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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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69/78

第68話 区切りをつける

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟 生まれつき足に障害がある

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった

マルタ・リード      治療師 エマに治療を教えた

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

リディア・グレイス    神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者

ガイ・ラザフォード    白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者

ミレイ・アスター     白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ 


▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

エマが戻らないまま、最後の夜が来た。

ローワンは、エマのそばを離れようとしないオスカーに、休めと告げる。オスカーは拒むが、限界を迎え、祈り紐を握ったまま眠りに落ちた。

ローワンは、ミラが残していた木箱の二重底から、もうひとつの白い石を見つける。

そしてエマの手を握り、自分の命を差し出すように、白骸晶を使った。

石は白く濁った欠片となり、ローワンは椅子にもたれたまま動かなくなる。

その静けさの中で、寝台の上のエマの指が、わずかに動いた。

ローワンが運び出されたあと、家の中は広くなった。


人が一人いなくなっただけではない。寝室の隅に残っていた声も、足音も、布の擦れる音も、まとめて外へ持っていかれたようだった。


戸口の外には白鹿の者が残っている。通りへ出る細い道にも、誰かの気配があった。けれど、その守りは家の中まで入ってこない。台所の火は落とされ、鍋は空のまま冷えていた。酒精と薬草の匂いだけが、朝より薄くなって壁際に残っている。


エマは寝台の上で、自分の手を見ていた。


ローワンに握られていた場所には、何もない。


何もないのに、指を動かすたび、そこだけ遅れて誰かの手の形を思い出す。強く握られたわけではなかった。痛むほどでもなかった。ただ、最後まで離れなかった。


それが一番、離れてくれなかった。


小机の上には、布に包まれた白い欠片が二つ置かれている。


リディアが包んだ。むき出しのままにしておけないと言って、きれいな布を一枚使った。布の端は丁寧に折られている。中にあるものが何かを知らなければ、小さな薬包にも見えたかもしれない。


けれど、エマは知っている。


ひとつは、自分がオスカーに使ったもの。


もうひとつは、父が自分に使ったもの。


使った、という言葉が喉に引っかかった。


道具みたいだった。


人の命を、使った。


エマは指を握った。力は入らなかった。体の奥がまだ遠い。起き上がるだけで視界が薄く白む。自分の体なのに、誰かが戻し忘れた荷物のように重かった。


椅子の横には、オスカーの杖が立てかけられている。


もう必要ないはずの杖だった。


オスカーは台所の椅子に座っていた。そこへ行くまで、ニナに肩を貸されていた。足は動く。床に着ける。立とうと思えば立てる。けれど、体がまだそれを信じていない。立つたびに、どこへ重さを預ければいいか分からない顔をする。


