第67話 帰された朝
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足に障害がある
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマに治療を教えた
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
ガイ・ラザフォード 白鹿のギルド所属の前衛 特任契約者 実力者
ミレイ・アスター 白鹿のギルド所属の弓手援護 特任契約者 エルフ
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
エマが白骸晶を使ったことで、オスカーは息を吹き返し、不自由だった足も動くようになった。だが、その代わりにエマは戻らなかった。
白鹿の者たちは、床に残された白く濁った石片から、白骸晶が実際に使われたことを知る。ケインは事態を伏せるよう動き、ウォーカー家には見張りが置かれた。
その後、傷だらけのローワンが遅れて家へ戻る。オスカーの足と、動かないエマを見たローワンは、何が起きたのかを悟った。エマは最後の別れのため、自宅の寝室に寝かされる。
夜が、静かに深くなっていった。
最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。
匂いだった。
酒精と薬草。消えかけた灯りの油。洗った布の湿り気。家の中にあるはずのものばかりなのに、どれも少し遠かった。
エマは目を開けようとして、まぶたが思うように動かないことに気づいた。
指先に、何かが触れている。
握られていた。
強くはない。けれど、離れない手だった。誰かが、眠りながらそれだけを忘れずにいるような握り方だった。
「……オスカー」
声は、喉の奥で擦れた。
自分の声だと分かるまでに、少し時間がかかった。
返事はなかった。
エマはもう一度、目を開けた。灯りが低い。天井の梁が見える。自分の家の寝室だった。白鹿の治療部屋ではない。ダンジョンの白い粉の中でもない。
家だ。
そう分かった瞬間、体が動こうとした。けれど、起き上がる前に、手が引っかかった。
エマは自分の右手を見た。
ローワンが握っていた。
寝台のそばの椅子に座り、少し頭を傾けたまま、ローワンは眠っているように見えた。肩には白鹿の布が巻かれている。額の傷も処置されている。長く休んでいなかった人間が、限界を越えて、ようやく力を抜いたような姿だった。
エマはしばらく見ていた。
父の顔だった。
ダンジョンで見た時よりも、ずっと近い。声を出せば届く距離にいる。子どもの頃の記憶に残っている横顔より、頬は削げ、髪には白いものが混じっていた。それでも、父だった。
「父さん」
ローワンは動かなかった。
エマは、握られていない方の手を動かした。布団を掴む。腕に力が入らない。体の奥が空っぽになったようで、少し動くだけで頭が揺れた。
それでも、手を伸ばした。
ローワンの手首に触れる。
冷たかった。
エマの指が止まった。
冷たい、と思った瞬間、救護の手順が勝手に立ち上がった。脈を見る。呼吸を見る。喉元。胸。指先。唇の色。順番を間違えない。見落とせば死なせる。見れば、まだ間に合うことがある。
エマはローワンの手首を探った。
何もなかった。
場所を変えた。もう一度。押さえる指が震えて、うまく当たらない。違う。そこではない。落ち着け。ちゃんと見ろ。マルタの声が頭の奥で鳴る。死なせるものを先に見ろ。
けれど、もう死なせるものはなかった。
ローワンは、死んでいた。
「父さん」
今度の声は、さっきより小さかった。
エマはローワンの手を離せなかった。離せば、それを認めることになる気がした。
寝台の脇に、小さな白い石が落ちていた。
石は、白いのに濁っていた。光を持たず、床の上で乾いた欠片のように転がっている。どこかで見た色だった。自分の手の中で軽くなった石。オスカーの胸が浅く動いたあと、床に落ちていた石。
エマはそれを見た。
