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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第76話 戻りの印

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった

マルタ・リード      治療師 エマに治療を教えた

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 

サイモン・レック     ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男

イレーネ・ヴォス     白鹿のギルドを襲撃した謎の女

ガロン・レイス      ダンジョンでエマ達を襲撃した一人

ラウル・ゼイン      東水門で襲撃してきた一人


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。

白い扉から離れても、靴底には粉が残った。


踏むたびに、乾いた白が敷石の上で薄く潰れる。敵の足音はもう聞こえない。けれど、消えた音の向こうに何もないとは思えなかった。通路の奥は暗く、崩れた粉がまだ空気の中を漂っている。灯りを動かすだけで、壁の筋が別のものに見えた。


ノルが先へ出ようとした。


エマは荷の革紐を握り直し、声をかけた。


「ノルさん。手甲を外してください」


ノルは足を止めたが、振り返っただけだった。


「戻ってからでいい」


「ここで見ます」


「皮一枚だ」


「皮一枚で済んでるか、私が見ます」


ノルは眉を動かした。言い返す顔ではあった。だが、この場所で押し問答をする方が時間を食うと悟ったのだろう。剣を持っていない方の手を差し出した。


手甲の縁に、細い裂け目があった。


サイモンの針を受けた場所だ。金具の継ぎ目に白い粉が入り、革の内側まで湿っている。血か、汗か、薬か。見ただけでは判じられない。


エマは布を噛ませて留め具を外した。指が滑る。自分の手も粉と血で汚れていることに、その時ようやく気づいた。


内側の皮膚には、浅い赤い線があった。


深くはない。だが、夜針は傷の深さだけで見ていいものではなかった。六階層で、ニナの腕が遅れた時のことを思い出す。灯りを横切った細い針。弾いたはずなのに、遅れて入ってくる毒。


エマは酒精を含ませた布で、傷の周りだけを拭いた。


ノルの指がわずかに強張る。


「痺れは」


「ない」


「指、開いてください」


ノルは黙って従った。


親指、人差し指、中指。動きに遅れはない。汗は出ているが、戦闘の後なら不自然ではない。爪の色も悪くない。


それでも、エマは傷口から目を離せなかった。


「リディアに見せます」


「そうする」


返事が素直だったので、今度はエマの方が一瞬だけ言葉を探した。


ノルは視線を逸らさずに言った。


「お前がそれを見逃すとは思っていない」


「なら、先に出してください」


「悪かった」


その一言は短かった。けれど、形だけではなかった。


エマは手甲を戻さず、布で包んで荷の上に括った。手甲の内側に毒が残っているかもしれない。ここでつけ直す方が危ない。


「手は出したままで。色が変わったら言ってください」


「言う」


「変わる前に気づいたら、それも」


「承知した」


後ろで、ガイが片膝をついたまま笑おうとして失敗していた。


「俺も見てもらっていいか。肩が、さっきから勝手に主張してる」


「主張しなくても見ます」


エマはすぐにそちらへ移った。


ミレイがガイの横に膝をつき、彼の背が倒れないよう支えている。いつもの軽い口元は残っているが、目は笑っていない。ガイの肩口の布は赤く染まり、端から重く垂れ始めていた。


「脱がせる?」


ミレイが聞く。


「ここでは脱がせません。止血だけ足します」


ガイが小さく言った。


「命拾いした」


「縫うのは館です」


「それを先に言うか」


「逃げられたら困るので」


「逃げない。たぶん」


「たぶんは禁止です」


エマは厚い布を重ね、革紐で肩の上から押さえた。強く締めすぎると腕が鈍る。緩いと血が増える。指で布の沈み方を確かめると、ガイの呼吸が一度だけ乱れた。


痛みはある。


けれど、ここで顔色を見すぎると、彼は軽口で逃げる。


「歩く時はミレイさんに寄ってください」


「寄ると怒られないか」


ミレイが即座に返した。


「今は怒らない。あとで言う」


「あとか」


「覚えてたらね」


「忘れてくれ」


「無理」


ガイは諦めたように肩を落とした。動いたせいで布がずれ、エマが黙って直す。ガイは今度は何も言わなかった。


ニナは少し離れた場所で、短剣を拾っていた。


膝をつく動きに遅れがある。左腕ではなく、右手で柄を取った。いつもなら無駄のない動作なのに、床の粉を払う指が途中で止まる。イレーネの刃で裂かれた袖から、細く血が滲んでいた。


