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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第75話 選ばない手

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 

サイモン・レック     ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男

イレーネ・ヴォス     白鹿のギルドを襲撃した謎の女

ガロン・レイス      ダンジョンでエマ達を襲撃した一人

ラウル・ゼイン      東水門で襲撃してきた一人


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。

ノルは、サイモンの目が伏せられた一瞬を見逃さなかった。


白い扉の前で鳴った音は、誰のものでもなかった。剣でも、矢でも、割れた敷石でもない。壁の奥で乾いた骨を薄く削ったような音が、広間の床を撫でて消えた。


ガイの剣先が、わずかに扉の方へ向く。


「……今のは、聞かなかったことにしていい音か?」


誰も答えなかった。


ミレイの矢は弦の上で止まっている。ガロンも動かない。イレーネの笑みも消えていた。


ノルはサイモンから目を外さなかった。


「お前にも、予定外か」


サイモンは答えない。


いつもなら、そこで何かを置く。相手が不安に思う場所へ、少しだけ優しい言葉を入れる。だが、今は口元だけが静かだった。


「全部を知って動いているわけじゃない」


ノルが言うと、サイモンはようやく目を上げた。


「知っている分だけ使います」


「十分なら、黙らなかった」


扉の輪郭が、また浅く揺れた。


取っ手も隙間もない。壁に描かれた線のようだったものが、そこだけ浮き上がって見える。灯りを向けても奥は明るくならない。床に積もった石粉が、扉の前へ細く寄っていった。


オスカーの杖先に巻かれた布が、その流れを止めている。


布はもう元の色が分からない。石粉、灰、血。誰のものか分からない赤が端に滲み、固まりかけていた。オスカーは杖を動かさない。動かせば、足元の線が崩れる。それを分かっているのか、ただ動けないのか、エマには判断できなかった。


エマは床に置いた厚い布を引き寄せた。ガイの血が落ちた場所へ滑らせる。拭うのではなく、覆う。白い場所に、これ以上赤を増やしたくなかった。


ガイがラウルから目を外さずに言う。


「悪いな。手間を増やしてる」


「倒れないでください」


「ああ」


それだけ言って、ガイはまた口を閉じた。


ラウルは片膝をついたまま、まだ刃を下ろしていない。脇腹から血が落ちている。普通なら次の踏み込みは鈍る。けれど、彼は痛みを見ていなかった。使える足、届く距離、空いている道。それだけを数えている。