そして、ローワンの手を見た。
自分の手を握ったまま、父は動かない。
何が起きたのかを、誰かに説明される前に、体の方が先に知ってしまった。
「……やめてよ」
言葉は、形にならなかった。
扉の外で椅子が引かれる音がした。
「今、声が」
マルタの声だった。
次の瞬間、扉が開いた。隙間から入った灯りに、マルタの影が大きく伸びる。その後ろにリディアがいた。二人とも、最初はエマを見た。
マルタの足が止まった。
リディアは口元を押さえた。声を出さなかった。出したら、何かが割れると分かっている顔だった。
エマはマルタを見た。
「父さんが」
それ以上は言えなかった。
マルタはすぐに寝台の横へ来た。エマの額に手を当て、喉元に触れ、脈を取る。手つきは早かった。けれど、いつものように乱暴な安心感はなかった。指の先が、一度だけ止まった。
「起き上がるんじゃない」
「でも」
「起き上がるんじゃない」
二度目は、言葉の奥に押し殺したものがあった。
マルタはローワンの方へ手を伸ばした。エマと同じ場所を確かめる。手首。喉元。胸。どれも、短い動作だった。
リディアが床の石を見ていた。
白く濁った欠片。ローワンの手元。エマの動く喉。寝台のそばに立てかけられたオスカーの杖。
リディアは、長く息を吐いた。
「……また」
それだけだった。
マルタが低く言った。
「リディア」
「分かっています」
リディアは唇を噛み、言葉を飲み込んだ。けれど、視線は石から離れなかった。責める相手を探している目ではなかった。どう止めればよかったのかを、自分の中で探している目だった。
エマは床の欠片から目を離せなかった。
自分がオスカーにしたことを、ローワンが自分にした。
その形だけが、言葉より先に胸へ入ってきた。
「違う」
エマは首を振った。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
「違う。私は」
マルタがエマの肩を押さえた。
「今は喋るな」
「私、父さんに」
「喋るなと言ってるだろ」
マルタの声が少し荒くなった。
エマは黙った。
その時、椅子の方で小さな音がした。
オスカーが目を開けていた。
最初は、何を見ているのか分からない顔だった。眠りから無理に引き上げられた目で、灯りを見て、マルタを見て、リディアを見た。
それから、寝台の上のエマを見た。
オスカーの唇が震えた。
「姉さん」
エマは返事をしようとした。
声が出なかった。
オスカーは椅子の肘を掴み、立とうとした。床を探した足が、急に知らないもののように揺れた。体が、その変化に追いついていない。膝が椅子の背にぶつかる。
リディアが支えようとした。
オスカーはそれを拒まなかった。拒む力もなかった。
「父さん」
その名を呼んだ時、オスカーの目はもう答えを見ていた。
ローワンは動かない。
エマの手を握ったまま、椅子に座っている。
オスカーは立ったまま、動けなくなった。支えられているのに、一歩が出なかった。
「怒って」
かすれた声だった。
エマはオスカーを見た。
「怒ってよ」
オスカーの目から涙が落ちた。眠っている間に乾いた跡の上を、新しい涙が通っていく。
「あとで怒るって言ったでしょ。僕、聞いた。ちゃんと聞いた。だから」
言葉が崩れた。
「怒ってくれないと、困る」
エマは口を開いた。
怒りたかった。
どこへ行っていたの。どうして待たなかったの。どうしてこんなことをしたの。どうして私を置いていこうとしたの。そんな言葉なら、いくつもあったはずだった。
けれど、ローワンの冷たい手が自分の指に触れていた。
オスカーは、もう自分の足で立とうとしていた。
床には、二つの白い欠片がある。
エマの中で、怒りは出口を失った。
「オスカー」
名前を呼ぶだけで、喉が焼けた。
オスカーは首を振った。
「僕のせいだって言うなって、言われるのは分かってる。でも、違うって言われても、分からない。姉さんが倒れて、父さんが」
「オスカー」
「何も返せない」
その一言で、部屋の中が静まった。
