第15話 音を奪う静けさ ―― 前編「消えた音」
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「……まだジンジンする」
朝食の席で、ポン太が尻尾の先をさすりながら顔をしかめていた。テーブルの向かいに座る姿勢すら、いつもよりどこか落ち着かない。半分凍った紙片を持ち帰った代償は、思ったより長引いているらしい。触れると霜が張ったように冷たいままだと本人が愚痴っていたのを、俺は聞き流しながらパンをちぎった。焼きたてでもない硬いパンが、口の中でぼそぼそと崩れる。宿の朝食はいつもこんな調子だが、文句を言うほどの余裕は誰にもなかった。
ポン太「裏台帳の閲覧料、高くついたぜ」
直也「自業自得だろ」
ポン太「旦那が頼んだんじゃねぇか」
直也「頼んだが、凍れとまでは言ってない」
ポン太「細けぇことは気にすんな。それより旦那、今日はどうする気だ」
俺は答えながら、テーブルの上に例の紙片を広げた。昨日、命がけで持ち帰った、半分凍った紙の切れ端。かろうじて読めるのは、たった一行だった。
「第1封じ――音を返すこと」
何度見返しても、それ以上の情報は増えない。周りの余白は白く戻りかけていて、放っておけばこの一行すら消えてしまいそうだった。指先で紙の端に触れると、まだうっすらと冷たさが残っている。まるで昨日の恐怖そのものが、この紙一枚に閉じ込められているようだった。
直也「返すって、誰に?」
ALMA『解析不能です。対象、方法、いずれも記録に残っていません』
頭上の光球が、いつも通りの明滅で答えた。答えがなくても、律儀に返してくれるのがこいつらしい。分からないことを分からないとはっきり言う姿勢だけは、昔の俺の上司より何倍もましだった。
リィナ「音を返す……お部屋の換気とは、また違う感じですね」
リィナが小首を傾げながら呟いた。彼女なりに、昨日聞いた比喩を引きずっているらしい。換気という言葉のおかげで、あの重々しい封じの話が、少しだけ生活に近いものに思えているのかもしれない。
直也「まあ、行けば分かるだろ。とりあえず、街を歩いてみるか」
昨日の疲れは全員に残っていたが、座って考えていても仕方ない。俺たちは身支度を整え、宿を出た。筋肉痛はだいぶ和らいでいたが、階段を下りるたび、まだ腰の奥に鈍い痛みが残っていた。防寒外套の呪いは、思っていたより根深いらしい。
朝の空気は冷たく澄んでいて、いつもと変わらない街の匂いがした。パン屋の焼ける香り、井戸端の湿った石の匂い、遠くの厩舎から漂う藁の匂い。何一つ変わったところはないように見えた。だが、数歩進んだところで、俺は妙な違和感に気づいた。
直也「……あれ?」
いつもなら時刻を告げるはずの、時計塔の鐘が聞こえない。時刻からすれば、ちょうど鐘が鳴る頃合いのはずだった。塔の上で鐘楼の影が動いているのが見える。鐘は確かに揺れている。振り子が左右に動く様子まで、遠目にもはっきりと見て取れる。だが、音がまるで聞こえない。
リィナ「静か……ですよね?」
リィナも同じことに気づいたらしい。市場の方角を見ても、いつもの喧騒がない。人は動いている。荷車も進んでいる。商人が口を開け、客と何かやり取りをしている。だが、それに伴うはずの音が、驚くほど乏しかった。まるで分厚いガラス越しに街全体を眺めているような感覚だった。
直也「犬も吠えてないな」
いつも路地裏で吠えている野良犬が、口を大きく開けているのに声が出ていない。犬自身も戸惑っているのか、何度も口を開け直している。首を傾げ、また吠えようとする仕草を繰り返す。その様子が、かえって痛々しかった。鍛冶屋の槌音も、いつもより弱々しい。金属を叩いているはずなのに、耳に届く音はまるで水の中で聞いているようにくぐもっていた。
直也「鍛冶屋の音、変じゃないか」
俺は市場の方へ足を向けた。近づくにつれ、違和感はさらに強くなった。八百屋の店主が何か声を張り上げているらしい仕草をしているのに、聞こえてくるのは吐息にも満たない微かな空気の揺れだけだった。子供が転がるように駆けていくが、足音も、笑い声も、驚くほど小さい。すれ違う荷馬車の車輪すら、軋む音を立てずに石畳を滑っていく。市場全体が、まるで音量だけを絞られた芝居の書き割りのようだった。
住民たちは、誰も気にしていない様子だった。まるで最初から、この静けさが当たり前であるかのように、変わらない足取りで街を歩いている。それが、かえって不気味だった。異常に気づいているのは、俺たちだけらしい。誰かに指摘されれば違和感に気づくのかもしれない。だが、誰も指摘しようとしない街だった。
