第15話 音を奪う静けさ ―― 中編「静謐(せいひつ)修正体」
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透明な大剣が、俺の頭上をかすめた。
かすかな空気の流れだけは肌に感じた。だが、剣が空を切ったはずの音は、まるで最初から存在しなかったかのように何も聞こえない。俺は反射的に横へ転がり、石畳に肩を打ちつけた。痛みだけは、遠慮なく伝わってきた。骨に響く鈍い衝撃が、この状況が夢でも幻覚でもないことを嫌というほど教えてくれる。
直也(音がない分、間合いが読めない……!)
普段なら、刃が空気を裂く音で敵の軌道をある程度予測できる。慣れない戦闘の中でも、耳はいつも頼れる情報源だった。だが今は、目で追う以外に手段がなかった。しかも、目で追うことさえ難しい。白い装甲の敵は、足音を立てずに間合いを詰めてくる。まるで、こちらの認識そのものをすり抜けていくようだった。動いているはずなのに、視界の隅では常に静止しているように錯覚する。
敵の大剣がまた振られる。俺は転がるように避けたが、切っ先が外套の裾を掠めた。裂けた布地が宙に舞う。それすらも、音を立てずに落ちていった。
ゼピュロスが鞘から抜け出し、風を纏った斬撃を放った。翠色の刃が敵の装甲に届く。だが、いつもなら耳を裂くはずの風切り音がまったくしない。斬撃の威力そのものも、明らかに鈍っていた。装甲に浅い傷がつくだけで、敵はよろめきもしない。まるで斬撃の勢いが、音という運び手を失って、途中で立ち消えてしまったかのようだった。
ゼピュロスの口が、何か叫んでいる形に動く。だが声は聞こえない。彼女がこれほど無力さを噛み締めている姿を、俺は見たことがなかった。いつもなら、どんな劣勢でも軽口を叩きながら戦う奴だ。その口が、声を伴わずにただ動き続けている光景が、俺の胸をひどく締めつけた。彼女は何度も剣を振るい続けたが、そのたびに苛立ちが表情に濃く滲んでいった。
リィナが杖を構え、何かの魔法を唱えようとしている。唇が動く。だが、詠唱の音がない以上、いつものタイミングで魔法が発動する保証はない。淡い光が杖の先に集まりかけては、また不安定に揺れて消えていく。何度も繰り返される小さな発光と消滅が、彼女の焦りをそのまま映しているようだった。
リィナの表情が、焦りに歪んでいく。額に汗が滲み、杖を握る手が小刻みに震えていた。
ポン太は敵の背後へ回り込もうとしていたが、足元の距離感を掴めていないのか、何度も無駄な動きを繰り返していた。声で連携を取れないというだけで、これほどまでにパーティの動きがばらばらになる。俺たちがこれまで積み上げてきた掛け合いや呼吸の合わせ方は、すべて声を前提にしていたのだと、こんな形で思い知らされることになるとは思わなかった。俺は歯を食いしばった。
直也(このままじゃ、各個撃破される)
敵の透明な大剣が再び振り上げられる。狙いは、体勢を崩したままのリィナだった。
直也「リィナちゃん、危ない――」
叫んだつもりだったが、自分の声すら届いているか分からない。俺は無我夢中で駆け出し、リィナの身体を横から突き飛ばした。二人揃って石畳の上を転がる。頭上を、大剣の切っ先が空を裂いて通り過ぎていった。地面に打ちつけた肘が鈍く痛む。骨まで痺れるような痛みだったが、悲鳴を上げても誰にも聞こえない。声を出す意味すら、この場では見失いそうになる。
直也(……このまま闇雲に戦っても、埒が明かない)
俺は歯を食いしばりながら、敵の動きを観察することに意識を切り替えた。声も音も使えないなら、目で見て考えるしかない。これまでずっと、ALMAの解析や仲間の掛け声に頼ってきた自分に気づく。今、それらが全部封じられている。だからこそ、自分自身の観察力だけが頼りだった。
