第71話 白い扉
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足に障害がある
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
サイモン・レック ダンジョンでエマ達を襲撃した謎の男
イレーネ・ヴォス 白鹿のギルドを襲撃した謎の女
ガロン・レイス ダンジョンでエマ達を襲撃した一人
ラウル・ゼイン 東水門で襲撃してきた一人
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
白鹿の館から戻ったエマは、オスカーに白骸晶と祈りの間のこと、そして自分がもう一度ダンジョンへ向かうことを話す。
オスカーは、自分も行くと言った。戦うためではなく、自分の願いをサイモンたちに利用されたまま終わらせないためだった。エマは迷いながらも、オスカーを一方的に止めることはしなかった。
二人はローワンに別れを告げる。白鹿の館では、ケインとノルが条件を示し、オスカーの同行を認めた。夜明け前、ノル、ガイ、ミレイ、ニナ、エマ、オスカーの六人は、封鎖されたダンジョンへ向かった。
白い扉の輪郭が見える前に、ノルが足を止めた。
壁際の白い粉の上に、靴跡が残っていた。
こちらのものではない。
ノルは膝をつき、灯りを低くした。乾いた粉の上に、踏み込んだ跡が二つ重なっている。端は崩れていない。古いものではなかった。
「いるな」
ガイが奥を見た。
「なら、当たりか」
「正面を閉じた意味はあった」
ノルは立ち上がった。
エマはその言葉で、監視所の封鎖札を思い出した。新規入場停止。戻りの隊以外は入れない。白鹿の確認隊だけを通す。関係のない探索者は、もうここにはいない。
それでも奥に誰かがいる。
なら、迷う必要はなかった。
ニナが足元を見たまま、低く聞いた。
「敵、ですか」
「敵か、少なくとも正面から入れない理由を持つ者だ」
ノルは靴跡の先を見た。
「関係ない者なら、監視所で止まっている。通らずにここにいるなら、そういうことだ」
灯りの輪から少し外れたところで、オスカーの杖の先が止まっている。石を叩く音はしなかった。握られた杖の柄だけが、わずかに軋んだ。
「オスカーが運び出された時」
ノルは言った。
「神殿関係の搬送補助は、戻っていない」
オスカーが顔を上げた。
「戻っていない?」
「入った記録はある。だが、出た記録はない。死体も、捕縛者も、監視所には戻っていない」
ノルの声は硬かった。
「あの時は、オスカーとエマを運び出すので手一杯だった。帳面の穴まで追う余裕はなかった」
誰も責めなかった。
あの時、優先すべきものは決まっていた。エマとオスカーの命。ローワンの行方。崩れかけた道。血の匂い。
帳面の空白は、そのあとに残された。
ミレイが壁際へ近づき、靴跡の向きを見た。
「入口か出口か、どっちかを帳面の外に持ってるわけね」
ガイは軽口を返さなかった。
「抜け道か」
「あるいは、ダンジョンが変わる場所を知っている」
ノルは奥へ灯りを向けた。
「どちらにせよ、封鎖は破られていない。破る必要がなかったんだ」
エマは喉の奥が乾くのを感じた。
封鎖は、敵を止めるためだけではなかった。
無関係な探索者を外へ置き、ここにいる者の意味を絞るためでもあった。
この先にいるなら、偶然ではない。
サイモンたちは、監視所をだまして入っただけではない。帰る道まで、こちらの知らない場所に持っていた。
オスカーは服の内側へ手をやりかけて、途中で止めた。祈り紐には触れない。代わりに、杖の柄を握り直す。
「僕たちが通った道じゃない」
声は小さかった。
「でも、あの人たちは戻れたんですね」
その言葉は、ただ逃げたという意味ではなかった。
オスカーを置き、エマの腕から弟を奪い、ローワンを穴の底へ落としたあとで、彼らは自分たちの道だけを残していた。
ニナの指が、短剣の柄に触れた。
「じゃあ、追い詰めたと思っても、逃げられる」
「そうだ」
ノルは短く答えた。
