第69話 残った杖
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足に障害がある
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマに治療を教えた
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
エマは自宅の寝室で目を覚ます。けれど、そばで手を握っていたローワンは、もう動かなかった。
床には、白く濁った石片が残されていた。ローワンは白骸晶を使い、自分の命と引き換えにエマを戻したのだと、エマたちは悟る。
オスカーは、ローワンから「エマを頼む」と言われていた。その言葉は、かつてミラがエマに残したものと同じ重さを持っていた。エマとオスカーは、ローワンの冷たくなった指を、二人でそっと外した。
帰された朝、ウォーカー家には泣き声も叫びもなかった。ただ、握られていた場所だけが、急に寒くなっていた。
家へ戻る馬車の中で、エマは何度も手を開いた。
握っているものはなかった。地図も、荷紐も、スクロールの革筒もない。ローワンに握られていた跡も、見た目には残っていない。
それでも、指を動かすたびに、そこだけが遅れてついてくる気がした。
向かいに座ったマルタは、窓の外を見ていた。話しかける顔ではなかった。エマが返事を探してしまうと分かっていて、何も言わずにいてくれる顔だった。
オスカーには、私から話します。
白鹿の館で自分が言った言葉が、馬車の揺れに合わせて戻ってくる。
話すことは多い。白骸晶。祈りの間。敵がまた潜るかもしれないこと。白鹿が先に動くこと。自分も行くと決めたこと。
そして、オスカーをどうするかを、自分ひとりで決めないこと。
それを言うだけのはずなのに、喉の奥に引っかかったまま動かなかった。
馬車が止まった。
戸口の外には、白鹿の見張りが二人いた。片方がすぐに扉を開け、もう片方が通りの先を見ている。いつもの細い道なのに、見張りが立っているだけで別の場所のように見えた。
マルタが先に降り、手を差し出した。
エマはその手を借りる。足元が揺れた。馬車のせいではない。体がまだ、立つことを思い出しきれていない。
戸口を開けると、湯の匂いがした。
台所の火は小さく入っている。鍋ではなく、湯を沸かすだけの火だった。椅子は三つ出ている。寝室へ続く扉は開いていて、薄い布の匂いが流れていた。
ニナが台所の椅子から立ち上がった。
「おかえりなさい」
声は、いつもより慎重だった。
「ただいま」
エマは返してから、その言葉が自分の口から出たことに気づいた。
ただいま。
言えば、家に戻ったことになる。
戻ったことに、してしまう。
オスカーは奥の椅子に座っていた。背筋を伸ばしているのに、どこか落ち着かない。両足は床についている。悪かった方の足も、今は床を踏んでいた。
けれど、椅子の横には杖があった。
立てかけられたまま、倒れもせず、片づけられもせずに残っている。柄の革は、握り続けた場所だけ色が濃い。先端は削れ、修理した跡がある。
オスカーの視線は、杖ではなくエマに向いていた。
「聞いた?」
エマは短く答えた。
「聞いた」
「白い石のこと?」
「うん」
「祈りの間のことも?」
その言葉を、オスカーが先に出した。
エマは台所の入口で足を止めた。自分がまだ、オスカーを子どものように扱おうとしていたことに気づく。
あの部屋へ行ったのは、エマではない。
白い石を手に取ったのも、胸元へ収めたのも、あの道を歩いたのも、オスカーだった。
「それも聞いた」
オスカーは膝の上で手を握った。
ニナが湯の入った器を机に置いた。
「私は外にいます」
「ニナ」
「聞こえないふり、下手なんです。少し離れます」
そう言って、戸口へ向かう。途中で振り返り、器を指差した。
「熱いので、布を使ってください」
「子どもじゃないです」
「知ってます。でも言わないと落ち着かないんです」
オスカーは返事をしなかった。
ニナは小さく頭を下げ、外へ出た。扉は閉めきられなかった。隙間だけが残り、外の空気が細く入ってくる。
マルタはエマの肩から外套を外した。
「あたしは寝室にいる」
「聞かないんですか」
「あたしに聞かせるための話じゃないだろ」
