第64話 息をしている
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟 生まれつき足に障害がある
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
リディア・グレイス 神殿からギルドへ派遣された白魔導士/聖職者
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
ニナがリディアを呼びに走ったあと、エマは白鹿の護衛に、着替えとオスカーの服を整えたいと告げて部屋を離れさせる。家の中には、灯りと、濁った豆の水と、動かないオスカー、そして彼の胸元から見つかった白い石だけが残された。
エマはローワンの警告を思い出しながらも、その石を手放せなかった。サイモンの言葉、ダンジョンでのオスカーの最期、帰ると交わした約束が胸に残り、彼女は白い石を握ったまま、弟の手を取る。
やがて白い石は熱を帯び、オスカーの胸がわずかに動き始める。エマは「戻ってきて」と願い、もう一度だけ弟の声を聞こうとする。石は白く乾いた欠片となって床へ落ち、オスカーは浅く息を吹き返す。だがその代償のように、エマの体から力が抜け、彼女は寝台のそばで倒れた。
ニナは、角を曲がるところで足を滑らせかけた。
夜の石畳には、昼の熱がまだ少し残っている。けれど、足の裏に返ってくる硬さは冷たかった。左腕をかばって走ると、体の片側だけが遅れる。息が乱れ、脇腹が痛む。それでも足を止める気にはなれなかった。
リディアを呼ぶ。
エマはそう言った。
オスカーをこのままにしたくない。布を整えたい。きれいにしてあげたい。リディアなら、何をすればいいか分かるから。
その言葉は間違っていなかった。
だから、ニナは外へ出た。
扉を閉める時、エマは寝台のそばにいた。灯りは小さく、台所には水に浸されたままの豆があった。オスカーの杖は椅子の横に立てかけてあった。まるで、少し席を外しただけのように。
ニナは唇を噛んだ。
違う。
少し席を外しただけではない。
そのことを分かっていたのに、そう見えた自分が嫌だった。
白鹿の館へ向かう道に出たところで、向こうから灯りが二つ近づいてきた。ひとつは高く、もうひとつは低い。足音は急いでいるが、乱れてはいない。
ニナは足を止めた。
「ニナ」
先に名を呼んだのはノルだった。
外套の前は開いている。肩には縄と小さな革袋。急いで出た装備なのに、持つべきものは抜けていなかった。その隣に、リディアがいる。白魔導士の外套を羽織り、片手に治療鞄を抱えていた。
ニナは、呼びに行く相手がもうこちらへ来ていることを理解するまで、少し時間がかかった。
「リディアさんを、呼びに」
声が掠れた。
リディアが近づく。
「エマさんは」
「家にいます。オスカーさんを……整えたいって」
ノルの目がわずかに細くなった。
「一人か」
ニナは答えようとして、そこで初めて自分の足元を見た。
一人。
その言葉が、ようやく形を持った。
「……はい」
リディアの顔色が変わった。けれど、何かを言う前に、ノルが歩き出した。
「戻るぞ」
責める声ではなかった。
それが、かえって痛かった。
ニナは追いかけようとして、足が一瞬遅れた。ノルは振り返らず、ただ少しだけ歩幅を落とした。待っている、と分かるほどではない。けれど、置いていく歩き方でもなかった。
「ケインさんが」
ニナは息を継ぎながら聞いた。
「エマを一人にするなと言った」
ノルは短く答えた。
「状況を聞いて、すぐリディアを呼んだ。俺が連れて行くことになった」
「でも、私は」
「今は走れ」
その言い方に、ニナは口を閉じた。
今は言い訳をする時ではない。謝る時でもない。エマの家へ戻る。それだけを先にしなければならなかった。
ウォーカー家の前に着いた時、戸口の護衛二人は扉の方を向いていた。
若い探索者の手が、戸の取っ手にかかりかけている。もう一人の支援係は、声をかけるべきか迷うように、灯りを持ったまま立っていた。