今も、オスカーは自分の膝の上で手を組んだまま、杖を見ていなかった。


見ないようにしているのが、分かった。


ニナは台所の戸口に立っていた。いつもなら何か言う。軽く場を崩す言葉を探す。けれど今は、湯を沸かすために水差しを持ったまま、何も言えずにいる。


マルタは寝室の椅子へ腰を下ろし、エマの顔色を見ていた。


「寝てな」


「寝られない」


「目を閉じるだけでもいい」


「閉じたら、父さんの手を思い出す」


マルタは言い返さなかった。叱る顔をしたが、言葉にはしなかった。


エマは小机を見た。


「リディアさんは」


「白鹿へ戻った。あの石を見せる相手がいる」


「ケインさん?」


「そうだよ」


エマは布に包まれた欠片から目を離せなかった。


「持っていったの」


「欠片の粉を少しだけね。本体は置いてある。あんたが、勝手に持っていくなって顔をしたから」


「そんな顔した?」


「した」


マルタは短く答えた。


ニナが湯を沸かす準備を始めた。動きは小さかった。鍋を置く音も、いつもよりずっと静かだった。気を遣われている。それが分かるたび、エマの中で何かが削れた。


外で足音がした。


戸口の白鹿の者が低く誰かと話す。すぐに、ノルの声が聞こえた。


「入っていいか」


マルタが立ち上がる前に、エマが答えた。


「どうぞ」


声は思ったより細かった。


ノルは戸口で一度、頭を下げてから入ってきた。革鎧ではなく、館内で着る外套を羽織っている。腰には剣があるが、手は柄から離れていた。


ニナがわずかに肩を揺らした。


「ノルさん」


「起きていたのか」


「寝られるわけないじゃないですか」


強い言い方ではなかった。けれど、いつもの軽さでもなかった。


ノルはそれを受け止めるように頷き、寝室へ近づいた。途中で、オスカーの杖を見た。何も言わなかった。その沈黙の方が、下手な気遣いより重かった。


「エマ」


「はい」


「ギルド長が話をしたいと言っている」


マルタの眉が動いた。


「今かい」


「無理にとは言っていません。動けるなら、です」


「動ける顔に見えるか」


「見えません」


ノルはマルタを見た。


「だから俺が来ました」


エマは布団の上に置いた手を握った。


「白い石のことですか」


ノルは少しだけ間を置いた。


「それもある」


「それ以外も?」


「祈りの間のことだ」


部屋の空気が、少し変わった。


オスカーが台所の椅子で顔を上げた。ニナの手も止まる。湯はまだ沸いていないのに、鍋の底だけが火に触れて小さく鳴った。


エマは笑おうとした。


笑えなかった。


「まだ、そこへ話が戻るんですね」


ノルは答えなかった。


答えないことで、答えになった。


マルタが低く言った。


「あんたたちは、本当に容赦がないね」


「分かっています」


「分かってるなら、今日は帰れと言いたいところだよ」


ノルは目を伏せた。


「俺も、そう言いたいです」


その声に、エマはノルを見た。


ノルは疲れていた。昨夜からほとんど休んでいないのだろう。目の下に影があり、外套の襟元が少し乱れている。それでも、立ち方は崩れていない。崩せない人間の立ち方だった。


エマは寝台の縁に手をかけた。


「行きます」


「エマ」


マルタが止めた。


「話だけです」


「話だけで済むなら、あたしは今頃もっと楽な顔をしてるよ」


「それでも、聞かないまま寝ている方が無理です」


マルタは舌打ちしそうな顔をした。けれど、しなかった。


代わりに、寝台の横へ来る。


「立てるかい」


エマは答えず、足を床へ下ろした。


冷たかった。


床はいつもの床だった。何度も歩いた家の床。朝起きて台所へ向かう時も、ダンジョンから帰って泥を落とす時も、オスカーに叱られて靴を脱ぎ直す時も、この床を踏んだ。


なのに、今日は足裏に届く感触が遅い。


エマは立ち上がろうとして、すぐに寝台の柱を掴んだ。視界の端が白く欠ける。


「ほら見ろ」


マルタが肩を支えた。


「言っただろうが」


「歩けます」


「歩けるかどうかじゃない。途中で倒れたら、運ぶ人間が増える」


「倒れません」


「その言い方は信用しない」


ニナが台所から小さく言った。


エマはそちらを見た。


ニナは水差しを持ったまま、困ったように眉を下げていた。


「私が言うのもなんですけど。今のエマさん、信用できない人の顔してます」


「ニナに言われると、少し腹が立つ」


「腹が立つなら、少しは元気です」


言ったあと、ニナは口を閉じた。軽くしたつもりの言葉が、思ったより痛く響いたのだろう。


エマはゆっくり息を整えた。


「オスカー」


台所の椅子が小さく鳴った。


「なに」


「白鹿へ行ってくる」


オスカーはすぐには答えなかった。


膝の上の手が握られる。


「僕も」


「今日は来ないで」


「でも」


「今日は」


エマは言葉を探した。


止めたいわけではない。置いていきたいわけでもない。けれど、今のオスカーを白鹿の館へ連れていけば、周りの視線も、白い石の話も、ローワンの死も、全部が一度に彼の上へ落ちる。


