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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第73話 刃のない距離

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟 生まれつき足に障害がある

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 

サイモン・レック     ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男

イレーネ・ヴォス     白鹿のギルドを襲撃した謎の女

ガロン・レイス      ダンジョンでエマ達を襲撃した一人

ラウル・ゼイン      東水門で襲撃してきた一人


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。

「まだ、終わってません」


ニナの声は、白い粉の上に落ちた。


短剣は床にある。手を伸ばせば届く。膝を落とし、体を低くすれば、柄は指にかかる。けれど、その分だけ首も肩も空く。


イレーネは、そこを待っている。


だから、ニナは拾わなかった。


右手を開いたまま、半歩だけ前へ出る。靴底の下で、白い石粉と灰が擦れた。苦い匂いが喉の奥に残っている。


イレーネは鉤刃を構えたまま、笑い損ねたような顔をした。


「刃を捨てて、勝てるつもり?」


「捨ててません」


ニナは床を見なかった。


「そこにあります」


「拾わせると思う?」


「今は、拾いません」


イレーネの目が細くなる。


足が動いた。


右へ逃げるように見せて、左の柱跡を使う。さっきまでなら、そうだった。ニナは顔を見ない。肩も見ない。刃も追いすぎない。白い粉に残る足跡と、沈む深さを見る。


イレーネは来ない。


ニナが踏み込むのを待っている。短剣を拾いに行くのを待っている。


ニナは拳を握った。革手袋の縫い目に灰が入り、指の間がざらつく。六階層で震えていた手だった。短剣を握っていても、あの細い針を止めきれなかった手だった。左腕が遅れ、体が自分のものではなくなっていく感覚を、まだ覚えている。


