あいつ自身も、この現象を持て余しているように見えた。
リィナが、少し不安げに観測記録を見つめた。
リィナ「私たちが作った、あのスープが……何か、悪い影響を?」
直也「悪いかどうかは、まだ分からない。だから確かめに行く」
リィナの表情が、少しだけ強張った。自分が用意したものが、何か予期せぬ結果を招いたのではないか。そんな心配が滲んでいる。あの時、精一杯の思いを込めて作ったスープだった。それが良くない結果へ繋がっていたとしたら、彼女にとっては辛いことだろう。
直也「心配すんな。悪い変化だとは、俺も思ってない」
俺は、あえて軽い調子で付け加えた。実際、あの時の器の周りで氷が溶けた光景は、少なくとも悪意のあるものには見えなかった。むしろ、あの温かさに近い何かだった気がする。
俺たちは身支度を整え、保管庫へ向かった。あの日からさらに一晩が明け、崩落の余波もいくらか落ち着いている。それでも、油断はできない場所だった。崩れた棚の一部は、まだ完全には片付いていない。壁のルーンも、以前ほどではないが、時折不規則な瞬きを見せていた。
黒い扉の前に着くと、ボレアスがいつも通り玉座に座っていた。俺たちを見て、片眉を上げる。指先の霜の亀裂は、あの時からわずかに落ち着いたように見えたが、完全に消えたわけではなかった。
ボレアス「今度は何をしに来た。また飯か」
直也「いや、今日は実験だ。付き合ってほしい」
ボレアス「実験、じゃと」
その言葉に、ボレアスの表情が微かに険しくなった。実験、という言葉自体が、単純に気に入らなかったらしい。自分を測られたり、扱われたりすること自体を、彼女は嫌う。
俺は簡潔に、観測記録のことを説明した。あの時の変化、原因不明の反応、それを確かめたいということ。ボレアスは眉をひそめたが、拒絶はしなかった。少し離れた場所で、ポン太が興味深そうに耳を傾けている。契約や仕組みに敏い彼らしく、口は挟まず、じっと成り行きを見守っているようだった。
直也「まず、条件を絞り込みたい。ゼピュロス、頼む」
ゼピュロス「はいはい、了解」
ゼピュロスが、ふわりと身を起こし、軽い足取りで黒い扉の前に立った。気負った様子は一切ない。まるで、いつもの日課をこなすような、あっさりとした構えだった。彼女にとって、これはただの検証作業に過ぎないらしい。
直也「まずは弱い風を、扉に当ててくれ」
ゼピュロス「弱い風ね。はい」
翠色の風が、ふわりと扉を撫でた。ルーンに変化はない。俺は、扉の表面を注意深く観察していたが、光の揺らぎ一つ見当たらなかった。
直也「じゃあ、思い切り」
ゼピュロス「私、風量調節器じゃないんだけど?」
文句を言いながらも、彼女は言われた通りに力を込めた。強い風が扉全体を叩く。埃と細かな氷片が舞い上がったが、ルーンの発光パターンには、何の変化も現れなかった。風が収まった後、ゼピュロスは肩をすくめて振り返った。
ゼピュロス「見た? 今のかなり本気だったんだけど」
直也「見てた。でも、何も起きてない」
ALMA『風圧による反応、検出されず』
直也「次は熱だな」
俺は懐から、宿で用意してきた温石を取り出した。じんわりと熱を持つそれを、扉の表面へ押し当てる。手のひらに伝わる温もりが、扉の冷たさに少しずつ吸われていくのが分かった。あの時のスープと同じくらいの温度を意識して選んだつもりだったが、果たしてどこまで正確に再現できているのか、自分でも自信はなかった。
ALMA『表面温度、上昇を確認。ルーンへの影響、検出されず』
直也「魔力はどうだ。リィナ、頼めるか」
リィナ「は、はい」
リィナが杖を構え、扉へ向けて「お掃除」を弱くかけた。淡い光が扉の表面を撫でるように広がった。慎重に、丁寧に、まるで扉を傷つけないよう気を遣うような手つきだった。あの時、器へ保温をかけ直していた時と同じ、優しい所作だった。だが、ルーンは相変わらず沈黙している。
ALMA『魔力反応、検出されず』
一通りの条件を試し終え、俺たちは顔を見合わせた。風も、熱も、魔力も、何一つとして扉を動かさなかった。用意できる限りの検証を尽くしたはずなのに、手応えは何一つ得られていない。焦りにも似た沈黙が、しばらく俺たちの間に流れた。
