第10話(6)仮通行札と、開けちゃいけない扉 ―― 黒扉前夜の静けさ
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その日の宿は、中核区画の外れにある、いかにも「仮」の匂いがする安宿だった。
壁は薄い。廊下は狭い。部屋の机は片脚だけ微妙に短く、触るたびに小さく揺れる。
だが少なくとも、門番のように丁寧語で追い詰めてくる係員はいない。
それだけで、今日はもう十分だった。
直也「……はぁ」
椅子に腰を落とした瞬間、全身から力が抜けた。
今日一日で、泥まみれにもなったし、走ったし、剣まで抜いた。
異世界に来てから色々あったが、「書類をぶちまけたせいで警備に追われる」という経験は、できれば人生で一回きりにしてほしい。
リィナ「直也さん、大丈夫ですか?」
向かいの椅子に座ったリィナが、心配そうに顔をのぞき込んでくる。
服の裾にはまだ少し泥の跡が残っていた。きっと自分のことより、こっちの心配をしているのだろう。
直也「大丈夫じゃないけど、死ぬほどではない」
リィナ「それ、大丈夫じゃない寄りですよね……」
直也「今日は基準が甘いんだよ。生きて宿に着けたら合格だ」
そう言って、俺は机の上に小さな札を置いた。
薄い金属板に簡素な刻印。派手さはないが、ちゃんと重みがある。
中核区画仮通行札。
今日の泥と紙吹雪と冷や汗の結晶が、こんな小さな板になるとは思わなかった。
リィナ「わ……これが、仮通行札……」
リィナは、壊れ物でも扱うみたいに両手を添えて札を見つめた。
リィナ「これで、少し進んだんですね」
直也「少しどころか、今のところは命綱だな。これがないと、また親切な説明を最初から受ける羽目になる」
思い出しただけで頭が痛い。
整理券。窓口分岐。言い回しだけ違う同じ説明。親切な笑顔。
あの街は、人を助けるふりをしながら、きっちり逃げ道を塞いでくる。
ポン太「仮とはいえ、中核区画の札ァ札だ。第一関門突破ってとこだなぁ」
いつの間にか机の端に飛び乗っていたポン太が、札を覗き込みながら鼻を鳴らした。
直也「お前、言い方がいちいち腹立つな」
ポン太「事実を言ってるだけだぜぇ。しかも今回は、オレ様の案内料込みでこの成果だ。感謝してほしいくらいだ」
直也「しっかり後から請求してくるやつに、感謝の前払いはしたくない」
ポン太はけたけたと笑う。
だが、その目だけは少しも笑っていなかった。
冗談めかしていても、契約と代償の話だけは絶対に曖昧にしない。
そこがこいつの嫌なところで、同時に信用できるところでもある。
ポン太「ま、先に言っといてやるがな。次の件は、今日までみたいな軽口じゃ済まねぇ。場所が場所だ。条件も増えるし、案内料も跳ねる」
直也「やっぱりそこは跳ねるのかよ」
ポン太「当たり前だろぉ。ああいう“奥”に近い場所は、何でも高ぇんだよ」
“奥”。
その言葉だけで、昼間の冷気が喉の奥に戻ってきた気がした。
没収品保管区画のさらに先。
金具に触れた瞬間だけ妙に冷たかった扉。
倉庫の空気とは明らかに違う、あの静かすぎる冷え方。
思い出しただけで、肌が粟立つ。
怖いというより、近づきたくない。
もっと言えば、あれは「開けるな」と空気そのものが言っていた。
直也「……ゼピュロス」
壁際に立ったまま、窓の外を見ていた風の魔剣娘が、視線だけこちらへ向けた。
ゼピュロス「なに?」
直也「昼のあれ、お前ずっと機嫌悪かっただろ」
ゼピュロス「別に」
即答だった。
だが、間がなかったぶん、逆に分かりやすい。
直也「分かりやすいな」
ゼピュロス「分かりやすくしてるんだよ。嫌なものを嫌だって言って、何が悪いの」
直也「で、その“嫌なもの”は扉の向こうか?」
ゼピュロス「……空気」
ゼピュロスは短く答えて、それから少しだけ眉を寄せた。