ガイは、その道の前に立っていた。


右では、ミレイがガロンの後ろを見ている。


矢の先はガロンの胸ではない。細い通路の入口。その奥、敵が退くなら使うはずの影だった。


「そこ、通すつもりないわよ」


ガロンは矢を見ずに言った。


「俺はまだ動いていない」


「動いてからじゃ遅いから」


「忙しい女だ」


「暇な弓よりましでしょ」


ガロンは笑わなかった。


扉の前で、石粉がまた沈んだ。穴があるわけではない。床は見えている。それなのに、そこだけ深くなったように見えた。


オスカーの杖が、わずかに沈む。


「オスカー」


エマの声が硬くなる。


「まだいけます」


「無理なら言って」


「言います」


「言わなかったら」


「怒ってください」


その返事が、あまりにいつもの調子で、エマは一瞬だけ言葉を失った。


台所で鍋を見ている時の声に似ていた。布を畳み直す時、塩の瓶をエマの手から遠ざける時、黙って火を弱める時の声に。


こんな場所で、オスカーは床を見ていた。


白い扉の前で、家にあるものと同じ手つきで。


サイモンの視線が、そこへ向いた。


ノルの剣が、その間に入る。


「見るな」


「彼は、自分で立っています」


サイモンの声は穏やかだった。


「それを見ることも、許されませんか」


「お前のそれは、見るというより測る」


サイモンの袖の内側で、指が動いた。


ノルは踏み込んだ。


細い針が灯りを横切る。ノルは首を振って避けるのではなく、剣の柄でサイモンの手首を払った。針は落ちず、指に残ったまま角度だけが外れる。


同時に、サイモンの反対の手が壁へ伸びた。


ノルは剣を戻さない。


肩で押した。


サイモンの体が壁から離れる。強い衝撃ではない。だが、指先が石の筋へ届かない距離になった。


「そこに触らせない」


「白鹿は、触れるものを選ぶのが好きですね」


「人の足元を崩す手よりはましだ」


サイモンは崩れなかった。けれど、壁からは遠い。


扉が、内側から押された。


今度は音ではなく、床の白が輪を作るように動いた。布の縁を回り込もうとする細い流れを、オスカーが杖で押さえる。強く押せば床が割れる。弱ければ抜ける。杖を持つ手の甲に筋が浮いた。


サイモンが静かに言った。


「あなたは、歩きたかった」


オスカーの指が止まりかけた。


エマが前へ出る。


その前に、オスカーが口を開いた。


「そうです」


サイモンの目が細くなる。


オスカーは顔を上げなかった。杖先の布を押さえたまま、床の筋を見ている。


「歩きたかった。自分の足で店へ行って、荷物を持って、姉さんが帰る前に鍋を火にかけたかった。誰かが手を貸そうとする前に、自分で椅子から立ちたかった」


声は大きくない。


それでも、広間に残った。


「それは本当です」


サイモンは言った。


「だから、あなたはここまで来た」


「そこだけ、あなたに渡しません」


オスカーは、ようやく顔を上げた。


「僕は歩きたかった。でも、あなたの言葉で歩きたかったわけじゃない。あなたが見せた道に乗りたかったわけでもない」


石粉が布を押す。


オスカーは足を動かさず、手首だけで杖の角度を変えた。床の筋から外さないように、ゆっくりと。


「僕が欲しかったものを、あなたは分かった顔で持っていった」


「持っていったつもりはありません」


「持っていかれたんです」


オスカーの声に、苦さが混じった。


「僕が言えなかったことを、あなたが先に言った。僕が恥ずかしくて見ないようにしていた場所に、あなたが明かりを当てた。だから、救われた気がした」


サイモンは何も言わなかった。


「でも、違った」


オスカーは杖を握り直した。


「僕の足も、僕の悔しさも、姉さんの命も、父さんの命も、あなたたちの荷物じゃない」


扉の奥で、何かが擦れた。


サイモンの目が動く。


ノルの剣が入った。斬るためではない。サイモンの手と視線を、扉から切り離すためだった。


「聞こえただろ」


ノルが言った。


「もう、お前の言葉では動かない」


「届かない言葉などありません。あとから傷になるものもある」


「それは、お前が言うことじゃない」


ノルの剣が低く走った。


サイモンは半歩退く。針がもう一本出る。ノルは避けず、手甲で受けた。金具に細い傷が入り、針の先が折れる。


毒かもしれない。


だが、深くは入っていない。


サイモンが次を出すより早く、ノルの左手が袖を掴んだ。


布が裂ける。


内側から、細い針が数本落ちた。床に触れた針は、石粉の中へ半分埋もれる。


「備えが多いな」


ノルが言った。


「仕事ですから」


「人を殺す仕事を、そういう顔で言うな」


サイモンは腕を引いた。


ノルは追わない。追えば壁が空く。追えば扉の前が空く。


ミレイの矢が、ガロンの肩口をかすめた。


衣服の端が裂ける。


「次は当てる」


「今のは違うのか」


「警告」


ミレイは短く返した。


ガロンは後ろを見た。


通路の入口には、矢が三本刺さっている。低く一本、目の高さに一本、割れた敷石の横に一本。抜けられないわけではない。だが、その間に次が来る。


ガロンは状況を数えていた。


ラウルは片膝をついている。イレーネはニナに押さえられ、右腕だけで機会を探っている。サイモンは壁から離されている。白い扉は反応しているが、思った形では開いていない。


