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ダンジョンサポーター  作者: Aramaki_mai
第四章 家へ戻る道
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第65話 空欄の名

ダンジョンに潜る人たちの話です。

ライト文芸寄りのダークファンタジーです。


▼登場人物

エマ・ウォーカー     本小説の主人公

オスカー・ウォーカー   エマの弟

ローワン・ウォーカー   エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった

マルタ・リード      治療師 エマに治療を教えた

オルブライト・ケイン   白鹿のギルド長

ノル・ハーヴェイ     白鹿の探索隊長の一人

ニナ・クラーク      白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間

リディア・グレイス    神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者



▼主人公について

白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。

元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。


あらすじ

オスカーの胸元から見つかった白い石を前に、エマは弟を取り戻したい一心でそれを握った。

ニナと白鹿の護衛を部屋の外へ出し、動かないオスカーの手を取ったエマは、戻ってきてほしいと願う。

白い石は熱を帯び、やがて乾いた欠片となって床へ落ちた。

オスカーはかすかに息を吹き返す。けれどそのそばで、エマは力を失い、寝台の横に倒れていた。続けるよう命じた。帰還記録に残されたローワンの空欄だけが、まだ閉じられずに残っていた。

ウォーカー家の灯りは、消されなかった。


戸口の外には白鹿の護衛が立ち、通りの端には別の者が配置された。近所の者が足を止めても、戸口までは近づけない。何があったのかと小声で聞かれても、護衛は答えなかった。


家の中では、リディアが寝台の横に膝をついていた。


オスカーの胸元に置かれた布が、かすかに上下している。喉の奥で、細い空気が擦れる。手首に触れれば、弱い脈が返った。


それでも、誰も喜ばなかった。


ニナは寝台のそばに立ち、オスカーの顔から目を離せずにいた。死んでいた時よりも、苦しそうに見える。唇には色が戻りきらず、まぶたの下では何かを追うように目が動いている。


名前を呼びたい。


肩に触れて、ここにいると伝えたい。


けれど、ノルに言われた通り、体には触れなかった。


起こさない。動かさない。喉の音が変われば知らせる。


その三つだけを、頭の中で繰り返していた。


寝台の横には、杖が立てかけられている。いつもの場所だった。椅子の背に寄せるように、倒れない角度で置かれている。オスカーが自分で置いたのではない。誰かが戻したわけでもない。最初からそこにあったものが、そのまま取り残されているだけだった。


ニナは、その杖を避けるように視線を下げた。


見てしまうと、寝台の上の足が目に入る。


布の下で、オスカーの足はまっすぐ伸びていた。痛みを避ける角度ではない。寝返りを打つ時に無意識でかばう形でもない。知らない人間が見れば、何もおかしいとは思わないかもしれない。


だから、余計におかしかった。


リディアは、もう魔法を使っていなかった。


白いスクロールは鞄の中へ戻されている。使えば淡い光は出る。けれど、光はエマの体に留まらなかった。傷を探す魔法が、治す場所を見つけられない。その様子を二度見たあと、リディアは三度目を開かなかった。


エマは床に横たえられていた。


寝台から離しすぎず、オスカーの手が届きそうで届かない場所に、布を敷かれている。頬についた白い粉は拭われた。髪も顔の横へ整えられていた。けれど、それだけだった。


少し休んでいるだけのように見える。


そう思った瞬間、ニナは自分の指を強く握った。


違う。


そう見たいだけだ。


リディアが、エマの手に布をかけた。指先が床に触れないように、丁寧に。


「体を動かしますか」


ノルが低く聞いた。


リディアは首を振った。


「今は、このままにしてください。動かして変わるものがあるなら動かします。でも、今は……」


言葉はそこで止まった。


ノルは続きを求めなかった。


床の白い欠片には、布がかけられている。小さな布だった。けれど、その下にあるものが部屋全体の重さを変えていた。誰も踏まないよう、ノルが椅子を少し動かして囲いを作った。