ノルの足が止まる。
「何があった」
若い探索者は振り返った。
「中で物音がしました。呼びかけても、返事がありません」
「入ったか」
「まだです。着替えると聞いていたので」
言い終わる前に、ノルは扉へ手を伸ばした。
「エマ」
返事はなかった。
ノルは一拍だけ待った。
その一拍が、ニナには長すぎた。
次の瞬間、扉が開いた。
家の中は、灯りがあるのに暗く見えた。
台所の端に置かれた豆の器が、最初に目に入った。水は濁り、表面に浮いた泡が灯りを鈍く返している。椅子は二つ。片方の横には杖が立てかけてある。倒れていない。倒れていないことが、妙に場違いだった。
寝台のそばに、エマが倒れていた。
ニナは声を出せなかった。
リディアが先に動いた。治療鞄を床へ置き、膝をつく。ノルは部屋を見た。寝台、床、白い欠片、オスカー、エマ、戸口、窓。目だけで順番に拾っていく。
「中へ。戸を閉めろ。外には誰も入れるな」
護衛たちが動いた。
ニナは戸口に立ったままだった。足が、床板の境目から先へ進まない。
寝台の布が、ほんの少し持ち上がった。
リディアの手が止まる。
「オスカーさんが」
ニナはやっと寝台を見た。
オスカーの胸元にかけられた布が、ゆっくり沈んで、また小さく上がった。見逃しそうなほど弱い動きだった。喉の奥で、空気が擦れるような音がした。
「……生きてる」
ニナの声は、自分のものではないようだった。
リディアは喜ばなかった。
すぐにオスカーの首筋へ指を当て、胸元を確かめる。傷に触れないよう、慎重に布をずらした。その手が、そこで止まった。
「リディア」
ノルが言った。
リディアはすぐには答えなかった。目だけが、オスカーの脚の方へ動いた。
布の下で、足がまっすぐ伸びていた。
ニナは最初、それが何を意味するのか分からなかった。
オスカーは、いつも足を少し曲げていた。痛まない向きを探すように、寝ている時も歩く時も、体のどこかがかばう形になっていた。杖は椅子の横にある。なのに、寝台の上の足は、まるで最初からそうだったように伸びている。
リディアが小さく息を吸った。
「……私の魔法では、起きないことです」
ノルは床に落ちた白い欠片を見た。
「何が起きた」
リディアは答えなかった。答えられなかったのだと、ニナにも分かった。
リディアはすぐにエマの方へ移った。
エマは床に横たわっていた。頬に白い粉がついている。片手は寝台の布に触れたまま、もう片方の手は床の上に落ちていた。指の近くに、小さな白い欠片がある。
きれいな石ではなかった。
ただ乾いて、そこにあった。
「エマさん」
リディアが呼んだ。
返事はない。
リディアはエマの肩に触れ、首筋へ指を当てた。
ニナは、その手元を見ていた。
何度も見てきた動きだった。治療部屋で、ダンジョンの中で、帰還直後の処置で。まず見る。触れる。動かすべきか、動かしてはいけないかを決める。
リディアの指が、動かなかった。
少しして、位置を変える。
もう一度。
それでも、リディアは何も言わない。
ニナは空気を吸おうとして、うまく吸えなかった。
「リディアさん」
自分の声が遠かった。
リディアは鞄から小さなスクロールを取り出した。だが、開ききる前に手が止まる。白い紙の端が、灯りの中で震えていた。
「使え」
ノルが言った。
「使います。でも」
リディアは言葉を切った。
迷っているのではない。分かっていることを、声にする場所を探している顔だった。
それでも、彼女はスクロールを開いた。
淡い光がエマの胸元に落ちる。
光は傷を探すように広がった。腕へ、肩へ、喉へ。けれど、どこにも留まらない。治す場所を見つけられないまま、薄くなっていく。
リディアの手が、エマの胸元に置かれた。
「届きません」
静かな声だった。
その言葉だけで、部屋の中の空気が変わった。
ニナの膝から力が抜けかけた。戸口の縁に手を伸ばそうとして、途中でやめる。掴んだら崩れる気がした。
灯りは消さない。
そう言ったエマの声が、今になって耳の奥で重くなった。
