第66話 最後の夜
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足に障害がある
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマに治療を教えた
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
ニナがリディアを呼びに走った先で、ノルとリディアに出会う。二人はケインの指示で、すでにウォーカー家へ向かっていた。
家へ戻ると、寝台のそばでエマが倒れていた。オスカーは弱く息を吹き返していたが、リディアの魔法ではありえない変化が起きていた。床には、白く濁った石片が残されていた。
白鹿は、白骸晶が使われた可能性を確信する。ケインはウォーカー家へ向かい、監視所の記録を封じるよう命じた。だが、ローワンの帰還確認だけは、まだ空白のままだった。
夜が深くなるにつれて、家の中の声は少しずつ減っていった。
昼間から何度も開いた扉は、今は閉じられている。戸口の外には白鹿の者が残り、通りへ出る細い道にも見張りが立っていた。台所の火は落とされ、薬草と酒精の匂いだけが、まだ部屋の隅に残っている。
リディアは最後まで寝室に残ろうとしたが、マルタが肩に手を置いた。
「少し座りな」
「まだ、確かめることが」
「見たよ。あたしも、あんたも。これ以上は、手じゃなくて体を壊す」
マルタの声は荒くなかった。疲れすぎて、角が削れた声だった。
リディアは寝台の方を見た。
エマは、眠っているように寝かされていた。
髪についた白い粉は落とされている。頬も拭われていた。袖の汚れは完全には取れず、布の端に薄く残っている。それでも、ダンジョンから担ぎ出された時よりは、ずっと穏やかに見えた。
穏やかすぎた。
リディアは唇を結び、ようやく寝室を出た。マルタもその後に続く。扉は閉めきられなかった。何かあればすぐ入れるように、指一本分だけ隙間が残された。
寝室に残ったのは、三人だった。
寝台のそばに、オスカーが座っている。
杖は椅子の横に立てかけられたままだった。遠ざけられたわけではない。もういらなくなったと、誰かが言ったわけでもない。ただ、必要だったものが急に役目を失い、そこに残されているように見えた。
オスカーは自分の足を見るたび、すぐに目を逸らした。
ローワンは、部屋の隅に立っていた。
肩には白鹿の布が巻かれている。額の傷も処置されていたが、顔色は戻っていない。戻っていないのは、怪我のせいだけではなかった。
オスカーの足。
エマの寝顔。
床に落ちていた、白く濁った石片。
その三つだけで、ローワンには十分だった。
ローワンは、寝台の横の椅子へ近づいた。背の端に、薄く擦れた跡がある。誰かが何度も手をかけた跡だった。
座っていい場所なのか、分からなかった。
それでも、立ったままではいられなかった。
ローワンは椅子に腰を下ろした。
木が軋む。
その音に、オスカーの肩がわずかに動いた。
「父さん」
声は、ひどくかすれていた。
「起きていたのか」
「寝られない」
オスカーはエマの手を握っていた。強く握っているわけではない。強く握れば、壊してしまうと思っているような手つきだった。
「寝たら、姉さんが」
そこで言葉が止まった。
ローワンは続きを促さなかった。
オスカーは目を伏せたまま、喉の奥で小さく言った。
「怒るって言ったのに」
ローワンはエマを見た。
「そうか」
「あとで怒るって。今は息をしてって。だから、僕」
オスカーの指が、エマの手に触れたまま震えた。
「怒られないと、困る」
ローワンは答えられなかった。
何を言っても、今のオスカーには軽すぎた。
ローワンは、エマの指先に視線を落とした。
爪の端に、白い粉がかすかに残っていた。ダンジョンの粉か、白い石の欠片か、もう見分けがつかない。
「エマは」
ローワンはゆっくり言った。
「怒るのが下手だった」
オスカーがわずかに顔を動かした。
「怒ってばかりだったよ」
「そう見えたか」
「見えた」
「たぶん、本人もそう思っていた」
ローワンは椅子の背に手をかけた。指先に木のざらつきが残る。
「小さい頃、オスカーの布を直すと言い出したことがある。まだ針を持たせるには早かった。ミラは止めたんだが、エマは聞かなかった」
オスカーは何も言わない。
けれど、聞いていた。