リディアが目を伏せた。マルタはオスカーを叱らなかった。今叱れば、この子は自分を守るための言葉まで罪にする。そう分かっている沈黙だった。
エマは、ローワンの手を見た。
父の指は、自分の手を包んだ形のまま固まり始めていた。強く握っているわけではない。けれど、最後まで離さなかった形だった。
エマはゆっくり左手を伸ばした。
ローワンの指に触れる。
外そうとして、止まった。
「待って」
誰かに言ったわけではなかった。
マルタは動かなかった。
「まだ」
今度は、少しだけはっきり言った。
マルタは小さく頷いた。
「分かった」
それだけ言って、エマの布団を直した。リディアは床の石片へ布をかぶせた。拾い上げはしなかった。ただ、その白さがむき出しのままにならないようにした。
オスカーは、リディアに支えられたまま椅子へ戻された。
座った瞬間、顔を歪めた。
痛む顔ではなかった。
オスカーは膝の上に置いた手を、しばらく見ていた。
「父さん、何か言った?」
エマは聞いた。
オスカーの指が、膝の上で握られた。
「姉さんに、怒っていいって」
エマは目を閉じた。
「それと」
オスカーは、言うかどうか迷った。けれど、飲み込めなかったのだろう。
「僕に、姉さんを頼むって」
エマのまぶたの裏で、何かが揺れた。
頼む。
それは、母がエマに残した言葉だった。ずっと握ってきた言葉だった。握りすぎて、オスカーを傷つけた言葉だった。
その同じ形の言葉を、ローワンはオスカーに置いていった。
「勝手だよ」
オスカーが言った。
エマは目を開けた。
「勝手だよ。みんな、頼むって言う。残った方に渡していく。持てるかどうか、聞きもしないで」
エマは何も返せなかった。
自分も、同じことをしていたかもしれない。
連れて帰ると言いながら、帰れなかった時の重さを、残される者に渡していた。必ず帰ると言って、その約束が破れた時に何が残るかを、ちゃんと見ていなかった。
「……ごめん」
声は、ようやく出た。
オスカーは首を振った。
「謝ってほしいんじゃない」
前にも聞いた言葉だった。
あの朝、豆の煮込みの匂いの中で、オスカーは同じように言った。謝ってほしいんじゃない。分かってほしい。帰ってきてほしい。死ぬ理由にしないでほしい。
エマはあの時、約束した。
帰ると。
帰るために覚えると。
今、自分は帰ってきていた。
自分の力ではなく、父の命で。
エマはローワンの手をもう一度見た。
「外す」
マルタが少し身を動かした。
「手伝うよ」
「私が」
言ってから、エマはオスカーを見た。
「……一緒に」
オスカーは立てなかった。
リディアが椅子を寄せた。オスカーは寝台のそばまで移され、エマの手元を見た。自分から触れるまでに、少し時間がかかった。
ローワンの指は、冷たかった。
オスカーが小さく息を吸った。
エマは一本ずつ、父の指を外した。親指。人差し指。中指。関節の固さが、もう生きている人のものではなかった。最後の指だけが、エマの手に引っかかった。
そこで、動けなくなった。
オスカーの手が重なった。
震えていた。
けれど、離れなかった。
二人で、最後の指を外した。
ローワンの手は、ゆっくり膝の上へ落ちた。
椅子が小さく軋んだ。
それだけだった。
泣き声はなかった。
叫びもなかった。
ただ、握られていた場所だけが、急に寒くなった。
マルタが布を持ってきた。ローワンの手を膝の上で整え、肩の布を直す。彼女はいつものように手早かった。だが、最後に額の髪を寄せる時だけ、ほんの少し遅れた。
「……最後まで、手間のかかる男だよ」
低く言った。
誰も返事をしなかった。
リディアが膝をつき、白い欠片を包んだ。床に落ちていた二つを、別々の布に包む。同じ袋には入れなかった。
エマはそれを見ていた。
「それ、置いて」
リディアが顔を上げる。
「エマさん」
「今は、持っていかないで」
リディアは少し迷った。
神殿の白魔導士としてなら、すぐ封じるべきものだったのだろう。白鹿に報告し、記録し、誰にも触れさせないようにすべきものだったのだろう。
けれど、リディアは包んだ布を寝台の脇の小机に置いた。