それだけ言って、マルタは寝室へ入った。離れすぎず、入り込んでもこない。その距離が、今はありがたかった。
エマは椅子に座った。
向かいに、オスカーがいる。
前にも、こうして向かい合った。豆の煮込みの匂いがして、焼いたパンがあって、オスカーが怒っていた朝だった。あの時、エマは帰ると約束した。
帰ってきた。
自分の力ではなく、父の命で。
「姉さん」
オスカーの声で、エマは手元から視線を戻した。
「また黙るなら、先に言って」
エマは唇を噛んだ。
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
二度目だった。
同じ言葉なのに、今日は前より低く響いた。
「分かってる」
エマは湯気の細くなった器を見た。
「話す」
オスカーは返事をしなかった。足は床にある。そこにあるのに、指先だけが杖を探すように動いた。
エマはそれを、見ないふりをしなかった。
「白鹿は、祈りの間へ行く」
オスカーの手が止まる。
「白骸晶が、まだ残っているかもしれない。サイモンたちも、それに気づいていると思う。オスカーの足のこと、私が戻ったこと、父さんが死んだこと。全部を隠すのは無理だから」
オスカーは口を挟まなかった。
エマは続けた。
「道が変わる前に、敵も潜るかもしれない。だから、白鹿も動く。ケインさんは命令しなかった。でも、私は行くって言った」
器の湯から、かすかな湯気が上がっている。
オスカーはそれを見ていた。
「僕には、来るなって言うつもりだった?」
エマはすぐに答えられなかった。
ここで嘘をつけば、もう何も言えなくなる。
「言うつもりだった」
「今も?」
「言いたい」
エマは正直に言った。
「あなたをまた、あの場所へ近づけたくない。サイモンの声も、ガロンの声も、白い部屋も、思い出させたくない」
「もう思い出してるよ」
静かな声だった。
エマは言葉を失った。
オスカーは膝の上の手を開いた。指先が震えている。
「忘れてない。石を持った時の重さも、サイモンさんが答えなかったことも、ガロンが僕を見た目も」
そこで言葉が途切れた。
「姉さんが言わなくても、ずっとある」
エマは器の縁を見た。湯気が、もうほとんど消えていた。
「僕も行く」
オスカーは言った。
エマは反射的に首を振った。
「だめ」
言ってから、自分でその言葉に傷ついた。
オスカーは怒鳴らなかった。笑いもしなかった。ただ、椅子の横へ手を伸ばした。杖には触れない。触れる手前で、指を止める。
「また、待つだけ?」
「そうじゃない」
「じゃあ、何?」
「危ないから」
「知ってる」
「足がこれまでと違う。体も慣れてない」
「それも」
「ダンジョンは、前と同じ道じゃない」
「それは、僕が知ってる」
エマは黙った。
オスカーは杖から手を戻し、自分の膝を見た。
「あの部屋へ行ったのは僕だよ。祈りの間に入ったのも、白骸晶に触ったのも」
「だから余計に」
「だから」
オスカーの声が、そこでかすれた。
うまく続かないのか、唇を噛む。しばらくして、ようやく言った。
「僕は、あそこを知らないふりで家にいるのが嫌だ」
その言い方は、強くはなかった。
引けなくなった人間の声だった。
「戦えない。剣も振れないし、魔物が来たら足が止まるかもしれない。足が治ったからって、急に探索者になれるわけじゃない」
エマはオスカーを見た。
オスカーも逃げなかった。
「でも、見たものはある。聞いたこともある。サイモンさんが、何を言って、何を言わなかったか。あの部屋で、音がどう消えたか」
「オスカー」
「役に立つから連れて行けって言ってるんじゃない」
オスカーの指が、膝の布を掴んだ。
「それだけなら嫌だ。僕を、祈り紐や白い石の道具にするなら、あの人たちと同じになる」
エマの喉が固まった。
言おうとしていたことを、先に言われた気がした。
オスカーは目を伏せた。
「でも、僕が行かないと……」
そこで止まった。
言葉を探すように、杖の柄を見る。
「持っていかれる気がする」
「何を」
「僕が、歩きたかったこと」
その言葉は小さかった。
けれど、部屋の中でまっすぐ落ちた。
「歩きたかったんだよ。姉さんのせいじゃない。父さんのせいでも、母さんのせいでもない。誰かに何か言われたからだけでもない」
オスカーは自分の足を見た。
「僕が、歩きたかった」