ここで粘っても、得るものはない。


ガロンの顔に、迷いは出なかった。


「ラウル」


ラウルの目だけが動く。


「引く」


イレーネが低く笑った。


「冗談でしょ」


「冗談を言う場面ではない」


「ここまで来て?」


「持ち帰るものがない場所で死ぬな」


イレーネの口元が歪む。


ニナはその隙を見なかった。挑発にも乗らない。ただ、布の絡んだ刃と、イレーネの手首を押さえている。


ミレイが言った。


「逃がすと思う?」


ガロンはミレイを見た。


「追えるのか」


その一言で、広間の空気が変わった。


白鹿側には負傷者がいる。


ガイの肩からはまだ血が落ちている。ニナの手も腕も傷だらけだ。ノルも針を受けた。オスカーは扉の前で杖を押さえている。エマは今すぐ治療に移りたいのに、まだ床と布を見ている。


追えば、誰かを置く。


追えば、扉の前が空く。


ガロンはそれを分かっている。


分かっているから、退くと言った。


エマは歯を噛んだ。


悔しさより先に、判断が来る。


ここで追えば、帰れない人間が出る。


白鹿は、そのために来たのではない。


「追わない」


エマが言った。


声が乾いていた。


ガイが低く息を吐く。


「正しい」


「座る準備をしないでください」


「……ばれたか」


「顔に出てます」


それ以上、ガイは言わなかった。


ラウルが動く。


膝をついたまま、床の粉を払う。隠していた細い刃を投げるのではなく、自分の血が落ちた場所へ擦りつけた。


ガイが踏み込もうとする。


その前に、扉の前で石粉が跳ねた。


オスカーの杖が沈む。


エマは反射で手を伸ばした。今度は止めない。オスカーの肩ではなく、杖の上から自分の手を重ねる。


「一緒に押さえる」


「はい」


二人の手の下で、杖がきしんだ。


流れが乱れる。


その一瞬に、ラウルは後ろへ退いた。ガロンの方へではない。柱跡の影へ。ガロンも同時に動く。ミレイの矢が飛ぶ。通路を塞ぐはずの一本が、ガロンの剣で叩き落とされた。二本目は肩をかすめる。三本目は、ラウルの足元へ刺さった。