敵が大剣を地面に突き立てる。その瞬間、周囲の石畳に、ごく微かな波紋のようなものが走った。目を凝らさなければ気づかないほどの、小さな震え。石の継ぎ目の砂粒が、ほんの一瞬だけ跳ねたように見えた。
直也(……待てよ)
俺は膝をつき、石畳に手のひらを押し当てた。
指先に、確かな振動が伝わってくる。敵の足取り、剣の一撃、俺たち自身の足音。何もかもが、音としては消えているのに、振動としてはまだ残っている。掌に伝わるその微かな脈動が、これまで気づかなかった世界の裏側を教えてくれているようだった。
直也(音は消えても……振動は、消えてない)
その事実に気づいた瞬間、頭の中で何かが繋がった気がした。不要書類室で見た、あの白紙化していく紙のことを思い出す。あの時も、消えていたのは表面だけで、筆圧という痕跡は残っていた。今、目の前で起きていることも、それに似ている気がした。見せかけの消滅と、本当の消滅は違う。この世界はいつも、都合の悪いものを完全には消せない。ただ、見えにくく、聞こえにくくしているだけだ。
頭上で、ALMAの光球が激しく明滅している。長い点灯、短い点滅、また長い点灯。俺はその光を見上げながら、必死に意味を読み取ろうとした。
直也(危険を知らせてる……のか? それとも)
完全には理解できない。だが、敵が装甲を震わせるたびに、光の点滅が強くなる。あいつなりに、精一杯何かを伝えようとしているのが分かる。声を封じられても、それでも諦めずに信号を送り続けている。その健気さが、いつもの合理一辺倒な態度からは想像もつかないものに思えた。普段なら数字と確率でしか語らないくせに、こういう時だけ妙に人間くさい。
俺は立ち上がり、拳を握った。
そして、目の前の石畳を思い切り叩いた。
音はしない。だが、確かな振動が、拳から石畳へと伝わっていくのを感じた。手のひらの皮膚が擦り剥け、じわりと血が滲む。それでも、この痛みは無駄じゃない。むしろ、今の俺には必要な痛みだった。声が出せない分、身体の感覚だけが、自分がまだ戦っているという証明になっている。
直也(これなら、伝わるかもしれない)
俺はもう一度、床を叩いた。今度はリズムを意識して、規則的に。一定の間隔で、拳を石畳へと打ちつけていく。単純な繰り返しだが、この単純さこそが今は必要だった。
ポン太がこちらを見た。何かに気づいたような顔をしている。俺は身振りで、床を叩くよう指示した。ポン太が頷き、少し離れた場所で同じように足を踏み鳴らし始めた。最初はぎこちなかったが、次第にリズムが揃っていく。俺の拳、ポン太の足踏み、二つの振動が同じ間隔へと重なっていった。
直也(これで伝わるはずだ)
だが、次の瞬間、敵の大剣が地面へ突き立てられた。石畳を伝っていたはずの俺たちの振動が、大剣を中心に吸い込まれるように収束していく。装甲が一瞬だけ強く光り、揃った振動そのものが、敵の内部へと呑み込まれていくのが分かった。
直也(……揃えたら、駄目なのか)
背筋に冷たいものが走った。敵は音を奪うだけでなく、綺麗に揃った振動そのものを養分にしている。俺たちが規則正しく動けば動くほど、敵はそれを都合よく処理してしまう。
直也(そうか……こいつが処理できるのは、正しい周期に揃った振動だけだ)
不要書類室で見た、あの白紙化していく紙のことを思い出す。あの時も、綺麗に整えられたものだけが消され、消しきれなかった訂正前の迷いだけが痕跡として残った。今、目の前で起きていることも、根っこは同じだ。整いすぎたものは、この世界にとって都合がいい。
直也(音じゃなくて、振動で伝える。だが、揃えるんじゃない。バラバラのままでいい)
俺は動きを変えた。今度は規則的にではなく、あえて間隔を崩しながら床を叩く。ポン太へも、同じリズムをやめるよう身振りで示した。ポン太が一瞬戸惑った顔をしたが、すぐに意図を汲み取り、自分だけの不規則な足踏みへと切り替えた。