「ニナ」


「拾えました」


「短剣じゃなくて、腕です」


ニナは短剣を鞘に収め、困った顔をした。


「腕の話をされると、短剣の方が言い訳しやすいです」


「じゃあ、言い訳は館で聞きます」


「戻ったら怒られる気がします」


「怒る前に洗います」


「それ、マルタさんみたいです」


エマは返事をしなかった。


自分が似てきたのか、似せなければ立っていられないのか、分からなかった。


オスカーは、白い扉のあった方を見ていた。


扉はもう、はっきりした輪郭を失っている。だが、完全に消えたわけではなかった。壁の奥に、白い線だけが残っている。触れればまた何かが起きるのではないかと、そう思わせる程度には、そこにあった。


オスカーの杖先には、布が巻かれている。


ニナが音を抑えるために巻いた布だった。それが今は、白い粉と灰と血を吸い、硬くなりかけていた。杖を置くたびに音が小さく潰れる。歩くための杖ではなく、何かを押さえてきたもののようだった。


「オスカー」


エマは呼んだ。


オスカーは扉から目を離すまでに、間を置いた。


「足は」


「痛いというより、重いです」


「止まれる?」


「止まったら、次に動くのが嫌になりそうです」


その答えに、エマはすぐ手を出せなかった。


嘘ではない。強がりでもない。今の自分の状態を、できるだけ正確に言った声だった。


「曲がり角ごとに一回、短く止まる」


エマは言った。


「長く座ると立ちにくいと思う」


「はい」


「杖はそのまま。布は外さない」


「はい」


オスカーは杖を置き直した。


その時、エマは自分の右手を見た。


ローワンに握られていた手。


今は何も握っていない。けれど、白い粉の中で、あの冷たい手を探した感覚だけが残っている。父は自分を戻した。戻して、動かなくなった。


エマは荷を持ち直した。


六人分の歩幅を、もう一度目で拾う。


一人でも欠ければ、帳面の上ではただの空欄になる。けれど、それぞれに手があり、声があり、痛みを隠す癖がある。


「行きます」


ノルが先頭に立った。


「俺が前を見る。エマは中を見ろ」


「手は出したままで」


「心得てる」


「なら、隠さないでください」


ノルはわずかに袖を上げた。


それだけで十分だった。


帰り道は、来た時よりも狭く感じた。


壁が寄ってきたわけではない。足元を見なければならない者が増えただけだ。ガイの肩、ニナの腕、ノルの手、オスカーの杖。ミレイの矢筒も、いつもより低い位置で揺れている。全員がどこかを庇っているせいで、歩幅がそろわない。


灯りの端で、壁の白い筋が薄く浮かんだ。古い礼拝堂の柱跡のようにも見える。何かを支えていた場所の名残だけが残り、支えていたものはもうない。


「右へ寄れ」


ノルが低く言った。


全員が少しずつ動く。


エマは理由を聞かなかった。聞くより先に、床を見る。粉の積もり方が違っていた。来た時に踏んだ跡とは別の白が、壁の根元だけに新しく落ちている。


オスカーの杖が、その手前で止まった。


「そこ、下が空いてるかもしれません」


ノルが灯りを低くした。


「見えるか」


「音が違います」


オスカーは自分の杖先を見ている。


「踏んだ時じゃなくて、粉が落ちた時の音です。軽い」


ガイが横から言った。


「耳まで使うのか。器用だな」


「器用なら、もう少し上手く歩いてます」


オスカーの返しは弱かったが、消えてはいなかった。


ノルは床を避けて進路をずらした。


「助かった」


オスカーはうなずかなかった。ただ、杖を置き直し、また歩き始めた。


長く止まると、本当に足が動かなくなるのだろう。


エマは横から見ていた。支える位置にはいる。けれど、触らない。触れれば楽になるかもしれない。だが、今のオスカーは楽になりたいのではなく、自分の足で戻ろうとしている。