「私が」
声が勝手に出た。
「私が、外に行ったから」
ノルがこちらを見た。
否定してほしかったわけではない。
でも、黙られるのも怖かった。
ノルは少しだけ間を置いた。
「今は、それを置け」
その言い方は冷たくなかった。
けれど、許しでもなかった。
「エマが何をしたのか、オスカーに何が起きているのか、先に見る」
ニナは唇を噛んだ。
置けと言われて、置けるものではない。
それでも、今ここで泣いて膝をつけば、エマのそばにいる資格まで失う気がした。
「……はい」
声だけは出した。
リディアはエマの目元に指を近づけ、次に手首を取った。顔を伏せる。祈るような姿勢に見えた。けれど、祈っているのではなかった。最後の確認をしているのだと分かった。
「リディア」
ノルの声が低くなる。
「オスカーさんは処置できます。弱いですが、こちらにいます。傷は……外から見える範囲では塞がっています。けれど、普通の治癒ではありません」
「エマは」
リディアは、エマの手を両手で包んだ。
「何も返ってきません」
ニナの耳の奥で、音が消えた。
水の音もない。
風の音もない。
ただ、台所の豆の器の表面で、小さな泡がひとつ弾けた。
ノルは目を閉じなかった。
「白い欠片には触るな」
リディアが顔を上げる。
「分かっています」
「布を」
ニナはすぐに棚へ向かった。何かをしなければならなかった。清潔な布を取り、戻る。手が震えた。布の角がうまく揃わない。
ノルが受け取った。
「ニナ。オスカーのそばにいてくれ。音が変わったらすぐ言え。体を起こすな。声をかけるなら短くでいい」
「はい」
「リディアはエマを」
「続けます」
リディアはそう言った。
続ける。
それが何を意味するのか、ニナには分からなかった。蘇らせるという意味ではない。諦めないという言葉とも違う。リディアは、できることが尽きていると分かっていて、それでも手順を捨てない人の顔をしていた。
ノルは白い欠片のそばに布をかけた。直接触れないよう、床板の隙間ごと覆う。小さな欠片なのに、布の下でその場所だけが重く見えた。
「外の者」
戸口の向こうから返事が来る。
「はい」
「白鹿へ走れ。ギルド長に直接伝えろ。ウォーカー家で異変。オスカーは生存確認。エマは反応なし。白い石片あり。リディアが処置中。言葉を変えるな」
「分かりました」
「もう一人はここに残れ。誰も入れるな。マルタが来たら通せ」
足音が離れた。
ノルは次に窓を見た。
「外回りを増やす。通りの両端を押さえろ。敵が来るとは限らないが、見物人を集めるな」
残った護衛が頷き、すぐ外へ合図を出した。
ニナは寝台の横に立った。
オスカーの顔は、死んでいた時よりも苦しそうだった。
そのことが、胸に刺さった。
息をしている。
なのに、救われたようには見えなかった。
「オスカーさん」
声をかけると、まぶたがかすかに震えた。
ニナは身を乗り出しかけて、ノルの言葉を思い出し、止まった。
起こさない。
動かさない。
ただ見る。
それだけなのに、こんなに難しいとは思わなかった。
リディアはエマのそばで、もう一枚スクロールを開こうとしていた。ノルが止めるかと思った。けれど、止めなかった。
リディアの白い光は、今度もエマの体に留まらなかった。傷を探せない。失われたものの場所が、そこにないかのようだった。
リディアは静かに紙を閉じた。
「これ以上は、ただ消費するだけです」
その声に、悔しさが滲んでいた。
ノルは短く頷いた。
「分かった」
それだけだった。
慰めはなかった。
慰める余裕も、慰めが届く場所も、この部屋にはなかった。
白鹿の館では、まだ灯りが落ちていなかった。
ギルド長室の机には、いくつかの記録が開かれている。監視所の写し。ローワン・ウォーカーに関する古い紙束。ダンジョン内で救助された男の聞き取り。
男の証言は、何度読んでも途中で途切れていた。
サイモンとは、その日初めて会った。
荷を運べば金を払うと言われた。
神殿関係の搬送補助だと聞かされた。
白い石のことは知らない。