ラウルは踏まない。


ガロンが片腕でラウルを引く。


イレーネが舌打ちした。


「私、まだ動けるんだけど」


「だから引く」


「腹立つ」


「生きてから言え」


ガロンはそう言って、ミレイの次の矢を避けずに受けた。肩の革に刺さる。深くはない。だが、足は止まらない。


ニナの前で、イレーネが急に力を抜いた。


押さえていた重さが消える。


ニナは乗らなかった。体を前へ倒さない。短剣を深く入れない。イレーネが抜けるために作った空白を、そのまま見送った。


イレーネの爪がニナの頬をかすめる。


浅い傷。


血が細く流れた。


ニナは瞬きもしなかった。


「またね」


イレーネが言った。


「いりません」


ニナは返した。


イレーネは笑い、ガロンの方へ跳んだ。着地は少し崩れた。左腕が遅れている。それでも、まだ動く。


ミレイが矢を番え直す。


ノルが短く言った。


「追うな」


ミレイの指が、弦にかかったまま止まった。


「分かってる」


分かっている。


それでも、矢を下ろすまでに少しかかった。


サイモンだけは、まだ退いていなかった。


彼は白い扉を見ていた。


エマとオスカーの手。杖。汚れた布。床の筋。覆われた血。落ちた針。


全部を、まだ使えるものとして見ている顔だった。


「エマ・ウォーカー」


サイモンが言った。


エマは顔を上げた。


ノルが遮ろうとする。


エマは杖に重ねた手を離さないまま、サイモンを見た。


「返してほしい人は、いるでしょう」


声は優しかった。


優しさの形だけをした刃だった。


「弟を返した。あなたはそれを知っている。父親も、もう一度――」


「やめろ」


ノルの剣が上がる。


サイモンは止まらない。


「扉は反応している。まだ完全には閉じていない。願いを持つ者が近くにいる。代価を用意できる者も」


エマの手の下で、杖が震えた。


オスカーのせいではない。


自分の手だった。


父の冷たい手。


床に落ちていた白く濁った石。


寝台の横の椅子。


握られていた指。


返してほしい。


その言葉は、あった。


胸でも喉でもない。もっと奥の、普段は見ないようにしている場所に、確かにあった。


エマは杖から片手を離した。


オスカーが一瞬こちらを見る。


エマは床へ膝をついた。


祈るためではない。


石粉の中に落ちていた小さな針を、布で包むためだった。サイモンの針。毒があるかもしれない。誰かが踏めば終わる。今、見るべきものはそれだった。


布を畳む。


端をねじる。


荷の中へ入れず、離れた石の上へ置く。


それから、エマはサイモンを見た。


「返してほしい人はいる」


声は震えなかった。


震えないようにしたのではない。


手を動かしていたら、声の置き場所が見つかった。


「でも、もう頼まない」


サイモンの目が、わずかに細くなる。


「それは強さではありません。ただ、取り返しがつかないものを見ないふりしているだけです」


「見ないふりなら、もっと楽だった」


エマは立ち上がらなかった。


床に膝をついたまま、言った。


「父さんを返してほしい。言えるなら言いたい。でも、そのために誰かを石の上へ乗せるなら、私は言わない」


サイモンは黙った。


「オスカーの足も、父さんの命も、私の命も、あんたが量るものじゃない」


オスカーの手が、杖を強く握った。


扉の奥で、また何かが擦れた。


けれど、さっきより音は細かった。


「父さんが戻らないことも、私が戻されたことも、オスカーがここにいることも」


エマは続けた。


「ここに置いていかない。でも、あんたには渡さない」


サイモンは、初めて笑わなかった。


ノルが踏み込んだ。


今度は、壁から離すためではない。


サイモンの退く先を潰す一歩だった。


サイモンは針を出せない。袖は裂かれ、仕込みは床に落ちている。壁に触れるには、ノルを越えなければならない。


サイモンの足が下がる。


そこへ、ミレイの矢が刺さった。


足元ではない。サイモンの背後、壁の亀裂のすぐ横。


「そこはだめ」


ミレイが言った。


ガロンが低く呼んだ。


「サイモン」


サイモンはエマを見ていた。


その目に、怒りはなかった。


代わりに、測るものを失った人間の空白があった。


「あなたは、また後悔します」


「する」


エマはすぐに答えた。


「たぶん、ずっとする」


サイモンの眉が、ほんのわずかに動いた。


「それでも?」


「それでも、あんたには渡さない」


扉の輪郭が、薄く揺れた。


オスカーが杖を引こうとする。


エマは短く言った。


「まだ」


「分かってます」


オスカーは杖を戻した。


今度は押さえるのではなく、床の筋をなぞるように置く。石粉の流れが布の端で割れ、扉へ向かう線が乱れる。そこへエマが厚い布を重ねた。スクロールではない。魔法でもない。ただの布だった。