エマは何も言えなかった。
「それを、あの人たちは使った」
オスカーは息を吸った。
「僕が黙って家にいたら、サイモンさんの言葉が残る。あの人が分かったみたいな顔をしたままになる」
「違う」
エマはすぐに言った。
「あなたの願いは、あの人たちのものじゃない」
「なら、僕もそうしたい」
「そうする?」
「取り返す……じゃない。そんなにきれいに言えない。でも」
言い淀み、オスカーは杖に触れた。
「置いていきたくない」
エマは椅子の端を握った。
止める言葉はいくらでもあった。並べようと思えば、すぐ並べられる。
危ない。
足が慣れていない。
敵がいる。
魔物もいる。
祈りの間に近づけば、また何が起きるか分からない。
どれも本当だった。
けれど、どの言葉も最後には同じ場所へ行く。
あなたは家にいて。
あなたは待っていて。
あなたは知らなくていい。
エマはそれを、もう言えなかった。
「私は」
声が震えた。
「あなたが役に立つから連れていく、とは言いたくない」
「うん」
「祈り紐があるから必要だとも、言いたくない」
「うん」
「でも、あなたがそこまで言うのを、私が全部だめだって言うのも違う」
オスカーは何も言わなかった。
エマは手を開いた。
何もない手だった。
「白鹿で話そう。ケインさんにも、ノルさんにも。あなたを道具にしないって、そこで決める。私も言う」
「姉さんは?」
「私も、守るって言葉だけであなたを縛らない」
言い切るのは難しかった。
それでも、言わなければいけなかった。
「でも、止める時は止める。危ないと思ったら下がってと言う。あなたも、私を止めていい。そこは決める」
オスカーは考えている顔をした。
「途中で、姉さんがまた自分だけで決めようとしたら?」
「怒っていい」
「本当に?」
「本当に」
オスカーの肩から、張っていたものがひとつ抜けた。
「ニナさんみたい」
「それは困る」
戸口の外から、布が擦れる音がした。
聞こえていないふりをしているのだろう。
オスカーも気づいたのか、目元を細めた。
それから、椅子の横の杖を取った。
エマの手が動きかける。
オスカーは杖を床についた。
立ち上がるためではなかった。膝に置き、柄の革を指でなぞる。何度も握った場所だけ、柔らかくなっている。
「これ、持っていく」
エマは杖を見た。
「歩くため?」
オスカーは首を振った。
「それもある。長く歩いたら崩れるかもしれないし、怖くなったら探すと思う」
正直だった。
その正直さが、痛かった。
「でも、それだけじゃない」
オスカーは杖の先を見た。
「いらなくなったから置いていったら、今の僕だけが残る。歩けなかった時の僕を、なかったことにするみたいで嫌だ」
エマは何も言えなかった。
「僕は、この足で願ったんじゃない」
杖の革を押さえる指に、力が入る。
「あの足のまま、帰りたかった」
その言葉が、家の中に静かに残った。
エマは返事を急がなかった。杖の削れた先、革の色の濃くなった場所、オスカーの指の震えを順に見た。
「分かった」
戸口の外で、ニナが小さく咳をした。
オスカーが顔をしかめる。
「聞いてますよね」
扉の隙間から、ニナの声が返ってきた。
「努力はしました」
「失敗してます」
「……結果は、そうですね」
エマはそこで、笑ってしまった。
すぐに苦くなった。
それでも、家の中に戻った温度は、さっきより長く残った。
白鹿へ向かう前に、二人はローワンに会うことにした。
馬車は使わなかった。家から白鹿の館までは、急がなければ歩ける距離だった。マルタは最後まで反対したが、オスカーが杖を持ち、エマが歩幅を合わせると言うと、ひどく嫌そうな顔をしてから折れた。
「途中で倒れたら、二人とも説教だからね」
「はい」
エマが答えると、マルタはオスカーを見た。
「あんたもだよ」
「僕もですか」
「当たり前だろ」
オスカーは戸惑い、それから頷いた。
「分かりました」
壊れ物のように扱われなかったことが、今はかえってこたえた。
外へ出ると、町は夕方に沈みかけていた。
市場の方から遠い声がする。荷車の車輪が石を踏む音、店じまいの板をはめる音、どこかで子どもが叱られている声。昨日も、その前もあったはずの音だ。
オスカーは杖をついた。
一度。
音が石畳に返る。
足は動いている。けれど、杖の音があることで、歩く速さが決まる。エマはその横を歩いた。前でも、後ろでもない。