直也「……全部、外れか」
俺は腕を組み、扉を見つめた。熱でも、風でも、魔力でもない。だとしたら、あの時、何が違っていたのか。
ゼピュロス「ねぇ、これもしかして」
彼女が、扉から一歩下がりながら言った。両手を後ろで組み、興味なさそうに扉を眺めている。
ゼピュロス「風の問題じゃないんじゃない? 私、さっきから全然関係ない気がしてきた」
直也「かもな」
その切り替えの早さが、いっそ気持ちよかった。無駄に粘って自分を責めるでもなく、あっさりと見切りをつける。それもまた、彼女らしい在り方だった。悩むべき場面と、さっさと切り替えるべき場面を、彼女は本能的に見分けているのかもしれない。
ボレアス「戯言を並べるなら、さっさと帰れ」
その口調には、いつもの尖りがあった。だが、俺は気にせず考え続けた。頭の中では、いくつもの可能性が浮かんでは消えていく。
ALMA『補足情報。あの保管庫の均衡崩壊以降、音・熱・流れの3要素は独立していない可能性が示唆されています。今回の反応も、単一の物理量では説明できない可能性があります』
直也「独立してない、か……」
音を戻せば、熱と流れが揺れる。あの時も、何か一つの要素だけを動かしたわけじゃなかった。だとすれば、今回の反応も、単純な物理量の足し算では説明がつかないのかもしれない。この世界の均衡は、いつも俺たちの予想より複雑に絡み合っている。
俺は、あの時の光景を思い返した。ボレアスが、匙を取り、ためらいながらも口へ運んだ瞬間。器の周りの氷が、音もなく僅かに溶けていった、あの光景。あれは、誰かに促されたからではなかった。リィナは「決めてください」と言っただけで、それ以上は何も強制しなかった。誰も、食べろとは言わなかった。
あの時、違ったのは何だったのか。俺の中で、何かが繋がりかけていた。
直也「なあ、ボレアス。あの時、お前はなんであのスープを食べた」
ボレアス「……知らぬ。気まぐれじゃ」
直也「気まぐれ、か」
そっけない答えだったが、その声には、どこか誤魔化すような響きがあった。俺は、あえてそれ以上は追及しなかった。だが、頭の中の仮説は、少しずつ形を持ち始めていた。
物理的な条件じゃない。あの時、それまでと違っていたのは、ただ一つ。
あの一口だけ、それまでのボレアスの判断とは、何かが違っていた気がする。まだ、それが何なのか、はっきりとは言葉にできない。だが、確かに何かが違った。
直也「……もしかして」
ALMA『直也さん、何か仮説がありますか』
直也「まだ、確信は持てない。でも、試してみる価値はあると思う」
俺は、黒い扉を見上げた。継ぎ目のない黒い表面に、氷のルーンが静かに刻まれている。この扉が反応したのは、物理現象ではなく、もっと別の何かに対してだったのかもしれない。
ボレアス「何を企んでおる」
直也「企むってほどじゃない。ただ、確かめたいことがある」
俺の視線に、ボレアスは訝しげな表情を返した。その瞳には、警戒と、僅かな興味が入り混じっているように見えた。これまでの高圧的な態度とは、少しだけ違う色だった。何を考えているのか、彼女自身にもまだ整理がついていないのかもしれない。
だが、俺はまだ、この仮説をどう検証すればいいのか、はっきりとした方法を持っていなかった。物理条件のように、風の強さや熱量を数値で調整することはできない。ボレアス自身の「意思」を、どうやって外から確かめればいいのか。誰かの心の内側を測る道具など、この世界のどこにも存在しないはずだった。それでも、何か方法があるはずだと、俺は思考を巡らせ続けた。
ゼピュロス「で、結局どうすんの?」
ゼピュロスが、興味深そうに俺の顔を覗き込んだ。
直也「……考える」
その日は、それ以上の答えを出せないまま、俺たちは保管庫を後にした。帰り道、誰も多くを語らなかった。空はもう夕暮れに近づいていた。それでも、胸の奥では、その仮説だけが静かに残り続けていた。
◆◆◆(再現できない反応)◆◆◆
ここまでお読みいただきありがとうござます。
【第二部 クライマックス公開スケジュール】
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