「端を縫えばいいだけの布だった。なのに縫い目は曲がり、途中で指も刺した。ミラに代われと言われて、エマは泣きそうな顔で怒った。泣いていないと言い張りながら、最後まで譲らなかった」
ローワンの口元は笑わなかった。
思い出しているのに、懐かしむことができなかった。
「結局、ミラはほどかなかった。曲がったまま使った」
「……母さんが?」
「ああ」
「なんで」
「エマが直したものだからだ」
オスカーの喉が小さく動いた。
「姉さん、そんなの覚えてないよ」
「覚えていないだろうな。だが、あの子はずっとそうだった。きれいにできなくても、手を出した。間に合わなくても、走った。間違えても、目の前のものから逃げなかった」
そこで言葉を切った。
オスカーはエマの手を見ていた。
「僕は逃げた」
「違う」
「違わない」
すぐに返ってきた。
前にも、誰かに同じ言い方をしたのだろう。ローワンは、それを知らない。知らない時間があまりに多かった。
「僕は、姉さんを待たなかった。家にも戻らなかった。父さんにも、姉さんにも、何も言わなかった」
「言えなかったんだろう」
「同じだよ」
「同じではない」
ローワンの声は、思ったより低く出た。
オスカーが初めて、こちらを見た。
ローワンはその目から逃げなかった。
「言えなかったことと、言わなかったことは同じじゃない。俺は、その違いを何度も間違えた」
オスカーは眉を寄せた。
「父さんも、言えなかったの」
「俺は、言わなかった」
ローワンは答えた。
「言えなかったふりをした」
寝室の灯りが、小さく揺れた。
外の廊下で、誰かが歩く音がした。すぐに遠ざかる。
オスカーはエマの手を握り直した。
「姉さんは、帰るって言った」
「聞いた」
「僕のところへ帰るって」
「……ああ」
「帰ってきたのに」
言葉がそこで途切れた。
ローワンは、オスカーの膝の上に置かれた手を見た。足はもう動く。立とうと思えば立てる。歩こうと思えば歩ける。だが、オスカーは一歩も動かない。
治った足が、今は鎖のように見えた。
「俺は」
言いかけて、声が削れた。
「俺は、間に合わなかった」
オスカーは何も言わなかった。
「ミラの時も」
ローワンは続けた。
「お前たちの時も」
椅子の足元に、古い木箱が見えた。
棚の下に押し込まれるように置かれている。蓋の角が欠け、側面には布で磨かれたような鈍い艶がある。エマが普段触る箱ではない。けれど、捨てられずに残されていた。
ローワンの視線が、そこで止まった。
ミラの箱だった。
祈り紐をしまっていた箱。古い布、ほどいた糸、使わなくなった小さな針入れ。そういうものを、ミラはまとめてそこに入れていた。
見つけてほしいものは、捨てないものの中へ入れる。
若い頃のミラが、笑いながら言った声が戻った。
隠すなら、忘れられる場所じゃ駄目。忘れない場所に隠すの。
ローワンは、箱へ伸びかけた手を止めた。
今はまだ駄目だ。オスカーは起きている。
何をしているのか聞かれる。ローワン自身にも、まだ答えはなかった。
今は、オスカーを休ませる方が先だった。
「父さん?」
オスカーが呼んだ。
ローワンは箱から目を離した。
「古い箱だ」
「母さんの?」
「ああ」
それだけにした。
オスカーはそれ以上聞かなかった。聞く力が、もう残っていなかったのかもしれない。
エマの手を握ったまま、椅子の背に体を預ける。目はまだ開いている。けれど、何かを見ているというより、灯りのある場所を見失わないようにしているだけだった。
「少し横になれ」
ローワンは言った。
「いやだ」
「寝ろとは言わない。背だけ預けろ」
オスカーは答えなかった。
ローワンは寝台の横に置かれていた布を取り、オスカーの膝へかけた。
オスカーは払いのけなかった。
指だけが、エマの手をかすかに握り直す。
「姉さんが」
声が、途中で薄くなった。
「怒るって、言ったのに」
「ああ」
「まだ、怒られてない」
ローワンは頷いた。
「……エマを頼む」
オスカーのまぶたが落ちた。
すぐに開こうとして、半分で止まる。
「父さんも」
声は、もう息に近かった。
「怒られるよ」
それきり、続きは出なかった。
ローワンはしばらく動かなかった。
オスカーの呼吸が、少しずつ整っていく。
ローワンは、エマの手を握ったまま眠っているオスカーの指には触れなかった。
離させる気にはなれなかった。
廊下の向こうで、マルタたちの低い声がした。言葉までは聞こえない。家の中には、まだ人がいる。助けようとした人間がいる。止めることのできる人間もいる。