それを、今この子に渡したくなかった。


また、勝手に決めている。


そう思った。


エマは言い直した。


「来てほしくない」


オスカーが顔を上げた。


「私が、今は来てほしくない。あなたを見られると、私はたぶん話が聞けない」


それは、正直な言葉だった。


オスカーの表情が少し変わる。傷ついた顔ではあった。けれど、完全に閉じた顔ではなかった。


「……分かった」


ニナがすぐに言った。


「私がいます」


「ニナ」


「お湯を沸かして、マルタさんに怒られない程度に何か食べさせます。食べさせるって言い方はよくないですね。食べるところを見張ります」


オスカーは小さく顔をしかめた。


「見張らなくていいです」


「見張ります」


「ニナさんも休んでください」


「休むために座ります。座って見張ります」


そのやり取りは、ほんの少しだけ家の中に温度を戻した。


すぐに消えそうな温度だった。それでも、ないよりはましだった。


マルタは外套を取って、エマの肩へ掛けた。


「白鹿まで歩かせない。馬車を使う」


「歩けます」


「二度言わせるんじゃないよ」


エマは黙った。


マルタは布の端を整えながら、低く言った。


「話を聞くだけだ。勝手に決めるな。返事を急ぐな。いいね」


エマは小さく頷いた。


けれど、自分が返事を急がないでいられるかどうかは、分からなかった。


白鹿の館は、いつもより静かだった。


静かなわけがない。中では人が動いている。記録係の声も、荷札を確認する音も、治療室へ向かう足音もある。だが、エマが門をくぐった瞬間、その音が一つずつ遠慮するように落ちた。


見られている。


誰も露骨には見ない。けれど、目が向く。すぐ逸らされる。挨拶の声が喉元で止まり、代わりに道が空く。


エマはマルタに支えられながら歩いた。


自分の足で歩いているはずなのに、館の廊下がひどく長い。石床に靴音が返る。前なら、荷を背負い、地図板を抱え、誰かの消耗品の不足を思い出しながら通った廊下だった。


今は、手ぶらだった。


それが落ち着かなかった。


準備部屋の前で、ガイとすれ違った。


ガイは壁にもたれていた。いつものように軽口を出す顔を作りかけて、やめた。


「……来たか」


「はい」


「歩かされてるのか」


「馬車です」


「なら、まだ白鹿も少しは頭がある」


マルタが横目で見た。


「少しだけね」


ガイは肩をすくめた。それから、エマの顔を見て、すぐ視線を落とした。


「無理して笑うなよ。笑われる側が困る」


エマは何も返せなかった。


少し先に、ミレイが立っていた。弓は持っていない。髪を後ろでまとめ、いつもの強気な目をしている。だが、その強さも今日は少し細く見えた。


「ギルド長室、開いてるわ」


「ありがとうございます」


「礼を言われることじゃない」


ミレイはそう言ってから、ほんの少しだけ顔をしかめた。


「……言うことが下手ね、私」


「いつもです」


エマが言うと、ミレイは一瞬だけ目を丸くした。


それから、ほんのわずかに口元を緩めた。


「そういう返しができるなら、まだまし」


まし。


その言葉に、エマは返事をしなかった。


ましなのかどうか、自分では分からなかった。


ギルド長室の扉の前で、ノルが一度足を止めた。


「嫌なら、ここで戻ってもいい」


エマは扉を見た。


この扉の向こうで、何度も話が決まった。自分の知らないところで、伏せられたものがあり、守られたものがあり、使われた餌があり、誰かを泳がせるための判断があった。


白鹿は、帰る場所だった。


でも、何もかも預けていい場所ではなかった。


「入ります」


ノルは扉を叩いた。


中から、ケインの声がした。


「入れ」


部屋には、ケインとリディアがいた。


机の上には地図が広げられている。深層へ続く写し、祈りの間に至るまでの断片的な線、まだ確認できていない空白。端の方には、小さな布包みが置かれていた。リディアが持ち帰った粉か、欠片か。エマは見ないようにした。