覚えている。


なら、同じ使い方はしない。


イレーネの爪が横から入った。


ニナは左腕を出さなかった。右肩を沈め、腕当ての硬い部分で刃を受ける。金具が鳴る。押される前に、体を寄せた。


近すぎる距離だった。


イレーネの鉤刃は、引っかけて裂くにはいい。動いている相手の隙間へ入れるには速い。けれど、胸元まで詰められると、刃の長さが邪魔になる。


イレーネの眉が動いた。


「近いって言ったでしょう」


ニナは返事をしなかった。


返事の代わりに、右の拳を打ち込んだ。顔ではない。腹でもない。鉤刃を留めている手首の下。革紐と金具の継ぎ目。イレーネが爪を返す時、わずかに開く場所だった。


鈍い音がした。


イレーネの腕が跳ねる。刃は落ちない。だが、角度が崩れた。


ニナは追わない。


追えば、また逃げられる。


イレーネの足は、後ろの灰の膜へ下がろうとしていた。自分で撒いた粉の上。普通なら、使い慣れている者の方が有利な場所だ。


けれど、白い石粉と混じった灰は、さっきニナが刃で払った筋のところだけ濃く残っている。


そこを踏めば滑る。


イレーネは気づいている。だから、踏む前に横へ逃がす。


ニナはその横へ、足を置いた。


蹴らない。斬らない。ただ、行き先に立つ。


イレーネの口元から、笑みが消えた。


「あなた、嫌な子になったわね」


「たぶん」


「否定しないの」


「今、そこに使う余裕がないです」


イレーネの爪がまた動いた。


今度は低い。足首を狙う刃だった。ニナは避けきれないと判断し、足を引く代わりに前へ詰めた。爪の先が靴の革を削る。足の甲に薄い痛みが走ったが、深くは入らない。


近づいた分だけ、イレーネの肘が詰まる。


ニナは肩で押した。


体格では勝てない。力でも勝てない。相手が動こうとした瞬間に、こちらの重さをぶつけるしかない。


イレーネの背が、柱跡に近づいた。


ほんのわずか。


それで十分だった。


イレーネはすぐに気づき、横へ抜けようとする。ニナは追わない。床の短剣へ視線を落とすふりだけをした。


イレーネの足が、短剣の柄へ向いた。


蹴る気だ。


短剣を遠くへ飛ばす。ニナに拾わせない。あるいは、蹴った柄でエマの荷を乱す。それだけで後ろの動きは崩れる。


ニナは短剣ではなく、その先を踏んだ。


イレーネの靴が柄に触れる前に、ニナの靴底が刃の根元を押さえる。金属が床で小さく鳴った。イレーネの足は、蹴る先を失った。


「それは、私のです」


イレーネが舌打ちした。


勝てると思ったわけではない。


ただ、その音は聞こえた。


ニナの足が、ほんの少しだけ前へ出た。


広間の右で、矢が石を叩いた。


ミレイの声が飛ぶ。


「ガロン、そこ足を置いたら次は膝よ」


「よく喋る弓だ」


「口が動くうちは手も動くの」


その先で、ガロンの剣が床を削った。白い粉が斜めに跳ねる。ミレイは下がらない。


左では、ガイとラウルの刃が鳴った。


「お前、ほんと無口だな」


「必要がない」


「俺の相手をしてる時点で、少しは必要だろ」


「ない」


「会話が育たない」


ガイの声は軽い。けれど、足は一歩も余計に出ていなかった。ラウルが扉へ向かう角度を作ろうとするたび、先に体を置いている。


ノルは、まだサイモンを見ていた。


ニナはそこまで拾って、すぐ前へ戻した。


拾いすぎるな。


今、自分の前にいる相手を逃がせば、後ろへ行く。


エマの方へ。


オスカーの方へ。


白い扉の方へ。


イレーネは、それを分かっている顔で笑った。


「気になる?」


ニナは答えなかった。


「みんな忙しいわね。あなたが少し退けば、こっちは仕事が早く済むのに」


「退きません」


「そう言う子ほど、最後に横を抜かれるのよ」


「なら、横も見ます」


「前が空くわ」


「前は、エマさんが見ています」


イレーネの目が、一瞬だけ後ろへ流れた。


エマは動いていなかった。


動いていないのに、何もしていないわけではなかった。床に置いた布の位置を変え、油袋を蹴られない場所へ寄せ、スクロールの革筒を腰ではなく手元に移している。オスカーの立つ場所の後ろには、厚い布が一枚広げてあった。