「ここに置きます。私が見ています」
エマは頷いた。
礼は言えなかった。
外が少し白み始めていた。
窓の隙間から入る光は、朝というには弱い。夜が疲れて薄くなっただけのような色だった。家の外では、見張りの靴が石を踏む音がした。誰かが低く声をかけ、すぐに黙る。
しばらくして、ノルが来た。
扉の前で一度止まり、マルタに短く何かを聞いた。マルタは答えなかった。ただ、顎で中を示した。
ノルは部屋へ入った。
最初にエマを見た。
次にローワンを見た。
最後に、オスカーの足元へ視線が落ちた。
けれど、問いは投げなかった。問いを投げれば、答えさせることになる。今の二人に、それをさせてはいけないと分かっている顔だった。
「エマ」
ノルの声は、普段より低かった。
エマは返事をしようとして、失敗した。
ノルは近づきすぎなかった。寝台から少し離れた場所で止まる。
「今は、何も答えなくていい」
その言葉で、オスカーがわずかに顔を動かした。
ノルは続けた。
「ギルド長には伝えた。家の周りは白鹿が見る。誰かが来ても、勝手に通さない」
「父さんは」
エマは聞いた。
声が、ひどく細かった。
ノルはローワンを見た。
「白鹿で預かる。マルタさんとリディアが見てから、きちんと送る」
「送る」
エマはその言葉を繰り返した。
誰をどこへ送るのか、すぐには分からなかった。
昨日まで、送られるのは自分だった。
弔いの布も、寝台も、閉じかけた家の声も、全部、自分のために整えられていた。
それが今、ローワンへ移っている。
エマは寝台の縁を掴んだ。
立とうとしたわけではない。
ただ、何かを掴んでいないと、体がまたどこかへ持っていかれそうだった。
「私も」
ノルが首を振った。
「今は無理だ」
その言い方は、命令ではなかった。
現場で怪我人を見る時の声だった。
エマは反論できなかった。自分の体が、反論できる状態ではないことを、救護者として知ってしまっている。足に力は入らず、視界の端が白く揺れる。指先の感覚も薄い。
オスカーが椅子の端を掴んだ。
「僕が」
立とうとして、また止まった。
今なら、床へ足を出せる。
それでも、今のオスカーには、父のそばへ行くことができなかった。
ノルはそれも見た。
何も言わなかった。
担架が用意された。
家の中へ入る者は最小限にされた。若い探索者が二人、戸口で頭を下げてから寝室へ入る。ローワンの体を椅子から移す時、エマは目を逸らさなかった。
見なければいけないと思った。
父が最後に目を閉じるまで逃げなかったのなら、自分も見なければいけないと思った。
ローワンの手が膝から落ちかけた時、マルタがそっと戻した。
担架の布がかけられる。
顔までは覆わなかった。
「少しだけ」
エマが言った。
誰も急かさなかった。
エマはローワンの顔を見た。
言いたいことは多すぎた。怒りも、恨みも、聞きたかったことも、なぜ戻ってきたのかも、なぜまた置いていくのかも、全部喉の奥で絡まった。
出てきたのは、違う言葉だった。
「遅いよ」
それだけだった。
マルタの目元が歪んだ。
ノルは視線を落とした。
オスカーは口元を押さえた。声を殺したのではない。声が出なかったのだろう。
担架が動いた。
戸口を越える時、朝の薄い光がローワンの顔に触れた。家の外の空気が入り、酒精と薬草の匂いを少しだけ押し流す。
昨日の夜、エマを送るために残されていた静けさが、父の背に移っていく。
エマは追えなかった。
寝台の縁を掴んだまま、指に力を込める。爪の端に残っていた白い粉が、布にこすれて落ちた。
隣で、オスカーも立てずにいた。
椅子の横には杖がある。
もう必要ないはずの杖が、倒れずに残っている。
戸口の向こうで足音が遠ざかる。
家の中には、椅子が残った。
小机の上には、布に包まれた白い欠片が二つ置かれている。
エマは、自分の手を見た。
ローワンに握られていた場所だけが、まだ形を覚えていた。
そこに何もないことが分かるまで、しばらく動けなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