ゼピュロス「風が死んでる感じがした。流れてないのに、冷たさだけ残ってる。ああいうの、嫌い」
直也「ずいぶん詩的な嫌がり方だな」
ゼピュロス「うるさいな。言葉にしにくいだけ」
直也「でも、嫌なんだな」
ゼピュロス「嫌だよ。だから、たぶんいる」
最後の一言だけ、やけに小さかった。
リィナ「いる、って……」
リィナが不安そうに両手を握る。
直也「まだ何も決まってない。決まってるのは、あそこが次の仕事になりそうってことだけだ。中身は知らない。勝手に想像して怯えても得はない」
そう言いながら、自分にも言い聞かせているのが分かった。
正直、得体の知れない扉なんて放っておきたい。
だが、放っておいても進めないのも事実だった。
ALMA『現時点で整理できる情報は3点です。
1点目、正規導線は親切を名目とした管理の受容が前提です。
2点目、裏導線は契約と代償を支払うことで、選択の余地を確保できます。
3点目、本日はそのための足場として、単発依頼の報酬と仮通行札を得ました』
直也「急に報告書みたいに整理するな。ちょっとだけ現実に戻るだろ」
ALMA『事実の列挙です』
直也「そういうとこだよ」
淡々と返されて、俺は額を押さえた。
この光球は、たまに絶妙なところだけ人を苛立たせてくる。
だが、ALMAの言うことも間違ってはいなかった。
泥まみれで、息を切らして、ようやく小さな札を一枚手に入れる。
今の俺たちに許されている前進は、そのくらいの速度らしい。
俺は机の上の仮通行札を指先で弾いた。
軽い音がして、金属板が小さく震える。
たったこれだけだ。
だが、ゼロではない。
会社を追い出されるみたいに異世界へ飛ばされて、森で迷って、変な村娘と、妙に事務処理が得意な光球と、性格の悪い風の魔剣娘と、契約にうるさいタヌキに囲まれて。
それでも今日、ようやく「この街で生きるための一歩」を形にできた。
まったく、スローライフへの道のりとしては、過程がうるさすぎる。
リィナ「……で、明日は、どうするんですか?」
ポン太「黒扉の件、受けるなら朝イチだな。人の少ねぇ時間の方が都合がいい。追加条件はその場で話す」
直也「追加条件って言い方がもう嫌だ」
ポン太「嫌でも聞け。自由ってのは高くつくんだよ」
ゼピュロスが窓辺から離れ、ふっと鼻を鳴らした。
ゼピュロス「私は気に入らないけどね。あの扉の向こう、ろくでもない空気しかしない」
直也「そこまで嫌がるなら、逆に嫌な予感しかしないな」
ゼピュロス「予感じゃなくて、たぶん当たり」
直也「その断言の仕方も怖いんだよ」
言い返すと、ゼピュロスは少しだけ笑った。
その笑い方を見て、ほんの少しだけ肩の力が抜けた。
嫌がっている。だが、逃げる気はない。
たぶん、それは俺たちも同じだった。
俺はもう一度、仮通行札を手に取る。
冷たい金属の感触が、今日の現実を静かに伝えてきた。
進んだ。
ほんの少しだが、確かに。
そして、その少し先には、開けちゃいけない感じしかしない扉が待っている。
直也「……スローライフのために、まず手続きと寒気を片づける」
誰に言うでもなく呟いてから、俺は深く息を吐いた。
直也「最悪だな」
部屋の空気が、一拍遅れてゆるくほどけた。
だがその夜、眠りに落ちる直前まで、俺の頭の片隅にはずっとあの黒い扉が残っていた。
倉庫の奥で、冷たさだけを閉じ込めたまま、静かに待っている。
そんな気配だけが、消えなかった。
◆◆◆ 黒扉前夜の静けさ ◆◆◆
第1部完
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第10話をもって、第1部はここまでとなります。
次回より第2部開始です。
更新は1週お休みをいただき、翌週より再開予定です。
引き続き見守っていただけたら嬉しいです。