エマは前に出ていない。


けれど、ニナが下がる場所を作っている。


イレーネもそれを見た。


「本当に、嫌な組み合わせ」


「助かります」


「褒めてないわよ」


ニナは返さなかった。


右手を開き、また握る。


イレーネがその指を見た。


左ではなく、右。


狙うなら右を潰す。そう考えた目だった。


来る。


ニナは短剣を踏んだまま、体を半分だけ引いた。イレーネの鉤刃が、右手を狙って落ちる。


速い。


避けきれない。


ニナは拳を引っ込めず、逆に手を開いた。刃を掴むのではない。刃の根元、金具の外側に手のひらを当てる。革手袋が裂け、手のひらに熱い線が入った。


痛みが走る。


だが、刃の向きは変わった。


鉤刃はニナの手を裂ききれず、腕当ての縁を滑る。ニナはそのまま体を落とし、肩をイレーネの胸元へぶつけた。


二人の体が柱跡へ寄る。


イレーネが膝を上げる。


ニナは受けた。腹に鈍く入る。視界の端が白くなりかける。それでも、短剣を踏んだ足は離さない。


「しつこい」


イレーネの声が近い。


「はい」


「そこは否定しなさいよ」


「今、嘘をつく余裕がありません」


短剣はまだ床にある。


刃を拾えば、きっと楽になる。握れば、戦っている形になる。前に出ている自分を、自分でも信じやすくなる。


でも、今の距離で短剣を拾えば負ける。


ニナは踏んだままの短剣を、靴底で押した。金属が白い粉を削り、柄がわずかに回る。


イレーネの足元へ、刃先が向いた。


イレーネが気づいて足を引く。


その一瞬、膝が外へ開いた。


ニナはそこへ自分の足を入れた。


絡めるほど上手くはない。ただ、イレーネが下がる線を塞ぐだけ。イレーネは体を逃がそうとして、後ろの灰の筋を踏んだ。


靴が滑った。


わずかなずれ。


だが、上体が柱跡へ流れた。


ニナは、そこで初めて左腕を使った。


受けるためではない。


イレーネの外套の端を、肘で押さえるためだった。指では握らない。握れば力が要る。肘で布を柱跡へ挟む。逃げる体に、布一枚分の遅れが生まれた。


イレーネの顔が変わった。


「離しなさい」


ニナは歯を噛んだまま、さらに体を寄せた。


イレーネの右の鉤刃が肩へ落ちる。


ニナは避けない。


避けずに、右足で床の短剣を蹴り上げた。拾うのではない。柄を跳ね上げる。回った柄がイレーネの足首へ当たり、重心がさらに崩れた。


刃がニナの肩を深く裂く前に、軌道がずれる。


布が切れる。


皮膚も裂ける。


それでも、腕は動く。


ニナは右手を伸ばし、落ちかけた短剣の柄を掴んだ。


握った。


今なら使える。


イレーネの目が細くなる。


ニナは斬らなかった。


短剣の刃を、イレーネの喉ではなく、床へ突き立てた。


鉤刃の革紐を、床に縫い止めるように。


金属が石の隙間へ噛んだ。革紐が引かれ、イレーネの右腕が一瞬持っていかれる。無理に引けば、腕ごと開く。


イレーネは左の爪を動かした。


その前に、布が広がった。


エマだった。


投げたのではない。ニナが押し込んだ位置に合わせ、床へ置いていた厚い布を滑らせたのだ。布は刃の根元に絡み、爪の角度を鈍らせる。


刃は止まらない。


ただ、遅れた。


ニナには、それで足りた。


肘を入れる。


イレーネの腕と胴の間。爪を返すために必要な隙間へ、体ごと押し込む。


イレーネの背が柱跡にぶつかった。乾いた石が鳴り、白い粉が落ちる。


膝が折れた。


ニナは短剣の柄から手を離さず、もう片方の手で布の端を引いた。手のひらの傷が開き、布に赤い筋がつく。


イレーネは笑おうとした。


笑えなかった。


「……腹立つ」


「私もです」


ニナは荒れた息を押さえながら言った。


「あなたのこと、ずっと腹が立ってます」


「なら、もっと早く来ればよかったのに」


「行ったら、喜んだでしょう」


イレーネは、そこで少しだけ笑った。


「そこは、正解」


ニナは短剣をわずかに動かした。革紐がさらに締まり、鉤刃の角度が潰れる。


「動かないでください」


「動いたら?」


「もう一回、柱にぶつけます」


イレーネは、灰と汗と白い粉で汚れたニナの顔を見た。


切れた袖。手のひらから落ちる血。完全には止まっていない膝の震え。


それを見て、イレーネの笑みが薄くなる。


「怖がってる顔じゃないわ」


「顔まで回りません」


ニナは言った。


「前は、見てなかったんです」


短い言葉だった。


けれど、ニナ自身には、それで十分だった。


六階層の暗がり。灯りを探した目。助けが来る方ばかり見ていた自分。足元も、刃も、逃げ道も、ほとんど見えていなかった。


「今日は、足元を見ました」


イレーネは返さなかった。


右側で、太い音がした。


ガロンが一歩踏み出し、ミレイの矢を靴底で折った音だった。