それを間違えないようにするのも、エマの仕事だった。


途中でニナが咳き込んだ。


灰と白い粉を吸った喉が荒れている。エマは水袋を渡した。


「少しだけ」


「少しって、どれくらいですか」


「口を湿らせるくらい」


「それは少しすぎます」


「館で飲んでください」


ニナは水袋を受け取り、ほんの一口だけ飲んだ。悔しそうな顔をしたが、返す時にはちゃんと蓋を閉めていた。


「味が薄いです」


「水なので」


「知ってます」


「なら言わない」


「何か言ってないと、変に考えます」


エマは水袋を受け取る手を止めた。


ニナは視線を通路の奥に向けたまま、短く笑った。


「さっきのは、忘れてください」


「嫌です」


「え」


「腕を洗う時に聞きます」


ニナは口を開きかけ、やめた。


「……それは、逃げにくいです」


「逃がしません」


今度は、ニナが笑った。


ミレイがガイの肩を支え直しながら言った。


「こっちは会話の余裕がないんだけど」


ガイは目を細める。


「俺はある」


「あなたが喋ると揺れるの」


「存在が大きいからな」


「傷口の話よ」


「すまん」


その謝り方があまりに早くて、ミレイは一瞬だけ顔をゆるめた。すぐに前を見たが、エマには見えた。


誰も、平気ではない。


それでも、平気ではないまま歩いている。


やがて、空気が変わった。


白い粉の匂いが薄くなり、乾いた石と油の匂いが戻ってくる。遠くで人の声がした。監視所の方だ。封鎖札のある入口まで来ると、灯りが黄色く見えた。


ダンは机の向こうではなく、入口の内側に立っていた。


帳面を持っている。開いたままの紙に、朝書いた六人の名があるのだろう。領主側の見張りが二人、少し離れた場所でこちらを見ていた。


ダンはまずノルを見た。


次に、ガイの肩。ミレイの手。ニナの頬。エマの荷。最後に、オスカーの杖先で止まった。


何かを聞きたい顔だった。


それでも最初に出た言葉は、いつもの仕事の声だった。


「人数」


ノルが答える。


「六」


ダンは帳面に目を落とした。


「ノル・ハーヴェイ」


「いる」


「エマ・ウォーカー」


「います」


「ニナ・クラーク」


「います」


声は少し掠れていたが、ニナは自分で答えた。


「ガイ・ラザフォード」


ガイが片手を上げようとして、肩の痛みに顔をしかめた。


「いる。上げる手は間違えた」


ミレイが小さく言う。


「余計なことをしない」


ダンは筆を止めずに線を引いた。


「ミレイ・アスター」


「いるわ」


筆の先が最後の名の前で止まる。


ダンは顔を上げた。


「オスカー・ウォーカー」


オスカーは杖を床に置いた。


音は布に吸われて、小さく潰れた。


「います」


その一言が、監視所の中に残った。


朝、ここを通った時も、オスカーは自分の足で立っていた。けれど、今の彼は粉をつけ、疲れを隠しきれず、杖先の布を硬く汚して戻ってきた。昨日運び出された少年でも、朝送り出された少年でもない。