「欠片はそのままだ」


ノルが言った。


「ギルド長が来るまで、誰も触るな。見るだけなら、俺が許可した者だけだ」


リディアは小さく頷いた。


「触るつもりはありません」


その声には、怖れがあった。


白魔導士の怖れだった。分からないものを前にした怖れではない。知ってはいけないものに近づいてしまった人間の声だった。


戸が叩かれた。


護衛が外から声をかける。


「マルタさんです」


「通せ」


ノルが答えると、扉が開いた。


マルタは息を切らして入ってきた。肩掛けも直さず、治療鞄を片手に下げている。外套の裾に町の埃がついていた。急患の処置を終えて、そのまま走ってきたのだろう。


部屋に入った瞬間、マルタは全員を確かめた。


リディア。ノル。ニナ。寝台。床。


布をかけられた白い欠片。


それだけで、何かを察した顔になった。


「どっちから」


短く聞いた。


リディアが答える。


「オスカーさんは、胸が動いています。脈も弱いですが、取れます。傷は外から見える範囲では塞がっています。ただ、状態が普通ではありません。エマさんは……魔法が届きません」


マルタは何も言わず、まずオスカーのそばへ寄った。


首筋に触れ、まぶたを上げ、胸の音を聞く。足に触れかけて、途中で手を止めた。そこに驚きを出さないようにしているのが、ニナにも分かった。


「起こしたかい」


「いいえ」


「なら、起こさない。吐くかもしれない。詰まらせるかもしれない。横向きにしすぎるな。けど、喉の音が濁ったら呼びな」


ニナはすぐに頷いた。


「はい」


「返事は一回でいい。顔を見てな」


マルタはそう言って、次にエマのそばへ膝をついた。


その手つきは、いつもと同じだった。


急がない。


乱れない。


まず見る。触れる。確かめる。


けれど、エマの首筋に指を置いた時、マルタの眉間に深い皺が寄った。指を少しずらす。反対側へ回る。胸元に耳を近づける。手首を取る。


長い時間ではなかった。


それでも、部屋にいる者には長すぎた。


やがて、マルタはエマの手を布の上へ戻した。


「リディア」


「はい」


「魔法で拾えないんだね」


「はい」


「傷がないからじゃないね。……もう、手をかける場所がない」


リディアは小さく目を伏せた。


「そう見えます」


ニナは二人の言葉を聞いていた。


意味は分かる。


分かるのに、受け取れない。


手をかける場所がない。


その言葉が何を指しているのか、考えれば考えるほど、頭の中が白くなった。


マルタはニナへ顔を向けた。


「ニナ」


「はい」


「立っていられるなら、立ってな。座るなら壁を背にして座りな。途中で倒れられると、こっちの手が増える」


「立っています」


声は震えた。


マルタはそれ以上言わなかった。


「ノル」


「はい」


「水を替えな。豆の器。匂いが出る。今夜、この部屋で誰かが吐いたら困る」


ノルは一瞬だけ台所を見た。


水に浸された豆の器が、端に置かれていた。表面の泡は増えている。薄い灯りの下で、濁った水だけが妙に生々しかった。


「俺が」


ニナが言いかけた。


ノルが先に動いた。


「俺がやる」


隊長が豆の器を持ち上げる姿は、場違いに見えた。


それでも、誰も止めなかった。


水を捨て、新しい水を入れ、器を台所の奥へ戻す。その小さな作業で、部屋の空気が少しだけ動いた。まだ守れる者がいる。手を動かせる者がいる。全部が止まったわけではない。


そう思おうとして、ニナは寝台を見た。


オスカーの胸元の布が、また小さく動いた。


マルタはエマの横に座ったまま、布を整えた。


「今は、息のある子を守る。エマの方は、リディアと私が見る」


床のエマを軽く扱った言葉ではなかった。


名前を呼べば、誰かが崩れる。今は手順を置くために、マルタは声を硬くしたのだと分かった。


外で足音が近づいた。


今度は複数だった。


戸口の護衛が声をかけるより先に、低い声がした。


「ケインだ」


ノルが扉へ向かった。


戸が開き、ケインが入ってきた。後ろにはミレイがいる。ミレイは弓を背に回したままだったが、家の中へ入る前に手袋を外した。武器を持つ手でこの部屋のものに触れないためだと、ニナは遅れて気づいた。


