第74話 無口な刃
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
サイモン・レック ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男
イレーネ・ヴォス 白鹿のギルドを襲撃した謎の女
ガロン・レイス ダンジョンでエマ達を襲撃した一人
ラウル・ゼイン 東水門で襲撃してきた一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
壁の奥で鳴った乾いた音は、一度で終わらなかった。
白い扉の左、柱跡の根元から細かな石粉が落ちる。床に積もった白の上へ、さらに崩れた粉が重なった。灯りを受けても光らない。ただ、そこだけが新しく崩れた場所だと分かる。
ノルが踏み出した。
サイモンは逃げなかった。身を引く代わりに、壁際へ沿って半歩ずれる。指先はもう石の筋から離れていた。触るべき場所は、すでに触り終えている。
ノルは剣先を下げた。
狙ったのは、サイモンの胸ではない。床と壁の境目。次に崩れるなら、そこだ。
サイモンの視線が、白い扉へ流れた。
オスカー。
亀裂。
ラウル。
短く、その順に。
「ガイ」
ノルが名を呼ぶより早く、ガイは動いていた。
ラウルの足が床を離れる。踏み込みというほど大きくはない。柱跡の影を使い、ガイの横を抜けるための一歩だった。刃は低い。倒すためではなく、膝を鈍らせるための刃。
ガイは剣で受けなかった。
柄尻でラウルの手元を押す。刃の角度が変わり、床を削った。乾いた音が走る。ラウルは音より早く次の足を置こうとした。
そこに、ガイの足があった。
「悪いな」
ガイは言った。
「そこ、俺の立ち位置だ」
ラウルは表情を変えない。
「退け」
「それ、二回目だ」
ラウルの刃が返った。
今度は速い。上からでも横からでもなく、ガイの剣を避けるように手首だけで差し込む。狙いは脇腹。浅くてもいい。血が出れば、ガイは一瞬だけ自分の体を見る。
ラウルの足は、その一瞬のために次の場所を探していた。
ガイは肩を落とし、脇を閉じた。刃が革鎧の端を削る。金具が鳴り、石粉が跳ねた。深くは入らない。だが、完全に外れたわけでもない。
ガイの口元から軽さが消えかける。
すぐに戻した。
「無口なわりに、手はよく喋る」
「必要なことだけだ」
「じゃあ今のは挨拶か」
「警告だ」
「感じの悪い挨拶だな」
二人の足は止まらなかった。
ラウルは押してこない。斬り合いで勝つ気なら、もっと重く踏み込むはずだった。狙いはガイではない。
白い扉。
あるいは、その前にいるオスカー。
空いた場所へ滑り込み、必要なものへ届く。それだけを選んでいる足だった。
ガイはそれを見ていた。
「お前、俺に勝つ気ないだろ」
ラウルの返事はなかった。
「返事くらいしろよ。間が読みにくい」
刃が来る。
ガイは今度だけ受けた。刃と刃が噛み、短い火花が散る。押し合いにはならない。ラウルは触れた瞬間に力を抜き、ガイの剣を滑らせて横へ出ようとする。
ガイは追わない。
追えば、道が空く。
代わりに剣の腹でラウルの肩を押した。強くはない。押されたラウルは逆らわず、さらに横へ流れる。その先には割れた敷石があった。
ラウルの靴が、粉の端を踏む。
沈まない。
その足場は読まれていた。
ガイの眉がわずかに動いた。
白い扉の前の床は、どこも同じではない。厚く積もった場所、薄く広がった場所、下に空洞を抱えた場所。サイモンが亀裂を動かしてから、足場の癖は変わり始めている。
ラウルは、その中で沈まない線だけを拾っていた。
「嫌な足してるな」
「褒め言葉として受け取る」
「会話、できるじゃないか」
「終わりだ」
ラウルの体が沈んだ。
ガイは正面を固める。だが、ラウルは正面へ来ない。低く沈んだ体が、ガイの剣の下を通る。肩口を狙うふり。実際は、その奥へ抜ける線。
エマの靴が布の上で動いた。
オスカーの杖の先が、床に押しつけられる。巻かれた布が石を叩く音を飲み込んだ。
「ガイさん」
オスカーが言った。
声は大きくない。けれど、届いた。
「左じゃない」
ラウルの目だけが動いた。
オスカーは続けなかった。杖の柄を握り、床に残った足跡を見ている。ラウルが踏んだ跡と、踏まなかった場所。左へ抜けるように見せて、奥側だけがまだ崩れていない。