ダンは、何かを聞こうとした。


戻ったのか。何を見たのか。なぜそんな顔をしているのか。


そのどれも、ここで聞く言葉ではなかった。


「……戻ったな」


オスカーの指が杖の柄を握り直した。


「はい」


ダンは帳面へ戻りの印を入れた。


六つ。


筆の先が紙を擦る音は小さい。けれど、エマにはやけにはっきり聞こえた。


「正面から入った者は」


ノルが聞いた。


ダンは帳面を閉じずに答える。


「白鹿以外はいない。戻りの隊もまだない。押し通ろうとした者もいない」


「封鎖は続けてくれ」


「言われなくても閉じておく」


ダンの声に疲れが混じった。


「名も顔も残す。通す理由がない者は通さない」


「頼む」


ノルは短く返した。


ダンの視線が、もう一度オスカーの杖先へ落ちた。


布の端から、乾いた白が床にこぼれている。


「その布」


オスカーは少しだけ杖を引いた。


「あとで替えます」


ダンは、深く聞かなかった。


「そうか」


それだけだった。


外には白鹿の荷馬車が待っていた。館から回されたものだ。若いギルド員が御者台の横で待っていたが、こちらを見るなり言葉を飲み込んだ。


エマは先にガイを乗せた。


「肩をぶつけないでください」


「ぶつけたくてぶつけるわけじゃない」


「今のガイさんなら、馬車の方が避けてくれると思ってそうです」


「さすがにそこまで図々しくない」


ミレイが背中を押した。


「話してないで乗る」


ガイは素直に従った。馬車の奥へ腰を下ろした瞬間、顔から色が抜ける。本人は笑おうとしたが、ミレイが先に布を直したので、何も言わなかった。


ニナは自分で上がろうとして、足を踏み外しかけた。


ノルが腕を出した。


ニナは迷ってから、その腕を取る。


「ありがとうございます」


「腕を見せろ」


「着いてからですよね」


「着いたら逃げる」


「逃げません」


ノルは何も言わなかった。


ニナは唇を尖らせた。


「逃げたことは、あります」


「あるな」


「そこは否定してくれてもいいです」


「嘘になる」


「厳しい」


そう言いながら、ニナは馬車に乗った。


オスカーは最後に残った。


足を上げる前に、彼は一度だけ馬車の段差を見た。杖をどこに置くか。手をどこにかけるか。悪かった足ではなく、戻った足をどう使うか。


考えている。


エマは横に立った。支えるためではない。落ちた時に受けるためだった。


オスカーは杖を御者台の縁に当て、片手で車体を掴み、自分で上がった。


上がりきったあと、短く息を吐く。


それを隠すように、杖を膝の横へ置いた。


エマは何も言わず、向かいに座った。


馬車が動き出す。


監視所の灯りが後ろへ離れていく。封鎖札はまだ扉に掛かっていた。赤い印は朝よりくすんで見える。何人もの目に見られ、誰も通さず、六人だけを戻した札だった。


エマは膝の上で右手を開いた。


指の間に白い粉が残っている。


ローワンの手を離せなかった時と同じ手だった。あの時は、父を戻せなかった。今日、戻せたものがあるからといって、その穴が埋まるわけではない。


けれど、馬車の中には六人いた。


ガイは目を閉じている。眠っているのではなく、痛みをやり過ごしている顔だった。ミレイはその肩の布が緩んでいないか見ている。ニナは短剣の鞘を膝に置き、親指で汚れた鍔をなぞっている。ノルは外を見ているが、針を受けた手は膝の上に開いたままだ。