ケインは部屋の中央で足を止めた。


寝台、床、布をかけられた欠片、杖、台所の豆の器。


視線が順に渡る。


その動きだけで、この部屋で起きたことを拾っていく。


「リディア」


「オスカーさんは息があります。傷は外から見える範囲では塞がっています。足も……以前とは違います」


リディアはそこで一度言葉を切った。


「私の魔法では説明できません」


ケインは頷いた。


「エマは」


「反応がありません。魔法が届きません」


ケインの顔は崩れなかった。


けれど、目の奥で何かが沈んだ。


「マルタ」


「私が見ても同じだよ。息はない。脈もない。体はまだ温かさを残してるが、生きてる時の温かさじゃない」


ニナの足元が揺れた。


マルタは続けた。


「オスカーの方は守る。今、起こすのは危ない。何が戻って、何が戻ってないのか分からない。熱も出るかもしれない。目を覚ましても、すぐ動かすな」


ケインは短く答えた。


「分かった」


それから、ノルの方を向いた。


「欠片は」


ノルは布のかかった床を指した。


「そこです。触れていません」


「そのままでいい」


「回収しませんか」


ミレイが小さく聞いた。


ケインは首を振った。


「今ここで動かせば、誰が触ったかが増える。まず囲え。持ち出すのは、扱える者を決めてからだ」


ミレイは頷いた。


「外は押さえています。通りの端に二人。裏手に一人。見物はまだ増えていません」


「増やすな」


「はい」


ガイは、ケインより少し遅れて来た。


扉の外で一度足を止め、いつもの調子で入るには場所が悪すぎると判断したのか、黙って入ってきた。部屋の中の空気に触れた瞬間、口元に浮かべかけた何かを消した。


「監視所へは伝えた。ダンが記録を封じてる。今夜の通行写しは出させない。見た者の名も控えさせる」


ケインは頷いた。


「町は」


「東通りと倉庫通りは見てる。ロイたちの家にも人を置いた。今は騒がせない方がいい」


ニナの肩が動いた。


ロイ。


その名で、昼の市場が頭に戻りかけた。けれど、今はそこへ行けなかった。行けば、別の怒りに逃げてしまう。目の前の部屋から逃げてしまう。


ガイはニナの反応に気づいたが、何も言わなかった。


その代わり、ケインへ低く続けた。


「ローワンはまだだ」


ケインの目が、わずかに動いた。


「監視所にも、治療所にも、町外れにもいない。ダンジョンからの追加帰還もなし。ダンには、もしそれらしい者が戻れば、まず白鹿へ知らせろと言ってある」


ノルが言った。


「捜索隊は」


「出してる。ただ、深い方まで入れる隊は限られる。夜に無理をすれば、拾うものが増える」


ガイの声は苦かった。


軽く言い換えているだけで、意味は分かった。


死体を増やす。


ケインはしばらく黙った。


「切るな」


「切ってない」


ガイはすぐに返した。


「ただ、探せる場所と探せない場所がある。そこは分けてる」


「それでいい」


ケインはエマの方へ体を向けた。


「今夜は、この家を白鹿の管理下に置く。出入りは俺、ノル、リディア、マルタ、必要な護衛だけだ。オスカーが目を覚ましても、外へは出さない。エマのことを誰が伝えるかも、こちらで決める」