歩きながら、俺は妙な既視感を覚えていた。会社にいた頃、周りの誰もが同じ相槌を打ち、同じ愚痴を言い、同じタイミングで笑っていたことがあった。あの時の居心地の悪さと、今の街の静けさは、どこか根っこが似ている気がした。誰も間違えず、誰も浮かず、誰も余計な音を立てない。それは平和と呼ぶには、あまりに薄っぺらい静けさだった。
ポン太「……なあ、旦那。これ、俺っちも初めて見る類の変化だぜ」
普段は軽口ばかりのポン太が、珍しく真剣な声で呟いた。尻尾の先がぴくりと動く。何かを警戒するような、いつもとは違う動き方だった。
直也「お前でも知らないことがあるのか」
ポン太「知らねぇことだらけだよ、この街は。だが、これは特に嫌な感じがする」
そのとき、腰の鞘が小さく震えた。
ゼピュロス「え……?」
驚いたような声だった。俺は鞘に目をやった。
直也「どうした」
ゼピュロス「風が……音がしない」
言われて周囲を見ると、確かに風は吹いていた。俺の髪もリィナの服も揺れている。石畳の上の埃も舞っている。それなのに、風切り音がまったく聞こえない。まるで音だけが、この世界のどこか別の場所へ抜け落ちてしまったようだった。
ゼピュロスがしばらく黙り込んだ。彼女にとって、風の音は自分の存在そのものだ。それが消えるということが、どれほどの意味を持つのか、俺には想像しかできなかった。会社員時代の俺なら、たぶん理解できなかっただろう。だが今は、少しだけ分かる気がした。誰かに、自分の一番大事な部分だけを黙らされる感覚。それは、存在を否定されるのと、そう変わらない痛みなのかもしれない。
ゼピュロス「……私の風、どこ?」
その声は、いつもの騒がしさとはまるで違う、弱々しいものだった。俺はこれまで聞いたことのない声を聞いている気がした。鞘越しに伝わる気配が、いつもの威勢の良さとはまるで違う、迷子のような揺らぎ方をしていた。
直也「ゼピュロス……」
かける言葉を探していると、通りの向こうから、白い影がゆっくりと現れた。
人間よりひと回り大きい、継ぎ目のない白い装甲。顔には目も鼻も口もない、のっぺりとした頭部。手には、透明な音叉のような形をした大剣を提げている。全身から発せられる存在感は、これまで遭遇してきたどの敵とも違う、静かで威圧的なものだった。
歩いているはずなのに、足音がしない。石畳を踏む重量は感じられるのに、その痕跡だけが空気から抜け落ちているようだった。まるで、その白い影自体が、この世界の「音」という概念の外側にいるかのようだった。
住民たちが、誰も見ていないはずなのに、その白い影の輪郭だけを正確に避けて通り過ぎていく。誰も驚いていない。まるでその存在が、この街の一部として当たり前に組み込まれているかのように、あらかじめそういう振る舞いをするよう決められているかのようだった。
直也(……こいつが、音を奪ってるのか)
確信はなかった。だが、この街に流れる違和感の中心に、あの白い影がいることだけは、はっきりと感じ取れた。背筋にひやりとしたものが走る。それは寒さのせいだけではなかった。
リィナが小さく息を呑む音が、辛うじて聞こえた。
リィナ「直也さん、あれ……」
直也「見えてる」
俺は仲間たちの前に一歩出た。筋肉痛の残る足に力を込める。それでも、身体は自然と戦う姿勢を取っていた。この短い旅の間に、いつの間にか染みついた反応だった。かつての俺なら、この状況で何もできずに立ち尽くしていただろう。だが今は、違う。
ALMA『直也さん、敵は音だけではなく――』
その声が、途中で完全に途切れた。
光球だけが、激しく明滅していた。
直也(……何か、伝えようとしてる)
俺は光の点滅を目で追ったが、意味までは読み取れなかった。ただ、これが警告であることだけは分かった。長い点灯と短い点滅が交互に繰り返され、まるでモールス信号のように急いた調子を帯びていた。こんな時に限って、ALMAの言葉を翻訳する術を俺は持っていなかった。いつもなら、あいつの解析一つで状況が整理できたのに。
白い影が、ゆっくりと大剣を持ち上げた。
刃が空を切ったはずなのに、風切り音一つ響かない。その静寂そのものが、これから起こることの重大さを物語っているようだった。
直也「みんな、構えろ!」
喉は震えた。
息も吐き出した。
だが、自分の声は聞こえなかった。
リィナがこちらを振り返る。
ポン太の口が何かを叫ぶように動く。
ゼピュロスが風を巻き上げる。
それでも、何一つ聞こえない。
白い騎士だけが、音叉状の大剣を静かに振り下ろした。
◆◆◆(消えた音)◆◆◆
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次回更新予定:7月21日(火)になります。
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