「出口を塞ぐことだけを考えれば、祈りの間で遅れる。祈りの間だけを見れば、退き道を使われる」
「嫌な相手ね」
ミレイが矢筒の留め具を確かめた。
「最初から知ってたみたいに動く」
「知っていた分だけ使ったんだろう」
ノルは奥の闇へ灯りを向けた。
「相手は退き道を持っている。追い詰めたと思うな」
ガイがようやく口を開いた。
「なら、逃げる前に殴る」
「お前は前半だけ聞くな」
「後半はノルが聞いてる」
「聞け」
短いやり取りだった。
けれど、空気は緩まなかった。
エマは奥を見た。灯りの届かない先で、乾いた石粉がかすかに動いた気がした。
ダンジョンは、昨日と同じ顔をしていない。
そして敵は、その変わる顔の一部を、こちらより先に知っている。
広間の奥から近づいてくる足音は、ひとつではなかった。
石を踏む音。布が擦れる音。金具がかすかに鳴る音。どれも小さい。けれど、無関係な探索者を閉め出したダンジョンの奥から聞こえてくるには、十分すぎるほどはっきりしていた。
ノルは灯りを下げたまま、身じろぎもしなかった。
ガイは正面の柱跡に半身を隠している。大きな体なのに、影の中へ沈むのがうまい。ミレイは右側の細い通路へ弓を向け、矢を指に挟んでいた。まだ番えない。弦を鳴らさないためだった。
ニナは左の割れた床のそばにいた。
短剣には触れている。けれど抜かない。
エマは後方で、並べた道具の位置を確かめた。布。薬。スクロール。水袋。封じ布。油袋は少し離してある。粉の上に、どれも静かに置かれていた。
広間の奥には、取っ手のない白い扉の輪郭だけが浮いている。
オスカーはエマの少し前に立っている。
杖の先には、ニナが巻いた布がある。音を抑えるためのものだった。完全には消えない。それでも、今はその小さな布一枚が、余計なものを呼ばないための線になっていた。
足音が止まった。
向こう側に、人影が現れた。
最初に姿を見せたのは、サイモンだった。
粉をかぶった外套の裾が、歩くたびにかすかに揺れる。顔には疲れがある。だが、声を出す前から、その目だけは乱れていなかった。こちらの誰かが息を詰める瞬間を、すでに知っているような目だった。
その後ろに、ガロンが立つ。
大きな体が柱の間に入っただけで、広間の幅が少し狭くなったように見えた。剣は抜いていない。抜かなくても足りると分かっている者の立ち方だった。
反対側の影から、ラウルが出た。
ガイが、ほんの少し顎を上げた。
「よく来るな」
軽く言ったつもりなのだろう。けれど、声は低かった。
ラウルは目だけを動かす。
「待っていたのだろう」
「まあな。待つのは嫌いじゃない。相手がもう少し面白ければ、もっとよかった」
「口は変わらないな」
「そこを褒められるとは思わなかった」
ガイは笑わなかった。
最後に、イレーネが柱の陰から姿を見せた。彼女は周囲より先に、奥の輪郭へ目をやった。それから広間に立つ六人を順にたどり、最後にオスカーで止めた。
「あら」
その一言だけで、空気の表面が嫌な形に撫でられた。
「壊れて終わりじゃなかったのね」
エマの手が、革筒の紐を握った。
動くな。
自分に言い聞かせるより早く、ノルが半歩だけ前へ出た。
「そこで止まれ」
サイモンは素直に足を止めた。
「白鹿の方が先でしたか」
「封鎖中だ。正面からは誰も入れない」
「だから、正面からは来ていません」
そう言って、サイモンは奥の輪郭へ視線を流した。
「この場所は、人の決めた道だけで閉じられるほど素直ではありませんから」
ノルの目が細くなる。
「抜け道を使ったか」
「道と呼べるほど、まともなものではありません」
「答える気はないわけだ」
「聞きたいことは、それではないでしょう」
サイモンは、そこでオスカーへ向き直った。
オスカーの指が、杖の柄を握り直す。
サイモンはやわらかく言った。
「歩けるようになったんですね」
誰も、すぐには声を出さなかった。
粉の上で、その言葉だけが沈まずに残った。
サイモンは続ける。
「よかったではありませんか。望んだ形かどうかは、別として」
オスカーは答えなかった。
杖の先が、床に軽く触れる。布を巻いてあるせいで、音はほとんどしない。その静けさが、かえって苦しかった。