それでも、床の白はまっすぐ進まなかった。


ガロンがサイモンの腕を掴んだ。


「引く」


サイモンは一拍だけ抵抗した。


「まだ――」


「ない」


ガロンの声は冷たかった。


「今ここに、持ち帰れるものはない」


サイモンは、ようやく扉から目を離した。


その瞬間、ノルが剣を振った。


斬るためではない。


サイモンの手から、最後の針を叩き落とすためだった。


細い銀が床へ落ちる。


サイモンは手を引いた。指の皮が浅く裂け、血が出る。


ノルは何も言わなかった。


言えば、こちらの怒りを渡すことになる。


サイモンは血のついた指を握り、ガロンに引かれて下がった。


ラウルとイレーネが通路へ入る。ミレイの矢が追う。だが、入口の石粉が崩れた。サイモンが触れた壁ではない。白い扉の反応に引かれた亀裂が、遅れて走ったのだ。


追う道と退く道の間に、粉が降る。


視界が切れた。


ガイが踏み出そうとして、肩を押さえた。膝が揺れる。


エマが叫ぶ。


「ガイさん、止まって!」


「止まってる」


「今、動いた」


「……動いたな」


「座ってください」


ガイは言い返さず、片膝をついた。


ミレイは矢を番えたまま、崩れた通路を睨んでいる。けれど、撃たなかった。敵の足音は、ひとつずつ遠ざかり、やがて石の奥へ紛れた。


追えない。


追わない。


その二つは似ているようで、違った。


ニナが、ようやくイレーネを押さえていた手を離した。


短剣は足元にある。拾おうとして、指が滑った。血と灰で、柄がうまく掴めない。


エマが行こうとする。


ニナは首を振った。


「自分で拾います」


声はかすれていた。


エマは止まった。


ニナは短剣を拾い、鞘へ戻した。刃についた白い汚れを払う余裕はなかった。鞘の中で、ざらりと嫌な音がする。


「あとで怒られますね」


「短剣に?」


「たぶん、手入れ係に」


「私も怒る」


「ですよね」


ニナは笑おうとした。


うまくいかなかった。


エマは今度こそ近づき、ニナの頬の傷を見た。布を当てる。ニナは逃げなかった。


「浅い」


「見た目より?」


「見た目通り」


「それ、安心できないです」


「あとでちゃんと見る」


「はい」


ガイが床に腰を下ろした。


座ったというより、立つ理由がなくなった途端、体が落ちたようだった。


ミレイが弓を下ろした。指先には、弦の跡が白く残っている。


ノルはまだ崩れた通路を見ていた。


サイモンたちは消えた。


だが、勝ったとは言えなかった。


白い扉は、まだそこにあった。


輪郭は薄くなっている。内側から押す形も、もう見えない。けれど、完全に消えたわけではない。壁の中に、傷跡のような線だけが残っている。


オスカーは杖を引いた。


布が床から離れる時、石粉が固まって剥がれた。巻いた布は、もう元の色が分からない。灰と血が混じり、ところどころ硬くなっている。


エマはそれを見た。


「替える?」


オスカーは布を見下ろした。


杖の先は削れている。布を外せば、また石を打つ音が戻る。歩くたびに、乾いた音が鳴る。


それは嫌ではなかった。


けれど、今はまだ外せなかった。


「このままで」


「汚れてる」


「はい」


「歩きにくいかも」


「あとで直します」


「今じゃなくていい?」


「今じゃなくていいです」


エマは頷いた。


それ以上、何も言わなかった。


扉の前には、いくつもの跡が残っていた。


矢の穴。剣が削った床。短剣を落とした跡。血を覆った布。杖先が押さえていた筋。


勝った場所ではなかった。


ただ、踏みとどまった跡だけがあった。


ノルがようやく振り返った。


「戻る」


その言葉に、誰も反対しなかった。


ガイが片手を上げる。


「肩を貸してくれ」


ミレイが近づき、ガイの反対側へ回った。


「立てる?」


「立つ」


エマはガイの肩口を見た。


「無理に歩かせません」


「助かる」


ガイはそれだけ言って、ミレイの腕を借りた。


ニナは短剣の柄を押さえながら立った。少しふらついたが、自分で足を戻す。エマが手を出す前に、小さく言った。


「必要になったら言います」


エマは手を引いた。


「分かった」


オスカーは最後に、白い扉を見た。


取っ手のない輪郭。


何かを返すような顔をした場所。


何かを奪うために待っていた場所。


そこに、もう手は伸ばさなかった。


服の内側で、祈り紐が熱を持って重く沈んでいる。オスカーは触れない。


杖をつく。


布を巻いた先が、石を打つ音を飲み込んだ。


一度。


足元の粉が、かすかに崩れる。


エマはオスカーの横に並んだ。


今度は、そこを間違えなかった。


ノルが灯りを上げる。


帰り道は、来た時より狭く見えた。


それでも、道はあった。


エマは荷を持ち直した。


「帰ります」


誰に向けた言葉でもなかった。


けれど、オスカーが小さく頷いた。


白い扉の輪郭は、灯りが離れるにつれて壁の影に沈んでいく。


最後まで、完全には消えなかった。


それでも、誰も振り返らなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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