第14話(3)裏台帳と、凍った名前 ―― 不要書類室と、裏台帳の匂い
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ポン太に案内されたのは、行政センターの正面とは似ても似つかない場所だった。
清掃通路の奥、誰も使わなさそうな鉄扉を抜けると、埃と古紙の匂いが鼻をついた。明かりは弱く、天井から下がるランプが頼りない光を落としている。表の白磁の床とは正反対の、薄暗くて埃っぽい空気だった。それなのに、息のしやすさだけはこちらの方が何倍も上だった。整いすぎた場所に慣れた肺が、久しぶりに緩むのを感じる。
ポン太「ここが、不要書類の一時保管室ってやつだ」
直也「一時、ってことはいずれ処分されるのか」
ポン太「ああ。だが、処分待ちの紙の山ってのは、案外宝の山だったりするんだよ」
棚という棚に、紙の束が無造作に積まれている。破棄予定の控え、訂正前の申請書、改定前の台帳。表の窓口で見た書類とは違い、どれもくたびれて、皺だらけで、扱いの雑さがそのまま残っていた。インクの滲み、消しゴムで擦った跡、誰かの苛立ちが透けて見える殴り書き。整いすぎたこの世界の中で、ここだけは妙に生々しい人間の痕跡が残っていた。棚と棚の間には埃が薄く積もり、踏み込むたびに足音が乾いた音を立てた。天井の隙間から漏れる外光すらここには届かず、ランプの淡い光だけが頼りだった。
リィナ「……ここ、初めて見ました。こんな場所があったんですね」
直也「ここが裏台帳の入口ってわけか。確かに、表とは空気が違うな」
俺は痛む腰を押さえながら棚の間を進んだ。筋肉痛はまだ抜けていない。一歩ごとに、昨日の防寒外套の仕返しを思い出させてくる。狭い通路を縫うように歩くたび、膝の裏が小さく軋んだ。
だが、すぐに違和感に気づいた。
破れた申請書の切れ端が、足元で小さく震えていた。
黒ずんだ端が、ゆっくりと白く戻っていく。手垢が薄れ、折り目が浅くなり、最後にはかすれていた文字までもがふっと薄まって、まるで最初から誰にも書かれなかったかのような、綺麗な未記入欄だけが残った。音もなく、痛みもなく、ただ静かに、その紙が背負っていたはずの過去が消されていく。まるで時間そのものが、巻き戻るのではなく、初めからなかったことにされているようだった。
直也「……おい、今の見たか」
リィナ「は、はい……。紙が、何も書かれていなかったみたいに……」
ALMA『観測しました。記録媒体が標準状態へ復元される現象です』
直也「その言い方が一番怖いんだよ」
俺はしゃがみ込んで、別の紙片を拾い上げた。まだ文字が残っている。だが、見ている間にも、端の方からじわじわと白さが広がってくるのが分かった。指先で押さえてみても、止まる気配はない。まるで紙そのものが、書かれたことを恥じて自ら消えていこうとしているようだった。
直也「……消してるんじゃないな。最初からなかったことにしてる」
リィナ「紙が、忘れようとしているみたいです」
その一言が、妙に胸に刺さった。リィナの言葉はいつも単純で、だからこそ核心を突く。忘れる、という言葉が、ただの紙切れの現象とは思えないほど重く響いた。
腰の鞘の中で、ゼピュロスが小さく身じろぎした。
ゼピュロス「……なんか、この部屋、嫌い」
直也「ボレアスと同じ感じか?」
ゼピュロス「分かんないって言ってるでしょ。ただ、嫌なの」
直也「理由は分からないけど嫌、か」
ゼピュロス「うん。ムカつく。紙なのに、止まってる感じがする」
それ以上、ゼピュロスは何も言わなかった。だが、その短い言葉の中に、本人にも説明のつかない苛立ちが滲んでいるのは分かった。鞘越しに伝わる気配が、いつもの威勢の良さとは違う、どこか落ち着かない揺れ方をしている。
ポン太が棚の奥を指差した。
ポン太「旦那、ここで大事なのは、綺麗な紙じゃねぇ。消えかけた紙の方だ。読みやすい文字ほど、信用するなよ」
直也「つまり、今にも消えそうなやつを探せばいいんだな」
ポン太「そういうこった。急いだ方がいい。ここの紙は、待ってちゃくれねぇからな」
俺は改めて棚を見渡した。
無数の紙が、静かに、しかし確実に「最初から何もなかったこと」へと戻ろうとしている。
急がなければ、本当のことまで消えてしまう。薄暗い棚の奥で、白くなりかけた紙の山が、まるで時間に追われる人間を嘲笑うように、ゆっくりと、しかし着実に余白を取り戻していく。誰にも気づかれずに、誰の記憶にも残らずに、ただ静かに更新されていく棚。それがこの保管室の正体だった。腐っていくのではなく、清潔に、丁寧に、何もなかったことにされていく。その静かさの方が、よほど不気味だった。
直也「リィナちゃん、ポン太。手分けして探すぞ」
リィナ「は、はい!」
ポン太「合点だ」
俺たちは、白く戻っていく紙の山へと、それぞれ手を伸ばした。
◆◆◆(不要書類室と、裏台帳の匂い)◆◆◆
次回更新日:7月7日