「目を覚ました時に」


ニナは思わず口を開いた。


全員の注意がこちらへ向く。


言ってはいけないことを言った気がして、喉が縮んだ。それでも、言葉は止まらなかった。


「オスカーさんが目を覚ました時に、エマさんがそこにいなかったら」


言いながら、視界が滲んだ。


「また、置いていかれたと思うんじゃないですか」


返事の代わりに、部屋の灯りが小さく揺れた。


ケインはニナを責めなかった。けれど、甘い目もしなかった。


「だから、順番を間違えるな」


低い声だった。


「嘘はつかん。だが、目を覚ました瞬間に全部を渡すな」


マルタが頷いた。


「まず息だよ。心を裂くのは、そのあとでも遅くない」


その言い方は乱暴だった。


でも、乱暴な言葉の奥に、手を離さない強さがあった。


ニナは小さく頷いた。


部屋の時間は、そこから遅くなった。


誰かが水を替える。誰かが外へ出る。誰かが戻ってくる。報告は短い。


監視所に動きなし。


町外れに該当者なし。


倉庫通りで新しい目撃なし。


ダンジョンからの帰還なし。


そのたびに、ケインのそばに置かれた小さな控え札へ、ミレイが文字を書き足した。


ローワン・ウォーカー。


未帰還。


その文字だけが、何度もそこに戻ってくる。


灯りの芯が短くなり、マルタが替えた。リディアはオスカーの熱を確かめ、喉の音を聞いた。ニナは何度も戸口を見た。誰かが入ってくるたび、違うと分かっていても、目がそちらへ動いた。


エマは動かなかった。


マルタが布をかけ直し、リディアが髪を整えた。ケインは一度だけ、そのそばに膝をついた。何か言うのかと思ったが、何も言わなかった。ただ、エマの手元にずれていた布の角を直した。


その手つきは、ギルド長のものではなかった。


年上の誰かが、帰ってこなかった子の袖を直す時の手だった。


ノルは外へ出た。


護衛の配置を確かめるためだった。戸口の右に一人、裏手に一人、通りの角に一人。指示した通りに立っている。近所の者が近づきすぎないよう、通りの奥にはミレイが出した者がいる。


問題はなかった。


それでも、ノルはすぐには中へ戻らなかった。


戸口の横の壁に手をつく。古い木の板は冷えていた。家の中から、オスカーの喉が小さく鳴る音が聞こえた。続いて、リディアの低い声。マルタが短く何かを返す。


エマの名は、誰も呼ばなかった。


呼べば、返らないことだけが部屋に増える。


ノルは目を閉じた。


全員で帰る。


何度も使ってきた言葉だった。隊に言い、若手に言い、自分にも言い聞かせてきた。エマも、同じ言葉を何度も手の中で扱っていた。


連れて帰った。


そう言えない。


帰したとも、言えない。


ノルは息を吸った。胸の奥が引っかかったが、声にはしなかった。


扉の内側で、椅子がわずかに鳴った。


ノルは目元を指で押さえ、手を下ろした。何もなかった顔に戻る。戸口の護衛がこちらを見たが、何も聞かなかった。


「角の者を替えろ。長く立たせるな」


「はい」


「裏手も、声を落とせ。近所に聞かせるな」


「分かりました」


指示を出すと、足音がひとつ近づいてきた。


ガイだった。


「ノル」


その声だけで、報告の種類が変わったと分かった。


ノルは顔を上げた。


「見つかったか」


ガイは頷いた。


「まだ生きてる。けど、立ってるのが不思議なくらいだ」


ノルは扉を開けた。


「ギルド長」


部屋の中の空気が動いた。


ケインが振り返る。


「ローワンか」


「ああ」


ガイは戸口の外で一度息を吐いた。


「連れてくる」


夜は深くなっていた。


外の通りの声は消え、風が戸口の隙間を鳴らしている。オスカーの額に薄く汗が浮かび、リディアが布で拭った。マルタはその横で、薬草を湯に浸していた。


それからすぐ、足音が乱れて戻ってきた。


一人ではない。


二人、三人。


ガイの声がした。


「戸を開けろ。支える手を貸せ」


ノルがすぐに扉へ向かった。


戸が開いた瞬間、外の冷えた空気が流れ込む。


ガイは戸口の外にいた。片手で誰かの肩を支えている。もう一方には、白鹿の探索者がついていた。


その間に、男がいた。


ローワン・ウォーカーだった。


顔は白く、唇は乾いている。服は裂け、肩から胸にかけて古い血と新しい血が混じっていた。手首には布が巻かれている。誰かが応急処置をした跡だった。巻き方は荒くない。だが、白鹿のものでも、マルタのものでもなかった。