隣だった。
何度か、オスカーの足が迷った。
悪い足だった方へ体重を乗せる瞬間、体が遅れる。杖の先がそれを拾い、石に鳴った。エマは手を出しかけて、何度か止めた。
一度だけ、オスカーがふらついた。
その時は、エマが袖を掴んだ。
「ありがとう」
オスカーは小さく言った。
「うん」
それだけでよかった。
白鹿の館の門をくぐると、視線が集まった。
エマだけではない。オスカーにも。
歩いている。
その事実が、言葉より先に人の目を変える。驚き、戸惑い、痛ましさ、気まずさ。誰も大きな声は出さなかった。けれど、廊下の音がわずかに落ちる。
オスカーの指が杖の柄を強く握った。
エマは隣で歩幅を変えなかった。
ローワンは、館の奥の小さな部屋に安置されていた。
治療室ではない。倉庫でもない。窓のある静かな部屋だった。壁際に白い布がかけられ、机の上には水差しと小さな灯りが置かれている。白鹿の者が一人、戸口で頭を下げてから外へ出た。
ローワンは、布の下にいた。
顔は見える。髪は整えられ、額の傷もきれいに拭われていた。肩の布も替えられている。家で見た時より、手の届かないところへ移された人のように見えた。
エマは部屋へ入った。
オスカーも続いた。杖の先が床を鳴らす。部屋の中では、その音が小さく広がって、すぐに消えた。
しばらく、誰も喋らなかった。
エマはローワンの顔を見た。
遅いよ。
朝に言った言葉が、また戻ってくる。
本当に遅かった。何もかも。帰ってくるのも、話すのも、手を伸ばすのも、最後まで。
それなのに、最後の手だけは間に合ってしまった。
そのことを、まだ許せなかった。
「父さん」
ローワンは答えない。
当たり前だった。
「まだ、怒ってる」
オスカーが隣で、わずかに動いた。
エマは続けた。
「遅かったことも、勝手だったことも、また置いていったことも。全部、まだ怒ってる」
灯りが小さく揺れた。
「でも」
エマはローワンの布の端を見た。
折れ目が乱れていた。
手を伸ばしかけて、止める。触れれば、また何かを認めなければならない気がした。
それでも、布の端だけを直した。
「父さんが残したものを、あの人たちに渡したくない」
きれいな別れではなかった。
それでいいと思った。
今、きれいに許せるなら、たぶん嘘になる。
オスカーは杖を両手で持ったまま、ローワンの前に立っていた。
長い時間をかけて、ようやく口を開く。
「父さん」
声はかすれていた。
「頼まれたからじゃないよ」
エマはオスカーを見なかった。
見たら、彼が言葉を続けられなくなる気がした。
「姉さんを頼むって言われたから行くんじゃない。父さんの代わりでもない」
オスカーは杖の柄を握り直した。
「僕が決めた」
それだけだった。
それ以上は出てこなかったのかもしれない。出さなかったのかもしれない。
ローワンは何も返さない。
けれど、その返事のなさは、今だけは責めるものではなかった。
オスカーは一歩下がった。
エマも、最後にローワンの手元を見た。布の下に隠れていて、もう握ることはできない。
「行ってきます」
言ったあと、自分で驚いた。
ただいまと同じくらい、その言葉もまだ痛かった。
部屋を出ると、廊下にノルがいた。
いつからいたのかは分からない。聞いていたのかもしれない。聞いていなかったのかもしれない。ノルはそれを言わず、ただ二人を見た。
「ギルド長室へ」
エマは頷いた。
オスカーも、杖をついて歩き出した。
ギルド長室には、ケイン、リディア、マルタ、ガイ、ミレイがいた。遅れて、ニナも入ってきた。いつものように軽く入ってくるのではなく、扉を閉める手つきが硬い。
机の上には地図がある。
祈りの間へ続く線は、まだ不確かだった。前回の通路。崩れた場所。オスカーが通った道。エマたちが接敵した場所。白い空白。
そこに、まだ誰の名も置かれていない。
リディアは机の端で、封じ布を畳み直していた。何度も同じ角を揃えている。マルタは薬包の紐を結び、強く引きすぎて、もう一度ほどいた。ミレイは壁際で矢筒の留め具を確かめている。ガイは何もしていない顔で立っていたが、視線だけは扉の音へ先に動いていた。
ケインはオスカーを見た。
驚きはしなかった。たぶん、来ると分かっていたのだろう。
「座れ」
オスカーは椅子を見た。