見ないようにしている時点で、もう見ていた。


ケインは椅子から立ち上がらなかった。


立てば、見舞いの場になる。座ったままなら、話をする場になる。そういう判断をしたのだろう。


「来られる状態ではないと聞いた」


「来ました」


「そうだな」


ケインは短く答えた。


マルタがエマを椅子へ座らせる。エマは断らなかった。断れるだけの力がないことを、ここまで歩いて分かってしまった。


ノルは扉のそばに立った。マルタはエマの横に残る。リディアは机の脇で、両手を前に重ねていた。白魔導士の顔ではなく、ひとりの人間の顔をしている。


ケインが口を開いた。


「責めるために呼んだんじゃない」


エマは机の木目を見た。


「責められることは、あります」


「ある」


すぐに返ってきた。


部屋の空気が少し固まる。


ケインは続けた。


「だが、今それをやれば、必要な話が流れる。だから先に、事実を置く」


エマは顔を上げた。


ケインの目は逸れなかった。


「白骸晶は、使えるものだと証明された」


その言葉は静かだった。


静かだったから、逃げ場がなかった。


エマの手が膝の上で動いた。マルタがそれを見たが、触れなかった。


リディアが小さく息を吸った。


「床に残った二つの石片を見ました。どちらも、力を失っています。白さは残っていますが、内側の反応がありません」


「反応」


エマは繰り返した。


リディアは痛そうな顔をした。


「白魔法の残り香とは違います。治癒スクロールを使った後に残るものでもありません。あれは、何かを通した後の殻です」


殻。


エマは小机の布包みを思い出した。


布の中で、白い欠片は何も言わなかった。自分が何を奪ったのかも、何を返したのかも、何も。


「つまり」


エマの声は低かった。


「私がオスカーを戻した。父さんが私を戻した。そういう話ですね」


リディアは答えられなかった。


ケインが引き取った。


「そう見るしかない」


エマは笑いそうになった。


今度も笑えなかった。


「見るしかない。便利ですね」


ケインの眉がわずかに動いた。


「今さら、見たんですね。父さんが死んでから。オスカーが一度死んでから。私が」


言葉がそこで止まった。


自分が死んだ、と言うのは難しかった。


喉の奥で、言葉が形を失う。


マルタが低く言った。


「エマ」


「言わせて」


マルタは口を閉じた。


エマはケインを見た。


「ケインさんは、どこまで知っていたんですか」


「伝承としては知っていた。白骸晶が命に関わるものだということも、祈りの間に関係することも」


「使えるとは?」


「確証はなかった」


「なら、止められなかったって言うんですか」


「止められなかった」


ケインの声は変わらなかった。


「だが、それを言い訳にはしない」


エマは息を吸った。


吸ったつもりだった。


うまく入ってこなかった。


「父さんは、知っていました」


「ローワンは、俺たちより近い場所にいた」


「近い場所にいたのに、帰ってこなかった」


言ってから、エマは自分の言葉に傷ついた。


帰ってこなかった。


帰ってきた。


帰ってきて、またいなくなった。


ケインは何も言わなかった。


リディアも、ノルも、マルタも。


誰も、ローワンを庇わなかった。責めもしなかった。誰かが何かを言えば、エマはきっとそこへ怒りをぶつけられた。けれど、部屋にはぶつける先がなかった。


机の上で、地図の端が少し浮いていた。


ケインが指で押さえた。


「祈りの間には、まだ白骸晶が残っている可能性が高い」


エマは目を閉じた。


来ると思っていた言葉だった。


それでも、聞きたくなかった。


「敵も同じことを考える」


ケインは続けた。


「白骸晶の在り処を、こちらだけが知っているわけではない。サイモンたちは、祈りの間へ行った。オスカーをそこまで連れて行き、白骸晶を持たせた。奴らは、あの場所に何があるかを見ている」


エマの中に、白い部屋が戻った。


自分は直接見ていない。だが、オスカーの服の内側に収まっていた石の重さを、ダンジョンを出たあとに知った。あの石がどこから来たのかも、もう聞いている。


祈りの間。


白い石。


オスカーの胸元。


「こちらが隠せる段階ではない」


ケインは言った。


「オスカーの足が戻ったこと、エマ、お前が戻ったこと、ローワンが死んだこと。全部を町から消すことはできん。死者が出れば治療所が動く。白鹿が動く。葬りの準備も要る。人の口を全部塞ぐことなどできない」