ガイは考えなかった。
考える時間はない。
左じゃない。
なら、奥だ。
ガイは剣を引かず、柄を胸元へ寄せた。空いたように見える。ラウルはそこへ入る。白い扉へ向かう線が、そこに出たからだ。
次の瞬間、ガイの膝がラウルの進路へ落ちた。
蹴りではない。
柱のように置いた。
ラウルの刃が、ガイの肩を裂いた。革鎧の継ぎ目から血が出る。
エマが動きかけた。
ガイは振り返らない。
「来るな。今崩したら抜ける」
その一言で、エマは止まった。
止まりながら、布を取る。包帯を探る。スクロールではない。まだ使わない。今ガイを引けば、前が空く。傷を見るのは後だ。けれど、後になった時にすぐ押さえられるように、道具だけは手元へ寄せた。
ラウルの額に、初めて皺が寄った。
「ふざけるな」
「ふざけて見えるなら、お前の目が悪い」
ガイの声は低かった。
「そこは通さない」
ラウルは押した。
ガイは押し返さない。力で押し返せば、ラウルは別の線へ消える。だから、押されるまま半歩下がった。
ラウルの足がついてくる。
その足が、オスカーの見ていた粉の薄い場所へ乗った。
ガイはそこで、剣の柄をラウルの肘へ打ち込んだ。
鈍い音。
ラウルの刃がわずかに落ちる。それでも離さない。ガイは続けて肩で押した。斬るのではなく、重心を崩すために。
ラウルは耐えた。
耐えた分だけ、足が床へ沈む。さっきまで沈まなかった場所が、亀裂に引かれて薄く割れ始めていた。
靴底の下で、白が崩れた。
ガイはそれを待っていた。
剣が横へ走る。
ラウルは体を捻った。致命にはならない。だが、脇腹の革が裂け、血が床へ落ちた。
一滴。
二滴。
白の上で、血だけがやけに黒く見えた。
ラウルは声を漏らさない。
代わりに刃を逆手に持ち替える。深手を負った側をかばわず、使える場所だけで動こうとする。使えなくなったものは、最初からなかったことにするような動きだった。
ガイは目を細めた。
「お前、ほんと嫌な仕事の仕方するな」
「仕事だ」
「人間なら、痛い時くらい顔に出せ」
「必要ない」
「あるだろ」
ラウルの刃が、ガイの首へ来た。
ガイは剣で受けた。
今度は重い。
ラウルが初めて、抜けるためではなく、ガイを退かすために力を乗せた。脇腹から血が落ちても、腕の力は抜けていない。刃が噛み、金属が嫌な音を立てる。
ガイの肩の傷から、血が腕へ伝った。
手袋の内側へ入る。
柄が滑る。
ラウルは見逃さない。刃を押し込み、ガイの剣を外へ流す。指一本分、道が空いた。
その道へ、ラウルが入る。
ガイは剣を戻せない。
戻せば遅れる。
だから、剣から片手を離した。
ラウルの外套を掴む。
布だけだった。体ではない。けれど、それで足りた。
ラウルは外套を捨てる。留め具が弾け、布がガイの手に残った。ラウルの体は前へ出る。白い扉側へ、一歩。
エマの手が、革筒にかかる。
オスカーは動かなかった。杖を握ったまま、床を見ている。動けば、足場が乱れる。自分が前へ出れば、エマが止める。ガイが作った線が崩れる。
だから、見た。
粉。血。割れ。踏み替えるための場所。
「そこ、割れます」
叫びではなかった。
報告だった。
ガイが短く笑った。
「助かる」
ラウルの足が床を踏む。
沈んだ。
ほんのわずか。足を取るほどではない。だが、踏み替えの一拍が消えた。
ガイはその一拍を拾った。
手に残った外套を投げる。顔ではない。刃でもない。足元へ。布が石粉を巻き上げ、ラウルの視界の下を隠す。
ラウルは跳ばなかった。
分からない床へ、体を預けない。
ガイは踏み込んだ。
肩の傷が開く。血が落ちる。それでも、剣は遅れなかった。
ラウルの脇腹へ、今度は深く入る。
刃が革を割り、肉を裂いた。骨までは届かない。だが、次の踏み込みを奪うには十分だった。
ラウルの膝が落ちる。
ガイは追撃しなかった。
追えば、殺せるかもしれない。
だが、ここは白い扉の前だった。血を増やす場所ではない。止める。それでいい。
ラウルは片膝をついた。片手で床を押さえ、もう片方の手で刃を構えている。まだ動ける。けれど、抜ける速さは消えた。
ガイは剣先を下げない。
「悪いな」
肩で呼吸しながら、それでも声だけはいつもの形に戻す。
「今日は、俺の方が先にそこへいた」
ラウルはガイを見上げた。
怒りも悔しさもない。ただ、使える手が一つ減ったことだけを確かめている。
「お前は、邪魔だ」
「よく言われる」