すぐには座らなかった。
「立ったままで」
「体勢を崩してから座るより、先に座れ」
マルタが横から言った。
「その通り」
オスカーは悔しそうにして、椅子へ腰を下ろした。杖は膝の横に置く。エマはその隣に座った。
ケインは二人を順に見た。
「エマから聞いたか」
「聞きました」
オスカーは答えた。
「全部ではないと思います。でも、必要なことは」
「なら確認する」
ケインの声は低かった。
「お前は、祈り紐を持っているな」
オスカーは服の内側へ手を入れた。取り出したのは、小さな紐だった。結び目は古く、何度も指で触れられた跡がある。ミラが残したもの。
今は、何の反応もしていない。
ただ、そこにある。
「持っています」
オスカーは机の上へは置かなかった。
手の中に持ったまま答えた。
「これで道を決めるつもりですか」
ケインは、机に置かれた地図へ視線を落とした。
「それだけで決めるつもりはない」
「なら」
オスカーは祈り紐を握った。
「僕は、連れて行かれるんですか」
部屋が静かになった。
エマは口を開きかけたが、止めた。
これは、オスカーが聞かなければならないことだった。
ケインはオスカーを見た。
「お前がそう受け取るなら、連れていかない」
オスカーの指が、紐を握ったまま固まる。
「祈り紐のためだけなら、なおさらだ。お前の知っていることは聞く。祈りの間を見た者として、敵の言葉を聞いた者としてだ。だが、それはお前を道具にする理由にはならん」
オスカーはすぐには答えなかった。
ケインは続ける。
「行くなら条件を飲め。飲めないなら連れていかない」
ノルが机の横へ立った。
「前には出ない。足が乱れたら申告する。祈り紐に変化があっても一人で動かない。白骸晶には触らない。誰かが何を言ってもだ」
オスカーは頷かなかった。
まだ聞いていた。
ノルはオスカーの足元を一度見た。杖の先が床に触れている。足は揃っていない。無理に揃えようとして、逆に膝に力が入っていた。
「エマが止めた時も、俺が止めた時も、一度止まれ。理由はそのあと聞け」
「姉さんが、自分だけで決めようとしたら?」
エマの手が動かなくなった。
ノルはエマを一度見てから、オスカーへ戻した。
「その時は、お前が止めろ」
部屋の空気が変わった。
ガイが腕を組んだ。
「一度で止まれるなら、俺より偉いな」
ミレイが横目で見た。
「あなたは二度でも止まらない時があるでしょう」
「信用が薄い」
「厚いと思ってたの?」
ガイは肩をすくめた。
そのやり取りで、張り詰めていた空気に隙間ができる。
オスカーは祈り紐を見下ろしていた。
「僕は、戦えません」
「知っている」
ノルが答えた。
「走れないかもしれません」
「それも見て判断する」
「怖くなったら、止まるかもしれません」
「止まれ。怖いのに進むやつの方が困る」
その言葉に、オスカーの目が上がった。
ニナが壁際から言った。
「私も行きます」
エマはそちらを見た。
ニナは笑わなかった。
「座って見張るのは、もう嫌です。今度は歩いて見張ります」
「ニナ」
「止めるなら、理由を聞きます」
先に言われた。
エマは言葉に詰まった。
ニナは眉を下げた。
「怖いです。今でも暗いところは嫌です。でも、あのまま終わるのも嫌なんです」
ミレイが短く息を吐いた。
「嫌な理由ばっかりね、この隊」
ガイが言う。
「好きで行くやつがいたら、そいつから止めた方がいい」
「珍しく正しいことを言うのね」
「いつも正しい」
「訂正するわ。珍しく短い」
ガイは口元を緩めた。
リディアは畳み直していた封じ布を、そこでようやく机に置いた。
「白骸晶に近づけば、何が起きるか分かりません。反応があっても、それが安全を示すとは限りません」
エマはその布を見た。
祈り紐は、何度も道を示した。
けれど、それは安全を示したわけではない。
ミラが何を願って残したのか、もう聞くことはできない。
ケインはオスカーを見た。
「最後に聞く」
部屋の中の音が落ちた。
「お前は、何のために行く」
オスカーは祈り紐を服の内側へ戻した。
時間がかかった。
言葉を探す時間だった。
「僕は」
そこで一度、息を整える。
「足を治したかったことを、なかったことにしたくない」
エマは隣で、手を握った。
オスカーは続けた。
「使われたことも。僕が黙っていたら、あの人たちはまた、誰かの願いを使うと思います」