リディアが地図の端を見つめた。


「白骸晶そのものを見ていなくても、結果を見れば近づけます」


ノルが低く言った。


「サイモンなら、気づく」


エマはノルを見た。


「もう、気づいていると思いますか」


「断言はできない」


ノルは答えた。


「だが、あいつは欠けた話をつなげる。見たものと、聞いたものと、足りない部分を勝手に結び直す。オスカーの足が戻ったと知れば、白骸晶が使われたと見るはずだ」


「父さんが死んだことも?」


「掴めば、な」


ノルの声は硬かった。


「エマが戻ったことと、ローワンさんの死が重なれば、答えは絞られる」


サイモンの顔が浮かんだ。


かわいそうに。


あなたは、自分で選んだつもりだったんですね。


耳の奥に、あの声が残っている。


ケインは地図の白い空白へ視線を落とした。


「問題は、隠せるかどうかではない。もう時間の話だ」


「時間」


「ダンジョンの道は変わる」


ケインの声が、少し低くなった。


「祈りの間へ続く道が、今も同じ形で残っている保証はない。だが、完全に変わりきる前なら、前回の痕跡を追える可能性がある。敵もそれを知っている。白骸晶が使えると見たなら、奴らは急ぐ」


リディアが小さく頷いた。


「こちらが迷っている間に、向こうが先に入るかもしれません」


「入るでしょうね」


エマは言った。


自分の声が、思ったより冷たく聞こえた。


「サイモンなら、行きます。オスカーを使って届いた場所なら、もう一度行けると思う」


ノルは否定しなかった。


ケインも。


その沈黙が、答えだった。


エマは机の下で指を握った。


「また、潜れってことですか」


ノルは答えなかった。


答えなかったことで、答えになった。


ケインが言った。


「命令はしない」


「しないだけで、行けって言っています」


「行かせたいとは思っている」


マルタが舌打ちした。


ケインはそちらを見ずに続けた。


「だが、これは白鹿だけの都合ではない。白骸晶の情報を隠したいからでもない。隠せるものではなくなった。敵に渡せば、また誰かが使われる。願いの形をした道具として、人の命が並べられる」


エマは唇を噛んだ。


「次は、誰ですか」


誰も答えなかった。


「次に死ぬ人ですか。次に使われる人ですか。次に、頼むって渡される人ですか」


部屋は静かだった。


エマは椅子の肘を掴んだ。


「もう嫌です」


その言葉は、思ったよりはっきり出た。


「もう、誰かを連れて帰るって言いたくない。言った分だけ、残る。帰れなかった時に、誰かがそれを持つ。オスカーも、父さんも、私も」


言葉が乱れそうになる。


エマは奥歯を噛んだ。


「私が潜るたび、誰かが待つ。帰るって言えば、待たせる。帰れなければ、置いていく。助けようとしても、助けられなければ、別の誰かが命を出す。そんなもの、もう持てません」