ローワンは立っていた。


立っているだけで、体の中の何かを削っているようだった。


ガイが低く言った。


「監視所の少し手前で倒れた。自分で来たと言い張ったが、途中の足跡が変だ。どこから出てきたのか、まだ分からん」


ケインはローワンに向き直った。


「中へ」


ローワンは首を振ろうとした。


「オスカーは」


声は掠れていた。


「息はある」


ケインが答えた。


ローワンの目が揺れた。


その一言だけで、膝が折れそうになる。ガイが支え直した。


「入れ。ここで倒れるな」


ガイの声には、いつもの軽さがなかった。


ローワンは家の中へ入った。


最初に向かったのは寝台だった。


オスカーの胸が、浅く上下している。杖は椅子の横にある。布の下で、足はまっすぐ伸びている。


ローワンの顔から、血の気が引いた。


「……使われたのか」


沈黙が落ちた。


答えなくても、ローワンには分かったのだろう。


彼は次に、床の方を向いた。


エマがいた。


布の上で、静かに横たわっている。髪は整えられ、手には布がかけられている。寝ているように見える。けれど、部屋の誰も、寝ている者を見る顔をしていなかった。


ローワンは一歩進もうとして、足がもつれた。


ノルが支えた。


「無理をするな」


ローワンはノルの手を見た。


「……間に合ったのか」


その問いは、誰に向けたものでもなかった。


誰も答えられなかった。


ローワンは、もう一度エマへ向き直った。


それだけで、答えは十分だった。


「そうか」


喉の奥で、声が潰れた。


「また」


ローワンは膝をついた。


床板に手をつく。指先に力が入らず、布の端を掴みかけて、触れる直前で止めた。


「また、間に合わなかった」


誰も動かなかった。


マルタも、リディアも、ノルも、ケインも。


ニナは寝台の横で、ただオスカーの胸の動きを追っていた。ローワンの声に振り向けば、自分まで崩れる気がした。


ローワンは、エマの顔から目を逸らせずにいた。


「ミラの時も」


言葉は続かなかった。


言えば、部屋の中に別の死まで呼んでしまう。そう分かっているのに、止められない声だった。


「置いていった。今度は、戻ったのに」


ローワンの肩が震えた。


「戻ったのに、何も」


ケインが静かに言った。


「ローワン」


ローワンは顔を上げなかった。


「白い欠片がある。触れさせていない」


ローワンの指が止まった。


ゆっくりと、布のかかった床へ意識が移る。


その場所へ向ける目は、父親のものではなかった。


かつて白骸晶に関わった者の目だった。見たくないものを、見なければならない者の目だった。


「欠片になっているなら」


ローワンはかすれた声で言った。


「もう、使われたあとだ」


ケインは何も返さなかった。


ローワンはオスカーへ、次にエマへ、そして部屋の隅へ顔を向けた。


棚の下に、古い木箱があった。


小さな箱だった。長い間動かされていないのか、蓋の縁に薄く埃が積もっている。ニナは、それが何なのか知らなかった。オスカーの裁縫道具か、エマの古い荷か、亡くなった母親のものか。


けれど、ローワンの顔が変わった。


懐かしさではない。


恐れでもない。


もっと深く、古い傷を素手で押さえたような顔だった。


「ミラ」


その名は、とても小さかった。


ケインが目を細めた。


「何だ」


ローワンは答えなかった。


膝をついたまま、棚の下の木箱を見ている。


そこだけ、夜の中で沈まずに残っていた。


ミラが、そこだけは捨てないでと言った箱だった。



本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。

シナリオや展開を変えるつもりはありません。

ご容赦ください。

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