第16話 動いた氷と、止められない崩落 ―― 前編「崩れ始めた保管庫」
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腹の底を殴られるような、低い音だった。
俺は跳ね起きた。寝台の脚が小刻みに震えている。窓枠がかたかたと鳴り、机の上に置きっぱなしにしていた木の器が、勝手に縁まで滑って落ちた。床に転がった器が、乾いた音を立てる。
昨夜は、まともに食事も取らずに倒れ込むように眠った。静謐修正体との戦いで、全身の力を使い果たしていた。腰も肩も、拳の皮も、まだ痛みを訴えている。石畳を叩き続けた拳には、乾いた血が薄く固まったままだった。宿に戻ってからのことは、ほとんど覚えていない。誰かが毛布をかけてくれた気がするが、それすら定かではなかった。それでも、この音を聞いて眠り続けられるほど鈍い神経は持ち合わせていなかった。
直也「……なんだ、今の」
ALMA『地下方向から大規模な構造振動を検知しました。震源は冷える保管庫、深度は最深部付近と推定されます』
枕元の光球が、いつもより早い間隔で明滅していた。
直也「保管庫か……やっぱりな」
昨日、街へ音が戻ったとき、その一部が地下へ流れていく気配を感じた。ALMAもあの時、地下方向への音響エネルギーの移動を検知していた。あれが何かを動かしたのだろうという予感は、あの時からずっと胸の底に残っていた。
隣の寝台で、リィナが飛び起きるのが見えた。寝ぼけ眼をこすりながら、それでもすぐに杖へ手を伸ばしている。この短い旅の間に、彼女もすっかり戦う側の人間になってしまった。それを喜んでいいのか、俺には分からなかった。
リィナ「直也さん、今の音……」
直也「保管庫だ。行くぞ」
ポン太が、床の隅で丸まっていた身体を起こした。尻尾の先を庇うように抱えているが、動作そのものは軽い。
ポン太「へへっ、もう走れますぜ。触らなきゃ」
直也「触らないから安心しろ」
ポン太「言っとくが、旦那。夜中に地下へ潜るってのは、料金体系が全然違うからな」
直也「後で聞く」
腰の鞘の中で、ゼピュロスが目を覚ましたのが分かった。
ゼピュロス「あいつのとこ?」
直也「そうだ」
ゼピュロス「……ふーん」
素っ気ない返事だったが、鞘の震え方は、明らかにいつもより早かった。
リィナが手早く荷物をまとめながら、不安げに俺を見た。
リィナ「あの、直也さん。昨日の今日で、大丈夫ですか」
直也「大丈夫じゃないな。腰も背中もまだ痛い」
リィナ「じゃあ……」
直也「でも、行く。俺たちが動かしたんだ」
自分で言っておきながら、随分と面倒な性分だと思った。会社にいた頃は、面倒事にはなるべく深入りせずに生きてきたのに。
宿を飛び出すと、外はまだ夜明け前だった。空は藍色に沈み、街灯の弱い光だけが石畳を照らしている。だが、その石畳の隙間から、白い冷気が細く立ち上っていた。
直也「これ……地下から漏れてるのか」
近づいてみると、冷気だけではなかった。細かな破片が混じっている。凍りついた木片、割れた陶器の欠片、布の切れ端。どれも、あの保管庫で見たものと同じ質感をしていた。誰かが不要と判断され、取り上げられ、あの地下へ運ばれていったはずのもの。それが今、行き場を失ったように地上へ吐き出されている。
リィナ「保管庫の中のものが、地上まで……?」
住民たちはまだ眠っているのか、通りに人影はない。この異常に気づいているのは、また俺たちだけらしい。
俺たちは地下へ続く階段を駆け下りた。筋肉痛の残る脚が、一段ごとに悲鳴を上げる。手すりを掴む手にも力が入らない。それでも、止まっている場合ではなかった。下るにつれて、空気が急速に冷えていく。だが、それはいつもの均一な冷たさとは違っていた。冷たい層と、妙に生温い層が、まだらに混じり合っている。
階段を下りきった先で、俺は思わず足を止めた。
保管庫の様子が、完全に変わっていた。
いつもなら寸分の狂いもなく整列していた棚が、傾き、倒れ、通路を塞いでいる。壁のルーンは不規則に点滅し、いくつかは完全に消えていた。天井から氷の破片が絶えず落ち続け、床に散らばった没収品が、あちこちで小さく震えている。あれほど徹底して「正しい位置」を強制していた空間が、今は自分自身の秩序を保てなくなっている。皮肉な話だった。
直也「……ひどいな」
ALMA『保管庫全体の構造安定度が著しく低下しています。最深部からの均衡崩壊が、上層へ波及していると推定されます』
俺は通路の奥へ視線を向けた。黒い扉のある方向だ。そこへ続く道の途中に、妙なものが見えた。
床に落ちていた古い鍋が、ゆっくりと起き上がっていた。
いや、起き上がるという表現は正しくない。鍋の縁から、白い腕のようなものが伸びていた。取っ手だったはずの部分が、細長く引き伸ばされ、まるで手足のように床を掴んでいる。全体が、あの見覚えのある白い材質に覆われつつあった。