リディアが目を伏せた。


マルタは拳を握っていた。


ノルは何か言いかけたが、飲み込んだ。


ケインだけが、エマを見ていた。


「なら、やめてもいい」


エマは顔を上げた。


「やめてもいい。白鹿を降りてもいい。ダンジョンへ潜らなくてもいい。お前には、その権利がある」


その言葉は、優しかった。


優しいから、危なかった。


エマはすがりそうになった。


もう行かなくていい。もう見なくていい。もう白い石も、祈りの間も、サイモンの声も、誰かの血も、全部置いていい。


そう言ってもらえた気がした。


ケインは続けた。


「だが、投げて終わるな」


声は低かった。


「終わらせるなら、自分の手で区切りをつけろ。負けて降りるのと、自分で降りるのは違う」


エマの指が椅子の肘に食い込んだ。


「厳しいこと言いますね」


「ああ」


「今それを言いますか」


「今しか言えん」


ケインは表情を変えなかった。


「後で言えば、ただの説教になる。今言えば、傷口に塩を塗る。分かっていて言っている」


マルタが低く唸るように言った。


「あんた、ほんとに嫌な男だよ」


「知っている」


ケインは短く答えた。


エマは笑いそうになった。


今度は、ほんの少しだけ口元が動いた。


笑いではなかった。


「私に、何を持って帰れって言うんですか」


「それを、俺が決めるな」


ケインは言った。


「何を止めるのか。誰に渡さないのか。誰と行き、誰を置いていくのか。それを決めるのは、俺ではない」


その言葉が、エマの中に沈んだ。


ずっと選んできたつもりだった。


誰を先に処置するか。どのスクロールを使うか。撤退するか、進むか。誰の荷を持つか。誰を置いていかないか。


けれど、それは本当に自分の選択だったのか。


母の言葉を握っていた。


父の不在を恨んでいた。


オスカーの足を理由にしていた。


白鹿の仕事だからと言っていた。


連れて帰る人でいたい自分を、疑わないふりをした。


エマは地図を見た。


祈りの間は、白い空白で描かれていた。線は途中で途切れ、周囲の通路も不確かだった。そこだけ、紙の上でも光が届いていないように見えた。


「少し、外に出てもいいですか」


ケインは頷いた。


「ノル」


「はい」


「ついていけ」


エマは反射的に断ろうとした。


けれど、足に力が入らない。立ち上がる時、マルタとノルの手を借りなければならなかった。


それもまた、腹立たしかった。


廊下の空気は、部屋の中より少し冷えていた。


窓の外には中庭が見える。白鹿の館の中庭。訓練用の木杭が並び、隅には荷箱が積まれている。誰かが落とした矢羽が一本、石畳の隙間に引っかかっていた。


エマは壁際の長椅子に座った。


ノルは隣には座らず、少し離れて立っていた。


気を遣っている距離だった。


「座ればいいのに」


エマが言うと、ノルは少しだけ目を伏せた。


「今の俺が隣に座ると、説教を始めそうに見える」


「もう十分されました」


「だろうな」


ノルは壁に背を預けた。


中庭の向こうで、若い探索者が二人、荷を運んでいた。普段なら声を掛け合うところだった。今日は、こちらに気づくと少し声を落とす。


エマはその様子を見ていた。


「みんな、変な顔をします」


「何と言えばいいか、分からないんだろう」


「分からないなら、いつも通りでいいのに」


「いつも通りにしたら、それはそれで怒るだろ」


エマは返せなかった。


たぶん、怒る。


ノルは中庭を見たまま言った。


「報われたとは言わない」


エマの手が膝の上で止まった。


ノルの声は、低かった。慰めるための柔らかさはなかった。


「ローワンさんのことも、オスカーのことも、お前のことも。報われたなんて言い方は、俺にはできない」


エマは中庭を見たままだった。


「でも、報われなかったことと、無意味だったことは同じじゃない」


その言葉は、すぐには入ってこなかった。


ノルは続けた。


「あの六階層で、お前が来なければ、俺とニナは戻っていない」


「それは」


「事実だ」


エマの言葉を遮る声ではなかった。


ただ、逃がさない声だった。


「オスカーも、地上へは出られなかった。あの時、お前が手を離さなかったからだ」


「でも、死にました」


「死んだ」


ノルはすぐに認めた。


「そこをごまかす気はない」


エマの喉が詰まった。


「なら」


「それでも、地上へ出た。お前の家へ戻った。お前が白骸晶を使ったことが正しかったとは言わない。ローワンさんが同じことをしたのも、正しいとは言わない。だが、全部が無意味だったとは、俺は言えない」