「遊びすぎだ」


ガロンの声が落ちる。


ミレイは次の矢を番えたまま、口元だけを歪めた。


「そっちが一歩ずつ律儀に踏むから、付き合ってるのよ」


その瞬間、ラウルが左から動いた。ガイの脇を抜け、白い扉の方へ角度を作る。ガイは剣をぶつけず、肩で道を消した。


「はい、通行止め」


ラウルの刃が返る。


ガイの外套が裂けた。


血は見えない。だが、布の下で何かが削れた音がした。


「今のはちょっと痛い」


「退けと言った」


「やだね。俺も今日は似たような返事ばっかり聞いてるから、移った」


ガイは笑っていなかった。


ノルの視線は、サイモンから離れていない。


サイモンは、イレーネが押さえられたのを見ても、顔を大きく変えなかった。驚いたのではない。惜しい手を一つ失った、とでもいうように、場の形だけを見ている。


そして、白い扉へ目を向けた。


ほんの一瞬。


ノルの剣先が動いた。


「そこじゃない」


サイモンの足が止まる。


ノルは踏み出していない。だが、剣の先だけが、サイモンの進むはずだった白い粉の筋へ落ちていた。壁際の亀裂。柱跡の影。白い扉へ向かう、一番細い線。


「一人減ったから動けると思ったか」


サイモンはノルを見た。


「減った、という言い方は好みませんね」


「お前がそれを言うのか」


ノルの声には、熱がなかった。


熱がないから、怒りが消えたわけではないと分かる。


サイモンは少しだけ首を傾けた。


「なら、失礼しました」


「謝るな」


ノルは剣先を上げた。


「軽くなる」


サイモンの指が動いた。


小さな動きだった。袖の内側で、何かを弾くような仕草。ノルはそれより先に踏み込んだ。


刃が鳴る。


サイモンは剣を抜いていない。指の間で、細い針のようなものが灯りを拾った。


ニナの体が固まりかけた。


灯りを横切った細い線。


左腕から力が抜けた感覚。


暗がりで、自分の体が遅れていく恐怖。


イレーネがそれを見た。


「ほら」


押さえられたまま、囁くように言う。


「そっちを見るでしょう」


ニナはイレーネから目を離さなかった。


手のひらの血が、短剣の柄を濡らしている。肩も痛い。腹も重い。左腕は熱を持っている。


それでも、今は離さない。


「見てます」


ニナは言った。


「でも、手は離しません」


イレーネの口元が、わずかに歪んだ。


その時、エマがニナの横へ膝をついた。


前へ出るためではない。今すぐ手当てするためでもない。イレーネの左の刃に絡めた布が緩まないよう、端を踏むためだった。


「ニナ」


「まだです」


ニナは言った。


エマは短く返した。


「分かってる」


それだけでよかった。


分かっている。


今すぐ傷を見たいのに、見ない。怒りたいのに、抑えている。ニナが前を見ている間、エマは床と布と荷を見ている。


ニナは短剣の柄を握り直した。


イレーネの右腕はまだ使える。左も完全には止まっていない。殺すつもりでいれば、もっと簡単だったのかもしれない。けれど、そうすれば後ろが乱れる。白い扉の前で血を増やせば、ダンジョンが何を拾うか分からない。


止める。


それでいい。


「イレーネ」


ガロンの声が飛んだ。


イレーネは目だけを動かす。


「動けるか」


「聞かないでよ」


「答えろ」


「今は無理」


吐き捨てるような声だった。


ニナの肩から、わずかに力が抜けた。


倒したわけではない。


勝ったと言うには、まだ広間全体が危うい。


イレーネの爪も、腕も、完全には死んでいない。布と短剣と柱跡で、かろうじて押さえているだけだ。


それでも、白い扉へ抜ける足は止まっていた。


その事実だけが、白い粉の上に残った。


サイモンが、小さく息を吐いた。


「予定より、早い」


ノルが剣を構え直す。


「予定があるなら、ここで崩せ」


「そうします」


サイモンの声は静かだった。


次の瞬間、壁の奥で乾いた音がした。


大きくはない。


だが、ノルの目がすぐにそこへ走った。白い扉の左側。柱跡の根元。さっきからサイモンが何度も視線を置いていた場所。


細い亀裂が、白い粉を落としていた。


ノルは動いた。


サイモンも動く。


二人の間で、灯りが細く揺れた。


ニナはイレーネを押さえたまま、その光だけを見た。短剣の柄に血が滲み、床の白い粉へ一滴落ちる。


エマの靴が、布の端を踏み直した。


オスカーの杖の先が、白い扉の前で止まっている。


誰も、助けには来ない。


それでも、誰の足も止まっていなかった。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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