奥へ向かう理由も知らない。
そこから先は、何度聞いても同じだった。
知らない者は、知らない。
その事実は、時に嘘より扱いにくい。
ガイは壁際に立っていた。腕を組んでいるが、いつものような軽さはなかった。机の端に置かれた聞き取りの控えを見て、それから窓の外へ目をやる。
部屋の外で、急ぐ足音がした。
戸が叩かれる。
「入れ」
走ってきた若い探索者は、息を整える前に膝をつきかけた。
ケインは手で制した。
「立ったまま話せ。崩れるのは後でいい」
探索者は喉を鳴らし、言われた通りに立った。
「ウォーカー家で異変。オスカー・ウォーカー、生存確認。状態は不明。リディアさんが処置中です」
ケインの指が机の上で止まった。
ガイが顔を上げた。
「オスカーが?」
探索者は続けた。
「エマ・ウォーカー、反応なし。リディアさんの処置が届かない、と」
部屋の中の音が落ちた。
ガイの口元から、わずかに色が消えた。
「続けろ」
若い探索者は唇を引き結び、最後の言葉を出した。
「床に、白い石片があるそうです。ノルさんが、触れずに布をかけました」
ケインは目を伏せなかった。
ただ、机に置いていた手に力が入った。古い記録の紙が、指の下でわずかに歪む。
「リディアは何と言った」
「オスカーさんの状態は、自分の魔法では起きないことだと。エマさんには、何も返ってこないと」
ガイはしばらく黙っていた。
いつもなら、軽く何かを挟む。場をほどくためでも、自分の苛立ちを隠すためでも。けれど、今は口を開かなかった。
やがて、低く言った。
「ヴェルグか」
ケインの返事は早かった。
「まだ決めるな」
ガイは何も言わなかった。
ケインは、机の上に置かれた聞き取りの控えへ目を落とした。
「だが、商会筋が嗅ぎつけている可能性はある。神殿の名を使い、金で人足を集め、監視所を抜けた。白鹿の外で動ける者がいるのは確かだ」
「名前は出せない」
「今はな」
ケインは古い紙束から手を離した。
「……記録の話ではなくなったな」
声は大きくなかった。
それでも、部屋にいた全員に届いた。
ガイが壁から背を離した。
「ウォーカー家へ行くか」
「行く」
ケインは答えた。
「だが、館も空にしない。ガイ、外を見ろ。相手が今すぐ知っているとは限らん。だが、こちらが動けば、町の口は動く」
「了解」
「監視所へも使いを出せ。ダンには、今夜の記録を封じさせろ。誰が見たか、誰が写しを取ったかも控えろ」
「そっちはミレイに走らせる」
「頼む」
ケインは、伝令の若い探索者へ目を向けた。
「ローワンの捜索は切るな」
その名が出た時、若い探索者の顔が強張った。
ケインは続けた。
「ダンジョン内、監視所、町の外れ、治療所。どこで見つかっても、俺に直接伝えろ。間違っても、ただの怪我人として扱うな」
「はい」
若い探索者が部屋を出ていく。
ガイもすぐに動いた。扉へ向かいかけて、一度だけ足を止める。
「ケイン」
「何だ」
「サイモンって男、ただの使い走りじゃないな」
「ああ」
「だが、その後ろがまだ見えん」
「見える前に騒げば、逃げられる」
ガイは短く息を吐いた。
「だから俺を外へ出すわけか」
「他に誰がいる」
「人使いが荒いな」
「今さらだ」
ガイは今度こそ部屋を出ていった。
ケインは一人、机の前に残った。
古い記録の横に、白鹿の帰還記録が開かれている。
今日の欄には、すでにいくつもの名前が書かれていた。
エマ・ウォーカー。
オスカー・ウォーカー。
ニナ・クラーク。
ノル・ハーヴェイ。
救助隊。
搬送役。
その下に、まだ埋まっていない行がある。
ローワン・ウォーカー。
帰還確認の欄は、空白だった。
ケインはその空欄を見た。
紙の上の何も書かれていない場所が、ダンジョンの暗い穴のように見えた。
遠くで、館の鐘が一度だけ鳴った。
夜の記録を締めるための音だった。
けれど、その行だけは、まだ閉じられなかった。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