エマは膝の上の手を見た。


ローワンに握られていた場所は、もう何も残していない。


それなのに、まだ形だけを覚えている。


「無意味じゃなかったら、何なんですか」


「分からない」


ノルは言った。


エマは顔を上げた。


ノルは、こちらを見ていなかった。


「分からないまま、持つしかないものもある」


「そんなの、嫌です」


「俺も嫌だ」


その答えがあまりに早くて、エマは言葉を失った。


ノルは中庭の矢羽を見ていた。


「嫌でも残る。なら、残ったものを誰かに勝手に使わせるな」


エマは息を止めた。


「サイモンは、使いますか」


「使う」


ノルは迷わなかった。


「ガロンも、ヴェルグも、神殿の誰かも。白骸晶が使えると知れば、理由をつける。救いのためだと言う。秩序のためだと言う。誰かを選ぶためだと言う。たぶん、聞こえのいい言葉はいくらでもある」


サイモンの声がまた戻る。


祈りは、届かなければただの思い込みです。


エマは目を閉じた。


「許せない」


「許さなくていい」


ノルは言った。


「だが、許せないから殺しに行くなら、俺は止める」


エマはノルを見た。


ノルも、今度はこちらを見た。


「お前がそれを選べば、サイモンの言葉に近づく。誰かの命を、気持ちの置き場にするな」


エマの口元が震えた。


怒りたかった。


でも、怒れなかった。


ノルの言葉は、エマを責めているのではなかった。止めようとしている。落ちる場所を知っている人間の声だった。


「じゃあ、何のために行けばいいんですか」


「それは、俺が決めることじゃない」


また、それだった。


エマは小さく笑った。今度は、少しだけ本当に笑いに近かった。


「みんな、決めろって言うんですね」


「今まで、決める前に走ってきたからだろ」


「ひどい」


「違うか」


「違わないのが、もっとひどいです」


ノルはほんの少しだけ目を細めた。


中庭で、風が矢羽を動かした。石畳の隙間に引っかかったまま、羽だけが揺れている。飛ぶためのものなのに、そこから動けない。


エマはそれを見ていた。


「私は」


声を出すまでに、少し時間がかかった。


「白骸晶を、誰かの願いみたいに扱われるのが嫌です」


ノルは何も言わなかった。


「オスカーは、歩きたかった。父さんは、間に合いたかった。私は、弟を戻したかった。全部、嘘じゃない。たぶん、そこだけ見れば、誰かはきれいな話にします」


言葉にして、腹の底が冷えた。


「でも、その下に、死んだ人がいる」


ローワンの手。


オスカーの止まった息。


小机の上の布包み。


「誰かを返すために、別の命を敷く。それを、願いとか祈りとか呼ばれたくない」


ノルは静かに頷いた。


「それなら、言えるな」


「何を」


「ギルド長に」


エマは長椅子の縁を掴んだ。


立ち上がる時、ノルが手を出した。


エマは一瞬だけ迷って、その手を借りた。


今は、自分の足だけでは戻れない。


それを認めるのも、選ぶことの一つなのかもしれなかった。


ギルド長室へ戻ると、ケインは地図の前に立っていた。


リディアは机の端で、布包みを小さな箱に入れている。マルタは腕を組んで、戻ってきたエマの顔を見た。


「少しはましな顔になったかい」


「分かりません」


「なら、正直でよろしい」


エマは椅子には座らなかった。


立ったまま、ケインを見た。


「行きます」


リディアの手が止まった。


ケインはすぐには頷かなかった。


「理由を聞く」


エマは地図の白い空白を見た。


「サイモンを許すつもりはありません。ガロンも、あの人たちも。オスカーを使ったことも、父さんを追い込んだことも、私を見て笑ったことも」


言葉が少し乱れた。


エマは一度、唇を結んだ。


「でも、殺したいから潜るんじゃない」


ノルが扉のそばで静かに聞いていた。


「白骸晶を、もう誰かの願いみたいに使わせたくない」


そこで一度、声が切れた。


きれいに言おうとすると、また何かがずれる気がした。


エマは言い直した。


「戻したいって気持ちの下に、別の命を置くようなものなら、あれは祈りじゃない。そんなものを、欲しがる人間の手に渡したくない」


ケインは黙っていた。


「だから行きます」


エマは続けた。