オスカーは杖先の布を見ていた。


「洗う?」


エマが聞いた。


オスカーはすぐには答えなかった。


「洗って、落ちなかったら切ります」


「捨てる?」


「分かりません」


その声は、疲れていた。


エマは頷いた。


分からないものを、すぐに決めなくていい。杖も、白い粉も、戻った足も、父のことも。


馬車の車輪が石畳を越えた。


町の音が少しずつ戻ってくる。遠くの店先で戸板を開ける音。荷車の軋み。誰かが水を撒く音。何も知らない朝が、いつもの顔で始まっていた。


白鹿の館に着くと、治療室の灯りがすでに入っていた。


マルタが入口で待っていた。腕を組んでいる。眉間に皺があり、口はきつく結ばれている。怒っているのか心配しているのか、分ける意味はなさそうだった。


「順番に入れ」


その一言で、誰も逆らわなかった。


「言い訳はあと。倒れるなら椅子の近くで倒れな。床の真ん中は邪魔だ」


ガイが小さく言った。


「優しいな」


「黙って入れ」


「はい」


マルタの視線がノルの手へ移る。


「そっちから」


リディアが薬箱を持って奥から出てきた。袖を肘まで上げ、髪を後ろで留めている。眠っていなかった顔だった。目の下に薄い影がある。


エマはノルの包みを渡した。


「サイモンの針です。手甲越し。皮膚は浅い線だけ。痺れはありませんでした。針は粉の向こうへ落ちました。拾えていません」


リディアは包みを受け取り、言葉を増やさずにノルの手を取った。


「指を動かしてください」


ノルが動かす。


「痛みは」


「ある」


「熱は」


「分からない」


「こちらで見ます」


リディアは薬で傷を洗った。強い匂いが治療室に広がる。ノルの表情は変わらない。だが、指先に力が入った。


「深くはありません。ただ、今夜は見ます」


「動ける」


リディアは顔を上げなかった。


「動ける人ほど、余計に見ます」


マルタが横から言った。


「いい返事だ」


ノルは黙った。


その間に、ガイが椅子へ座らされていた。上着の肩を切られると、ミレイが一瞬だけ息を止めた。傷は大きく裂けてはいない。だが、浅いと言うには血が出すぎている。


マルタは傷口を見て、短く言った。


「縫う」


ガイは天井を見た。


「酒は」


「あと」


「先に一口」


「針が曲がる」


「それは嫌だ」


「なら黙って座れ」


ガイは口を閉じた。


ミレイが横で布を押さえる。手元は安定していた。けれど、ガイが動くたびに目だけが鋭くなる。


「ミレイ」


ガイが言う。


「なに」


「そんな顔をされると、俺が死にかけてるみたいだ」


「死にかけてからじゃ遅いでしょ」


「まあな」


「だから黙って縫われて」


「はい」


二度目の返事は、少しだけ小さかった。


ニナは自分から椅子に座った。逃げなかった。けれど、袖を上げる手は遅い。


リディアが戻ってきて、頬、手、腕の順に見ていく。灰と粉を洗うと、小さな傷がいくつも出てきた。ひとつひとつは浅い。だが、どれも嫌な場所にある。


「よくこれで握っていましたね」


リディアが言う。


ニナは短剣の鞘を膝に置いたまま、目を逸らした。


「握ってないと、落としそうだったので」


「落としても、手は落とさないでください」


「それ、冗談ですか」


「違います」


「ですよね」


ニナは小さく笑い、すぐに痛みで顔をしかめた。


リディアはその顔を見て、布を柔らかいものに替えた。何も言わない。その沈黙が、かえって優しかった。


オスカーは、治療室の入口で立ったままだった。


マルタが顎で椅子を示す。


「座りな」


「僕はあとで」


「ここで座りな」


オスカーはエマを見た。


エマは頷かなかった。代わりに、隣の椅子を引いた。座れと言うより、場所だけ空けた。


オスカーは椅子に腰を下ろした。杖を横に置く時、布を巻いた先が床に触れないよう、浮かせる。


マルタは膝をつき、靴を見た。


「脱げるか」


「脱げます」


「なら脱ぎな」


オスカーは紐をほどいた。指先がもつれる。足が戻ったことと、疲れないことは違う。靴を脱ぐと、踵の皮が赤く擦れていた。足裏にも、慣れない歩き方の跡が残っている。


マルタはその足をしばらく見ていた。


「歩ける足と、歩き慣れた足は別だ」


オスカーは床を見た。


「はい」


「今日、嫌でも覚えただろ」


「覚えました」


「ならいい。痛みを隠して歩くな。変な癖がつく。癖になった歩き方は、あとが面倒だ」


「……はい」


遅れた返事だった。


マルタは薬を塗り、布を巻いた。


「その返事は腹に落ちてない時の返事だね」


オスカーは困ったように目を伏せた。


「落としたいとは思ってます」


マルタの手が止まった。


それから、ふん、と小さく鼻を鳴らす。


「なら、まずはそれでいい」


エマはそのやり取りを見ていた。


見ているだけのつもりだった。


だが、リディアが近づいてきた。


「エマさん」


「私は最後で」


「先に見ます」


さっき、自分がノルに言った言葉が、少し形を変えて返ってきた。


エマは反論できず、椅子に座った。座った途端、背中の荷がなくなった場所に痛みが広がった。肩、指、膝。どこも大きくはない。けれど、全部が遅れて自分の体に戻ってきたようだった。