だから、急がなければならなかった。
ローワンは木箱を引き寄せた。
蓋を開けると、乾いた布の匂いがした。
古い布と、ほどいた糸。小さな針入れ。祈り紐を作る時に使ったと思われる細い残り糸も、端にまとめられていた。色はくすんでいる。けれど、捨てずに残されている。
ミラらしいと思った。
ローワンは布を一枚ずつどけた。
底には薄い板があるだけだった。
指で縁をなぞる。角の一つだけ、わずかに沈みが違った。見ただけでは分からない。長く触れた者だけが気づく程度の細工だった。
ミラ。
声にはしなかった。
爪をかけると、底板は音もなく浮いた。
下には、薄い布が何枚も重ねられていた。清めの印ではない。神殿のものでもない。
祈り紐の反応を鈍らせる布だった。
触れた瞬間、ローワンには分かった。ミラが、危ないものを近くに置く時にだけ使っていた布だ。
紐が熱を持たないように。重くならないように。
ミラが、自分の手で裂き、重ね、包んだものだった。
ローワンは布をほどいた。
白い石があった。
光ってはいない。温かくも冷たくもない。ただ、そこにあるだけで、部屋の灯りの色を少し変えてしまうようだった。
寝台のそばで、オスカーの指がかすかに動いた。
胸元の祈り紐に触れたのだと分かった。だが、目は開かない。眉がわずかに寄っただけで、また浅い呼吸に戻る。
ローワンは石を手に取った。
軽いはずの大きさなのに、手首が沈む。
「隠していたんだな、ミラ」
ミラへ言ったのか、自分へ言ったのか、分からなかった。
エマの手を見る。
オスカーの足を見る。
床に落ちていた、白く濁った石片を思い出す。
ローワンは、それが何を奪うものか知っていた。
それでも、石を置かなかった。
ローワンはエマのそばへ戻った。椅子に腰を下ろすと、木が小さく軋んだ。オスカーは起きなかった。エマも動かない。
ローワンは白い石を、エマの空いている手のそばへ置いた。
そのまま、エマの指を握る。
冷たい手だった。
「エマ」
声は出た。
届くかどうかは、もう分からなかった。
「怒っていい」
石の白が、灯りの中で濁った。
ローワンは目を閉じなかった。
最後くらい、見ていなければならないと思った。
灯りが細くなった。
風はない。
扉の隙間から入る空気も動いていない。
それでも火は、芯の周りで小さく震えた。
白い石が光ったわけではなかった。むしろ、灯りを吸ったように見えた。部屋の中の色が薄くなり、布の白も、壁の影も、ローワンの手の甲に浮いた血管も、少しずつ遠くなる。
ローワンは歯を食いしばった。
痛みはなかった。
痛みがないことが、怖かった。
体の奥から、熱ではないものが抜けていく。指先の感覚が薄れ、肩の傷の疼きも消え、足元の床の硬さが分からなくなる。
代わりに、古いものばかりが戻ってきた。
ミラが木箱に布をしまう背中。
小さなエマが、絡んだ糸を隠そうとしている手。
寝台で熱を出したオスカーが、眠らないと言い張る声。
そして、家を出ていく自分の足音。
記憶は順番を失い、ローワンの中で重なった。
それでも、ローワンはエマの手を包んだまま、目を閉じなかった。
閉じれば、最後まで逃げたことになる気がした。
「エマ」
声がかすれた。
「まだ、怒っていい」
手の中の石が、少しだけ温度を持った。
いや、温度を持ったのは石ではない。
エマの指だった。
ローワンの口元が、ほんの少しだけ動いた。
笑おうとしたのか、謝ろうとしたのか、自分でも分からなかった。
「オスカーを」
そこまで言って、言葉が切れた。
続きを言う力が残っていなかった。
石は、白く濁っていた。
さっきまであった奥行きが消え、乾いた欠片のようになっている。床に転がっていたもう一つの石片と同じ、使い終わったものの色だった。
ローワンの手から力が抜けた。
椅子の背にもたれ、頭がゆっくり傾く。
それでも、エマの手は離さなかった。
寝台の布が、かすかに動いた。
一度きりではなかった。
浅い呼吸が、部屋の中に落ちる。
ローワンはその音を聞いた。
聞いたと思った。
まぶたが、ようやく閉じる。
外の廊下で、誰かが小さく咳をした。隣室では、マルタが椅子を引く音がする。夜はまだ終わっていない。朝もまだ来ていない。
寝台の上で、エマの指がわずかに曲がった。
椅子のそばでは、ローワンが眠るように動かなくなっていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