「終わらせに行くんじゃありません。区切りをつけに行きます」


その言葉を言い終えた時、体が少し揺れた。


マルタがすぐ横に来た。


「今すぐ行く顔をするんじゃない」


「しません」


「本当だね」


「今は、倒れるので」


マルタは鼻で短く息を吐いた。


「分かってるならいい」


ケインがようやく頷いた。


「出発は急がない。だが、遅らせすぎもしない。祈りの間への道は変わっている可能性がある。前回の通路をそのまま使えるとは思わん」


「人数は」


ノルが聞いた。


ケインは地図へ視線を落とした。


「多すぎれば遅れる。少なすぎれば押し切られる」


ガイの声が、扉の外から聞こえた。


「俺を数に入れない話なら、扉を蹴るぞ」


マルタが顔をしかめた。


「聞いてたのかい」


「聞こえた分だけな。都合の悪いところは聞こえてない」


扉が少し開き、ガイが顔を出した。その後ろにミレイもいた。ミレイは悪びれた様子もなく、腕を組んでいる。


「私もいるわよ。盗み聞きじゃない。廊下がそこにあっただけ」


リディアが小さく言った。


「それを盗み聞きと言います」


ミレイは肩をすくめた。


「白魔導士は言葉に厳しいわね」


ガイはエマを見た。


「行くなら、火力は要る」


ミレイも続ける。


「道も要るわ。祈りの間の近くは、空気の流れがまともじゃないかもしれない。読めるかは分からないけど、読もうとする人間は必要でしょ」


ノルが二人を見た。


「勝手に決めるな」


「決めてない。並んだだけだ」


ガイはそう言って、壁にもたれた。


「選ぶのは、そっちだろ」


ケインは地図を見た。


「ノル。ガイ。ミレイ。ニナ」


エマの顔が動いた。


「ニナも?」


「本人が来ると言えば、止める理由は薄い。六階層の件から、敵のやり方を見ている。イレーネへの対応も必要になる」


「でも」


「今ここで決めるな」


ケインの声が少しだけ強くなった。


「本人と話せ」


エマは口を閉じた。


ニナを行かせたくない。


そう思った。


けれど、その言葉は、さっき自分がオスカーへ言ったものと似ていた。来てほしくない。今は見られると話が聞けない。あれは自分の気持ちだった。


ニナには、ニナの理由がある。


止めるなら、その理由を聞いてからでなければいけない。


ケインは最後に、地図の端へ指を置いた。


「そして、エマ」


エマは地図を見た。


自分の名が、逃げ場なくそこへ置かれた気がした。


「少なくとも、今の段階でオスカーを数に入れるな」


その言葉は、予想していた。


それでも、胸の奥がざらついた。


「分かっています」


「本当にか」


ケインが聞いた。


エマはすぐに返せなかった。


オスカーは、使われた。連れて行かれた。白骸晶を持たされた。死んだ。戻った。足も戻った。


置いていく理由はいくらでもある。


連れていく理由も、たぶんある。


祈り紐はまだ残っている。祈りの間に関係するものを、オスカーは持っている。白骸晶に反応するかもしれない。サイモンが何をしたのか、誰よりも近くで見ている。


それでも。


「今は、連れていきません」


エマは言った。


「でも、私だけで決めません。本人に話します。怒られるなら、怒られます」


マルタが少しだけ目を細めた。


ケインは頷いた。


「それでいい」


地図の上で、祈りの間だけが白く空いていた。


周囲の線は不確かで、どの道が残っているかも分からない。そこへ向かう印はまだ置かれていない。誰の名も、まだ書かれていない。


エマはその空白を見下ろした。


白い石は、願いの形をしていた。


けれど、エマにはもう、それが石だけには見えなかった。


エマは自分の手を開いた。


ローワンに握られていた場所には、もう何もない。


何もない。


だからこそ、そこへ別の誰かの言葉を握らせたくなかった。


「オスカーには、私から話します」


その声は、まだ弱かった。


けれど、部屋の中で消えずに残った。


誰も、代わりに答えなかった。


地図の白い空白だけが、灯りの下で静かに浮いていた。


本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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