第11話(1)冷える保管庫と、まだ名乗らない気配 ―― 仮札の翌朝
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朝。安宿の窓から差し込む、鈍く淀んだ燐光の輝きで目が覚めた。窓の外では、今日も巨大な魔導時計の歯車が噛み合う重厚な音が響き、街全体に正しい一日の始まりを強要する鐘の音が鳴り渡っている。俺は硬い寝台の上で体を起こし、昨日手に入れたばかりの重い鉄のプレートをポケットから取り出した。それは掌に収まる程度の大きさだが、表面には魔導の刻印が複雑に絡み合い、俺の名前と要監視対象(仮)という文字が、逃れようのない調和をもって彫り込まれている。
直也「……仮通行札。これ一枚手に入れるのに、一日がかりで泥にまみれるとはな」
指先でなぞると、プレートに込められた冷徹な魔力が微かな痺れを指先に伝えてくる。不純物として排除される運命から、監視対象としての生存を許された昇格。街を覆う広域監視結界から向けられる無数の殺意が、わずかに配慮へと変わった程度の成果だが、今の俺たちにとっては唯一の命綱だ。昨日の手続き地獄と紙吹雪の旋風、そしてあの極寒の保管庫での出来事が、数日前のことのように遠く感じられた。
ポン太「へへっ、旦那。朝っぱらからその鉄屑を宝物みたいに眺めてるのかい?悪いが、そいつはあくまで仮の代物だ。有効期限の三日なんて、この街のしち面倒くさい手続きに翻弄されてりゃ、あっという間に消えてなくなるぜ」
枕元に置かれた使い古しの毛布から、茶色い毛玉がひょいと顔を出した。ポン太だ。相変わらず気配を感じさせない案内役のタヌキは、自分の髭を前足で器用に整えながら、俺の戦利品を冷めた目で見つめていた。彼は寝起きの欠伸を一つすると、尻尾で床を軽く叩いた。
ポン太「いいかい、旦那。この街での滞在は、常に正解を買い続ける契約なんだ。その札があれば中核区画の安宿には泊まれるが、次の更新料を稼がない限り、三日後の朝にはまた路地裏の不純物扱いに逆戻りさ。立ち止まることは、すなわち消滅を意味するんだよ」
直也「分かってるよ。だから今日、あの没収品保管庫の正式な依頼を受けに行くんだろ。……リィナちゃん、ゼピュロス、起きてるか?」
俺が声をかけると、隣の寝台で丸まっていたリィナが、杖を胸元で抱きしめるようにしてゆっくりと上体を起こした。
リィナ「は、はい……。おはようございます、直也さん。なんだか、昨日の寒さがまだ腕の中に残っているみたいで……少しだけ、変な夢を見ていました」
リィナは青白い顔で小さく身を震わせた。彼女の感受性は、あの保管庫の奥深くに漂っていた停滞した冷気を、いまだに振り払えずにいるようだった。
ゼピュロス「ふぁ……。マスターの声、朝からうるさい。あんな凍った場所に行くなら、私はここで寝ていたいんだけど」
空中に淡い緑色の光が収束し、少女の姿を投影したゼピュロスが、俺の鼻先で不機嫌そうに浮遊していた。風の魔剣である彼女は、安全な場所ではこうしてマナを用いて自らの姿を外に投影し、自由奔放に振る舞う。だがその姿はあくまで幻影に近く、彼女の本体は俺の枕元に置かれた、一振りの抜身の剣だ。
直也「そうもいかないんだよ。正式な許可証を手に入れるには、あの黒い扉の点検を完了させなきゃならない。……行くぞ。まずは行政センターで、手続きの続きだ」
俺たちは重い腰を上げ、再びあの白亜の要塞……中央行政案内センターへと向かった。入り口の巨大な石造りの門をくぐる直前、ゼピュロスが俺の肩を軽く叩いた。
ゼピュロス「じゃ、私は一旦戻るわ。あそこの空気、堅苦しくて嫌いだもん。……ねぇマスター、マナが足りなくなったら、すぐ呼んでよね?美味しい風を食べさせてあげるからさ」
彼女の姿が細かな光の粒子となって霧散し、同時に俺の腰の鞘の中へ、ずっしりとした鉄の重みが戻ってきた。投影を解き、物理的な剣の形態に意識を集中させたのだ。俺の腰で一瞬だけ刀身が震え、彼女が完全に鞘に収まったことを知らせる金属音が響いた。
案内センターの深部、重厚な石造りの窓口には、昨日と同じように、貼り付けたような笑顔を浮かべる係員が待機していた。
係員「おはようございます。正しい朝をお迎えですね。……没収品保管庫・最深部点検業務、通称黒い扉案件の正式契約を開始します。まずは、こちらの羊皮紙をご確認ください」
係員が差し出したのは、昨日以上に文字がびっしりと詰め込まれた、異様な長さの契約書だった。そこに書かれた依頼名は、もはや一種の呪文のように長く、難解だった。
中央行政管理区付随・没収品集積保管施設における熱力学的停滞の解消および不純情報残滓の儀礼的隔離・清掃・点検・ならびに付随する全ての安寧確認法の遂行業務
直也「……依頼名、長すぎだろ。内容を確認する前に、この一文を読むだけで体力が削られるわ!」
係員「正確な要約は不親切な行為ですが、お客様の理解度に合わせた最適化として受理します。……では、入室前の二十段階に及ぶ自己浄化確認書への記入をお願いします」
リィナ「あの、直也さん……。この確認書、一文字でも筆致を乱すと、紙の上の魔導刻印が反応して最初から書き直しになるみたいです。……うぅ、手が震えてしまいそうです」
リィナが真っ青な顔で、複雑な紋様が走る書類を見つめている。一文字書くたびに紙が微かに光り、判定を下している。その光景は、もはや事務作業というよりは、高度な魔導儀式そのものだった。
ALMA『観測。直也さん、リィナさんの気色に微かな混乱を検知。……助言。本申請は、書式の統一を目的としています。リィナさん、深呼吸を。正しいマナの循環を意識すれば、筆記の精度は八割向上します』
直也「ALMA、お前まで杓子定規なこと言うな。……とにかく、これを片付けない限り、あの扉には近づけない」
俺は、一文字も間違えられない正しい名前を書くために、重い羽ペンを握り直した。窓の外では、今日も規則正しく、完璧な太陽が中核区画を照らし始めていた。
◆◆◆(仮札の翌朝)◆◆◆
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次回更新予定:4月28日(火)
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