これまで頼ってきた手段が、ことごとく封じられている。だが、それでも伝える方法はある。俺はリィナへ向けて、杖で床を叩くよう身振りで示した。ただし、ポン太や俺と同じ間隔には合わせないように。リィナが戸惑いながらも、こくりと頷く。震える手で杖を構え直し、石畳へと自分だけの間隔で打ちつけ始めた。最初は弱々しかった振動が、少しずつ確かなものになっていく。
ゼピュロスも、俺たちの動きを見て何かを察したのか、風を斬撃ではなく地面へ叩きつける動作に切り替えた。だが、その間隔もまた、誰とも揃わない、彼女らしい気まぐれなものだった。石畳の表面が、バラバラの波を重ねながら細かく波打つ。
敵が再び大剣を構えた。狙いは、床を叩き続ける俺たちだった。だが、さっきのように振動を一気に吸い込む気配がない。装甲の一部が、微かに震え続けている。
敵の白い装甲を、俺はもう一度観察した。継ぎ目のない滑らかな表面。だが、不揃いな振動が伝わるたび、その表面に細かな波紋が幾つも重なって走る。処理しきれず、消化不良を起こしているように見えた。
直也(完全に無敵ってわけじゃない。不揃いな振動は、消化しきれてない)
その発見に、俺は小さく息を吐いた。これまで何度も、この世界の「正しさ」に対して同じことを感じてきた。どれだけ整えられた仕組みにも、必ずどこかに綻びがある。完璧に見えるものほど、その綻びは小さく、見つけにくい。だが、確かに存在する。
直也(揃った振動を養分にする。だから、揃わないことが、こいつの弱点だ)
確信が、じわりと胸の中に広がっていく。声は封じられた。だが、まだ戦える。仲間たちの顔を順に見る。誰もが不安げで、誰もが疲弊している。それでも、誰一人として逃げようとはしていなかった。汗と埃にまみれた顔の中に、まだ諦めていない目の光がある。この短い旅の中で、何度もこういう目を見てきた。困難を前にしても、最後まで足を止めない仲間たちの目だ。
直也(このメンバーなら、まだやれる)
俺は敵の構えを見据えながら、次の一手を組み立て始めた。頭の中で、それぞれの役割を素早く整理していく。ポン太の位置取り、リィナの振動制御、ゼピュロスの風、そしてALMAの光。断片的な情報しかない。だが、今はこの断片だけを頼りに動くしかなかった。
敵が大剣を横に薙いだ。俺たちは一斉に散開する。声で合図を出せない分、互いの動きを目だけで追いながら、ぎりぎりのタイミングで剣の間合いを外していく。息が上がる。喉が渇く。それでも、足だけは止めなかった。
リィナが石畳に杖の先をそっと押し当てる。彼女の魔法が、周囲の砂や小石をわずかに動かし始めた。声を出せない分、集中しているのだろう、眉間に深い皺が刻まれている。振動の道を整えるという、この状況ならではの新しい使い方に、彼女自身もまだ戸惑いながら向き合っているようだった。
ゼピュロスが俺の視線に気づき、小さく頷いた。言葉はなくても、ここまで一緒に戦ってきた分だけ、通じるものがあった。彼女は剣を大きく振りかぶるのをやめ、地面すれすれで風を叩きつける動作に切り替えた。石畳全体が、鈍い振動でわずかに揺れる。
四つの、誰とも揃わない振動が同時に石畳を伝っていく。
敵の白い装甲が、これまでにない大きさで波打った。継ぎ目のない表面に、無数の細かな亀裂に似た揺らぎが走る。処理しきれない情報を前にしたように、大剣を構えたまま、敵が一歩、後ろへよろめいた。
初めて見せた後退だった。
頭上で、ALMAの光球が、敵の胸のあたりへ向けて、これまでで一番強い光を放った。
直也(……効いてる)
俺は拳を握り直し、次の一撃に備えた。
◆◆◆(静謐修正体)◆◆◆
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次回更新予定:7月24日(金)になります。
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