「誇ることではない」
「今は誇る」
ラウルの刃が動きかけた。
その前に、粉が噴いた。
上からではない。
床の下から、ふっと白が吹き上がった。
ガイの視線が白い扉へ流れる。
取っ手のない輪郭が、濃くなっていた。壁に描かれた跡のようだったものが、内側から押されているように膨らんで見える。
「ノル!」
ミレイの声が飛ぶ。
ガロンが動いた。
ミレイの矢がその前に刺さる。一本ではない。二本目がすぐ横へ入り、ガロンの踏み込みを斜めに切った。
「そこから先は貸してないわよ」
ガロンは足を止めた。
止められたというより、止まることを選んだ。視線はミレイではなく、白い扉へ向いている。
「サイモン」
低い声だった。
サイモンは答えなかった。
ノルが、その前に入っている。
剣先はサイモンの喉ではなく、手元へ向いていた。壁の亀裂に触れさせない位置。サイモンが半歩ずれれば、ノルも同じだけずれる。
「また崩す気か」
ノルが言った。
「崩れるものを、崩れる前に使うだけです」
「人の足元でやるな」
「足元を見ない人間から落ちる」
「見ている人間を落とすために床を変える男が、よく言う」
サイモンの目が細くなった。
測った場所に、ノルが先に手を置く。それが気に入らないのだろう。ほんのわずか、口元から作った穏やかさが消えた。
「白鹿は、まだ全員を立たせるつもりですか」
「お前が倒すつもりならな」
「疲れるでしょう」
「慣れている」
「慣れない方がいい」
「お前に言われる筋合いはない」
ノルが一歩出る。
サイモンは下がらない。
その足元で、亀裂がまた鳴った。
今度は、白い扉のすぐ前だった。
オスカーの杖の先に巻かれた布が、床の白を押さえている。布は汚れていた。石粉、灰、血。誰のものか分からない赤が端に滲んでいる。
エマはそれを見た。
次に、オスカーの足元を見た。
「下がる?」
命令ではなかった。
オスカーは首を振らない。うなずきもしない。ただ、杖を持つ指を結び直した。
「ここにいます」
エマは何か言いかけて、止めた。
代わりに厚い布をもう一枚、オスカーの後ろへ滑らせる。逃げるためではない。踏み外した時、足が落ちる場所を少しでも減らすためだった。
「分かった」
エマはそれだけ言った。
ガイがラウルから目を離さずに言う。
「こっちも後で頼む」
「立っていられる人は後ろ」
「厳しいな」
「倒れたら、もっと後ろ」
「それは困る」
軽口は薄かった。声の底に痛みが混じっている。それでも、ガイの剣先は揺れなかった。
ラウルはまだ動く。
イレーネは押さえられている。だが、爪も腕も完全には死んでいない。
ガロンはミレイの矢の外で、次の踏み込みを測っている。
サイモンの指は、もう壁から離れている。
それでも、白い扉の輪郭は揺れていた。
内側から、何かが触れたように。
石粉が床の上を薄く走る。その流れが、オスカーの杖先の布に触れ、そこで乱れた。
オスカーは杖を動かさなかった。
動かせば、足元の線が崩れる。
そう思ったのかどうか、エマには分からない。ただ、オスカーはそこにいた。
自分の足で。
杖を持ったまま。
白い扉の前で。
サイモンの視線が、その姿へ向いた。
「よく立っていますね」
穏やかな声だった。
オスカーの顔が強張る。
エマが半歩前へ出るより早く、ノルの剣がサイモンの視線を切った。
「見るな」
「見るだけです」
「お前のそれは、触るのと変わらない」
「過大評価です」
「違うな」
ノルの声が低くなる。
「お前は、人の傷に指を入れる。血が出るまで、優しい顔でな」
サイモンは黙った。
その沈黙の中で、白い扉が鳴った。
扉ではない。
壁でもない。
骨を薄く削ったものが、内側から擦れるような音だった。
ラウルが膝を立てる。
ガイの剣先が、わずかに扉へ向いた。
「……おい」
その声から、軽さが消えていた。
「今のは、聞かなかったことにしていい音か?」
誰も答えなかった。
ミレイの矢が、弦の上で止まっている。
ガロンも動かない。
イレーネの笑みも消えていた。
サイモンだけが、ほんのわずかに目を伏せた。
ノルはそのわずかな動きを見た。
「お前にも読めていないな」
サイモンは答えない。
白い扉の輪郭が、内側から押されたように、また歪んだ。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