サイモンの声が、エマの耳の奥で揺れた。
祈りは、届かなければただの思い込みです。
オスカーは顔を上げた。
「止められるかは分かりません。でも、見ない場所からは、何も言えない」
ケインは黙っていた。
やがて、地図の端を指で押さえた。
「分かった」
エマの肩から、力が抜けかけた。
まだ、安心ではない。
でも、オスカーの言葉が部屋に届いたことは分かった。
ノルが地図の横に木札を置いた。
一枚目に、自分の名。
二枚目に、ガイ。
三枚目に、ミレイ。
四枚目に、ニナ。
五枚目に、エマ。
間を置いて、六枚目にオスカー。
その木札は、他のものより端が欠けていた。古い札を使ったのだろう。欠けたまま、そこに置かれた。
オスカーはその札から目を離さなかった。
自分の名前が、地図の上にある。
誰かに運ばれる荷としてではなく、隊の一人として。
それが重いのか、怖いのか、救いなのか、まだ分からない顔をしていた。
マルタが低く言った。
「全員、帰ってくるんだよ」
誰もすぐに返事をしなかった。
簡単に返せる言葉ではなかった。
それでも、ノルが最初に答えた。
「そのために行きます」
ガイが続ける。
「戻らないと、文句を言われる相手が減るからな」
ミレイは地図から目を離さずに言った。
「文句なら今でも足りてるわ」
ニナは短く息を吸った。
「……はい」
オスカーは遅れて、杖の柄を握った。
「僕も」
エマは最後だった。
帰る、と言うのが怖かった。
約束にすれば、また誰かに残る。
それでも、何も言わずに立ち上がることはできなかった。
「分かりました」
声は強くなかった。
けれど、消えなかった。
出発は、夜明け前と決まった。
深夜に動けば敵の目は避けられるが、ダンジョン内で体を崩す者が出る。遅すぎれば、道が変わる。敵が先に入る可能性もある。ケインは短く指示を出し、リディアはスクロールと封じ布の準備へ向かった。マルタは薬と包帯の見直しに行くと言い、ガイは火の扱いを確認すると言った。ミレイは矢束と風読みの道具を取りに出た。
部屋には、エマとオスカー、ノルとニナだけが残った。
ノルはオスカーの杖を見た。
「それは持っていくのか」
「はい」
「荷になる」
「分かっています」
「なら、自分で持て」
「そのつもりです」
ノルは余計なことを言わなかった。
「分かった」
それだけだった。
認められたのではない。
試されるのでもない。
ただ、預けられた。
オスカーは杖を手元へ引き寄せた。
ニナが近づいてきた。
「オスカーさん」
「はい」
「私、たぶん途中でうるさいです」
オスカーは戸惑った。
「急に何ですか」
「怖い時、黙ると余計に怖いので」
ニナは真面目な顔で言った。
「だから、うるさかったら、うるさいって言ってください。でも、たぶん少ししか直りません」
オスカーは困ったようにニナを見た。
それから、口元を動かした。
「分かりました」
「あと、私が強がったら、強がってますねって言ってください」
「言っていいんですか」
「小さめの声でお願いします」
エマは二人を見ていた。
こんな時なのに、家の台所にあった温度が、ほんのわずか戻っていた。
それを失いたくないと思った。
だからこそ、行くのだと思った。
白鹿の館を出る頃、空はまだ暗かった。
夜明けには早い。町は眠っているが、完全な静けさではない。どこかで馬が鼻を鳴らし、監視所へ向かう道の先で、早番の灯りがひとつ揺れていた。
六人は門の前に集まった。
ノルが先頭に立ち、ガイが荷を背負う。ミレイは弓を確かめ、ニナは短剣の位置を何度も直している。エマは革筒と布袋を肩にかけた。革紐の重みで、肩が沈む。体はまだ重い。マルタに許されたのは、動けるところまで動くことではなく、倒れる前に止まることだった。
それでも、荷が戻ると、自分の立つ場所だけは分かった。
オスカーは杖をついた。
石床を、一度だけ鳴らす。
握り込まれた革の色も、削れた杖先も、そのままだった。
エマは隣に立った。
今度は前に出すぎない。後ろへ下げすぎもしない。
夜明け前の白鹿の門が、ゆっくり開いた。
オスカーの杖の先が、もう一度、石を打った。
その音は、門の外へ出ても消えなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