リディアが手を取る。


「震えています」


「寒くはないです」


「寒さだけではありません」


エマは何か言いかけて、やめた。


治療室の床には、白い粉が点々と落ちている。誰かの靴から落ちたもの。杖の布からこぼれたもの。傷を洗った水に混じって流れたもの。


ローワンの手の冷たさが、一瞬だけ戻った。


エマは右手を握った。


リディアはその指を、無理には開かせなかった。


「怪我を見ます」


「はい」


「痛むところを言ってください」


「たぶん、全部少しずつ」


リディアは目を上げた。


エマは小さく首を振った。


「大きいのは、ありません」


「では、小さいものを拾います」


その言い方が、妙にリディアらしくて、エマは少しだけ息を吐いた。


ケインが入口に立っていた。


いつ入ってきたのか、誰もすぐには気づかなかった。彼は治療の邪魔にならない場所で止まり、部屋の中を見た。ノルの手。ガイの肩。ニナの腕。オスカーの足。エマの右手。


全部を見てから、ノルへ視線を移す。


「報告は短くていい」


ノルは立とうとした。


ケインが手で止めた。


「座ったままでいい」


ノルは一拍置いて、座ったまま言った。


「敵は退きました。白い扉は残っています。輪郭だけですが、完全には消えていません」


「白骸晶は」


「渡していません」


「追ったか」


「追っていません」


治療室の中の音が、薄くなった。


ノルは続けた。


「追えば、誰かを置くことになりました。扉の前も空く。敵は退き道を持っている。こちらは負傷者を抱えていた」


ケインは黙って聞いた。


怒りも、安堵も、すぐには顔に出さなかった。ただ、その判断の重さを机に置かれた荷のように受け止めている顔だった。


「逃がしました」


ノルが言った。


ケインはすぐには返さなかった。


マルタの針が布を抜ける音だけがした。


やがて、ケインは低く言った。


「全員戻した」


ノルは目を伏せなかった。


「はい」


「今日の白鹿の仕事は、そこだ」


ガイが小さく言った。


「それ、肩を縫われる前に聞きたかったな」


マルタが即座に返す。


「聞いても痛いもんは痛い」


「夢がない」


「夢で血は止まらないよ」


ミレイが顔を背け、少しだけ笑った。


ニナも笑おうとして、頬の傷を思い出したように顔をしかめる。リディアが黙って布を替えた。


ケインはそれ以上、詳しい報告を求めなかった。


「封鎖は続ける。監視所にはこちらから伝える。白い扉のことは、今夜ここで決めない」


「分かりました」


ノルが答えた。


ケインは踵を返しかけ、オスカーの杖を見た。


布を巻いた先は、床につかないように椅子の横へ置かれている。白い粉が乾き、端から崩れかけていた。


ケインは何も言わなかった。


言えば、ここで決めなくていいものまで決めさせてしまう。


そう分かっている沈黙だった。


エマは椅子から立とうとした。


だが、指が椅子の縁を握ったまま動かなかった。リディアが包帯を取るために背を向けている。マルタはガイの肩に針を通している。誰も、その一瞬を責めなかった。


白い粉のついた右手だけが、椅子の木目に残った。


監視所では、ダンが帳面を閉じた。


六人の名の横には、戻りの印が入っている。


封鎖札はまだ入口に掛かっていた。外の光が少しずつ強くなり、赤い印の色だけが床に落ちている。


若い見張りが、入口の床を見た。


白い粉が少し落ちていた。杖先からこぼれたものだろう。小さな跡だった。掃けば消える。水を撒けば流れる。


「掃きますか」


見張りが聞いた。


ダンは帳面の角を指で押さえたまま、その粉を見た。


「あとでいい」


見張りは少し不思議そうにしたが、何も言わなかった。


ダンは帳面をもう一度開いた。


六つの印が並んでいる。


抜けはなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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