リィナ「ひっ……」
直也「あれ……あの白い巨人と同じか」
ミルメリアで俺たちを追い詰めた、あの整えられすぎた白さ。忘れようがない質感だった。
見回すと、同じことがあちこちで起きていた。欠けた木製の揺りかごが、細い脚を何本も生やして這っている。かつて赤ん坊を寝かせていたであろう内側の窪みは、もう平らに埋められていた。子供の玩具らしき小さな車が、不自然に揃った車輪で、同じ方向へゆっくりと進んでいく。どれも、破損した部分を白い材質が埋め、元の形とも、元の用途とも違う何かへ作り替えられようとしていた。
直也「……壊れたものを、無理やり直そうとしてるのか」
だが、その「直し方」は、明らかに間違っていた。鍋は鍋の形を失い、揺りかごは揺りかごではなくなっている。修復ではなく、別の何かへの上書きだった。
ポン太「旦那、こいつら全部、黒い扉の方へ向かってるぜ」
言われて気づいた。這うもの、進むもの、転がるもの。動き方はばらばらなのに、向かう先だけは同じだった。
その時、通路の奥から声が届いた。
ボレアス「……遅い」
黒い扉の向こうから、あの冷たい声が、いつもより鮮明に聞こえてきた。扉が完全には閉まっていない。崩落で歪んだのか、わずかな隙間が開いていた。
俺たちは倒れた棚を乗り越え、扉の前まで駆け寄った。
隙間から覗いた先で、ボレアスが氷の玉座に座ったまま、こちらを見ていた。だが、その姿は昨日までと少し違っていた。彼女を縛る鎖のうち、一本にだけ細い亀裂が走っている。昨日、街の音が届いた時に鳴った、あの一本だ。その鎖の周囲だけ、氷が溶けて水滴が滴っていた。他の鎖は相変わらず張り詰めているのに、その一本だけが、わずかに緩んで見える。
そして、その水滴は、床へは落ちていなかった。
壁面を、下から上へと逆流していた。
直也「……なんだ、あれ」
ボレアス「音だけを動かした結果がこれじゃ」
直也「分かってる。だから戻ってきた」
ボレアス「ならば、口ではなく手を動かせ」
短いやり取りだった。それ以上、彼女は責めなかった。責めている暇がないことを、誰よりも理解しているのだろう。
ボレアス「見よ。音が戻った区画から、順に熱と流れが乱れ始めておる」
言われて周囲を見渡した。確かに、氷の溶けている場所には偏りがあった。ある一角だけが暖かく、別の場所では冷気が渦を巻いている。そしてその冷気は、出口ではなく、黒い扉の方へ吸い込まれるように流れていた。
直也「音だけ戻したはずなのに、熱も流れもおかしくなってる」
ALMA『3要素は独立していない可能性があります』
ボレアス「今頃気づいたか」
彼女の声には、苛立ちよりも焦りが混じっているように聞こえた。この状況を、俺たちよりずっと前から把握していたのだろう。そして、自分では止められないことも。
その時、崩れた通路の奥から、白い影が姿を現した。
1体ではない。2体、3体。継ぎ目のない白い装甲を纏った騎士のような姿が、瓦礫を踏み越えて進んでくる。昨日戦ったあの敵と、同じ系統の存在だった。ただし、手にしているのは音叉状の大剣ではない。それぞれが、槍のような、あるいは杭のような、細長い白い得物を携えていた。用途は違えど、目的は同じなのだろう。何かを、正しい状態へ戻すための道具だ。
ボレアス「愚か者ども、あれを妾の玉座へ近づけるな」
直也「近づけたらどうなる」
ボレアス「妾が完全に固定される。そうなれば、この保管庫はもう二度と動かん」
俺は仲間たちの顔を見た。全員、疲れ切っている。それでも、誰も引く様子はなかった。
直也「よし。今回の目的は一つだけだ」
俺は黒い扉を指差した。
直也「あいつらを、この扉と玉座に近づけさせない。それだけを守るぞ」
リィナ「はい!」
ゼピュロス「やっと出番ね!」
ポン太「へへっ、危険手当は倍額だぜ」
ALMA『警告。現在の崩壊速度を基準とした場合、構造維持限界まで約30分です』
直也「30分か……短いな」
ALMA『さらに、崩壊が進行した場合、推定時間は短縮される可能性があります』
直也「もっと短くなるってことか。最悪だ」
白い影たちが、ゆっくりと歩幅を揃えながら、こちらへ向かってきた。足並みが完全に一致している。昨日の敵と同じだ。整いすぎた動きほど、この世界では厄介だということを、俺はもう知っていた。
俺は拳を握った。まだ痛む。それでも、動く。
◆◆◆(崩れ始めた保管庫)◆◆◆
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次回更新予定:7月31日(金)になります。
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