エマは一歩出そうになった。
その前に、オスカーが小さく言った。
「姉さん、待って」
声は大きくない。
けれど、エマの足は止まった。
オスカーはサイモンから目を逸らしていない。睨み返しているわけではない。強い顔でもない。立っているだけで、やっとのようにも見えた。
それでも、エマの後ろへは下がらなかった。
サイモンは少し首を傾けた。
「止めるのですか」
オスカーは、すぐには答えられなかった。
沈黙が落ちる。
サイモンは急かさなかった。オスカーが言葉を探している間も、目を逸らさない。待つことに慣れている顔だった。
「無理に言葉にしなくても構いません」
サイモンは言った。
「立てるようになっただけで、十分に大きな変化ですから」
「その先を言うな」
ノルの声が低くなった。
サイモンはノルへ顔を向ける。
「あなたが止めますか」
「必要なら」
「前より、準備がいい」
「前に学んだからな」
ノルの手が剣の柄へ落ちる。
サイモンの指先が、ほんのわずかに動いた。
ノルはそれを拾っていた。
「そこはもう見ている」
柱の根元に、浅い亀裂が入っている。自然に割れたものではない。表面だけを叩き、少し遅れて崩すための傷に似ていた。
サイモンの顔は変わらなかった。
ただ、指が止まった。
ガロンが低く言った。
「長く話すな」
サイモンは目を伏せるようにして、半歩下がった。
「分かっています」
ガロンは奥の輪郭を見た。
「中か」
「おそらく」
「おそらくで動くには、もう遅い」
「前回よりは、確かです」
その言葉に、オスカーの肩がわずかに揺れた。
イレーネが笑う。
「前回ね。便利な言い方」
ミレイが矢を番えた。
「そこから先へ出たら、撃つ」
「弓の子はせっかちね」
「待つのは苦手なの」
「そうは見えないけど」
「あなたが動くのを待ってるだけ」
イレーネの目が、ミレイからニナへ移った。
「あなたも、またいるのね」
ニナは答えなかった。
「前より顔が硬いわ。怖い?」
「怖くないとは言いません」
ニナの声は、少し低かった。
震えを隠すためではない。余計なものを落とした声だった。
「でも、今はそれで止まりません」
イレーネの笑みが深くなる。
「いいわね。そういう子、嫌いじゃない」
「私は、好きになれそうにないです」
「それでいいわ。好きになられたら、やりにくいもの」
イレーネは笑ったまま、奥へ目を戻した。
その時だった。
オスカーの服の下で、何かがわずかに沈んだ。
光はない。
音もない。
けれど、オスカーの指が反射のように胸元へ行きかけた。途中で止める。自分で。
それでも、遅かった。
イレーネの目が細くなる。
「ねえ」
声の調子が変わった。
「今、そこだけ動いたわよ」
オスカーは息を呑んだ。
エマの体が前へ出かける。
ニナが、その前に半歩動いた。
イレーネは奥を見ていなかった。白い石も、まだ見えていない。それでも、反応したものを見逃さなかった。意味までは知らなくても、それが隠したいものだと分かれば十分だった。
「あの石のそばにいた子って、ほんと便利ね」
その言葉は、刃より先に届いた。
エマの喉の奥が熱くなる。
ガロンは動かない。ラウルも、ガイから目を外さない。サイモンは黙っている。ただ、その沈黙だけが、イレーネの言葉を止めない選択に見えた。
イレーネが一歩踏み出した。
奪いに来たというより、試すような一歩だった。
オスカーが引くか。白鹿がどこで遮るか。イレーネは、その反応だけを見ていた。
ニナは待った。
短剣を抜かない。
先に斬りに行かない。
イレーネの視線が、オスカーの顔ではなく胸元へ落ちた瞬間、ニナは前へ入った。
腕当てを上げる。
イレーネの爪が、金具の上をかすめた。
粉が細く散る。嫌な音がして、ニナの膝が一瞬沈んだ。
それでも、退かなかった。
「見るところ、そこじゃないでしょう」
イレーネは、ようやくニナだけを見た。
「なら、先にあなたね」
扉の前で、ニナは短剣を抜いた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




