第62話 残ったもの
ダンジョンに潜る人たちの話です。
ライト文芸寄りのダークファンタジーです。
▼登場人物
エマ・ウォーカー 本小説の主人公
オスカー・ウォーカー エマの弟
ローワン・ウォーカー エマとオスカーの父 長らく行方が分からなかった
マルタ・リード 治療師 エマに治療を教える
オルブライト・ケイン 白鹿のギルド長
ノル・ハーヴェイ 白鹿の探索隊長の一人
ニナ・クラーク 白鹿のギルド所属の前衛 エマの仲間
▼主人公について
白鹿のギルドで働く二十歳前後のサポーター。
元前衛だが、今は救護、素材回収、物資管理、食料と水の配分、退路確認などを担い、探索隊を生きて帰すために働いている。
あらすじ
白鹿の一行は、オスカーを担架に乗せてダンジョンを出る。監視所では、ダンがオスカーの帰還とローワンの行方不明を記録し、ガイたちはローワンの捜索へ戻った。エマはニナと共にオスカーを家へ運び、寝台へ寝かせる。濁ったままの豆の水と、椅子の横へ戻された杖だけが残り、エマは冷たくなったオスカーの手を離せずにいた。
扉の外には、白鹿の者が二人立っていた。
ひとりは若い探索者だった。鎧の留め具を急いで締めた跡があり、肩に掛けた外套の端が少し曲がっている。もうひとりは、館の出入りで何度か見たことのある支援係の男だった。どちらも、家の中を覗こうとはしなかった。
ニナが戸口に立つと、若い探索者は声を落とした。
「ノルさんに言われました。家の前を空けるな、と」
「中へは入らないでください」
ニナはすぐに言った。
若い探索者は一瞬だけ迷った顔をした。けれど、すぐに頷いた。
「ここにいます。声があれば、すぐ入ります」
支援係の男が続けた。
「マルタさんは、急患の処置が終わり次第こちらへ向かうそうです。白鹿へも伝わっています。リディアさんには、まだ――」
言いかけて、男は口を閉じた。
家の中の静けさが、戸口まで漏れていたのだろう。
ニナは頷いた。
「ありがとうございます。今は、少しだけ待ってください」
「ニナさんも、中で無理をしないようにと」
「分かっています」
そう答えた声が、自分でも少し硬いと思った。
若い探索者は何か言いたそうにしたが、結局、戸口から一歩下がった。外の灯りが揺れる。夜風が入りかけて、ニナはそっと扉を閉めた。
家の中は、さっきよりも狭くなっていた。
灯りは一つだけだった。寝台のそばに置かれている。火は小さい。大きくすれば部屋の隅まで見える。けれど、今は見えなくていいものまで見えてしまう気がした。
エマは寝台の横に座ったままだった。
オスカーの手を包むように握っている。顔は下を向いている。泣いてはいない。叫んでもいない。そのことが、ニナにはかえって怖かった。
台所の端では、豆が水に浸かったまま置かれていた。水は濁り、表面に小さな泡が浮いている。灯りの届き方で、白っぽく見えたり、灰色に見えたりした。
オスカーの椅子の横には、杖が立てかけてある。
ニナが置いたものだった。
けれど、そこにあると、まるでオスカーが少し席を外しているだけのように見えた。台所へ行っている。棚から布を出している。鍋を見ている。すぐ戻ってきて、柄の革がめくれていることに気づき、眉を寄せる。
そう見えそうになって、ニナは視線を外した。
「外に、白鹿の人がいます」
ニナは言った。
エマは答えなかった。
聞こえていないわけではない。手の指が、ほんの少しだけ動いた。
ニナは続けた。
「マルタさんは、急患の処置が終わったら来るそうです。外の人たちは、家の前で待っています」
「……ノルさんは」
エマの声は低かった。
「白鹿へ戻ったそうです。ケインさんに話すために。ガイさんとミレイさんも一緒だって」
「ローワンは」
ニナはすぐに答えられなかった。
エマは顔を上げない。
「まだ、見つかっていません」
ニナは言った。
エマの指が、オスカーの手を少しだけ包み直した。
「そう」
短い返事だった。
それきり、エマは黙った。
ニナは棚のそばへ行き、清潔な布を一枚取った。さっき渡した布は、もう灰色に汚れている。石粉と、乾いた血と、水の跡。エマはそれを畳もうとして、途中でやめていた。
「布、替えます」
ニナは言った。
エマは頷いた。
ニナは水を汲み、布を湿らせた。絞る時、左腕に鈍い痛みが走った。指先が少し遅れる。けれど、布は落とさなかった。
エマに渡すと、エマはそれを受け取った。
「腕、まだ痛い?」
「痛いです」
ニナは正直に答えた。
「でも、布くらいなら絞れます」
エマは、ほんの少しだけニナを見た。
責める目ではなかった。心配する目でも、いつものように状態を見る目でもなかった。ただ、ニナがそこにいることを確かめたような目だった。
「無理なら言って」
「言います」
「言わなかったら」
「その時は、ちゃんと怒ってください」
言ってから、ニナはしまったと思った。
ちゃんと。
あとで、と言わなかったつもりだった。けれど、その先に続く時間があるような言葉になってしまった。
エマは怒らなかった。笑いもしなかった。ただ、オスカーの額へ布を当てた。
白い粉が、また少し取れた。
髪の生え際。こめかみ。頬の端。
エマの手つきは丁寧だった。丁寧すぎるほどだった。傷の近くでは動きが遅くなり、布を当てるだけで止まる。痛むはずがないと分かっているのに、痛ませないようにしている。
ニナは、それを見ていられなくなりかけた。
けれど、目を逸らす方が失礼な気がして、手元だけを見た。
オスカーの服には、白い石粉が入り込んでいた。襟元にも、縫い目にも、袖口にも。家で何度も洗われた布の上に、ダンジョンの粉が残っている。
エマは袖を拭き、手首を拭いた。
指を一本ずつ、包むようにして拭く。
全部は落とさない。
爪の間に入り込んだ粉は、そのまま残した。杖を握っていた汚れも、強く擦らなかった。
「そこ、まだ粉が残っています」
ニナが小さく言った。
エマは首を振った。
「いい」
「でも」
「残しておく」
その言い方に、ニナは何も言えなくなった。
落とすものと、残すもの。
エマは、それを一つずつ選んでいた。
外で、低い声がした。
家の前に立っている護衛たちの声だ。内容までは聞こえない。けれど、誰かが走ってきたのか、靴音が一度だけ止まり、また離れていった。
外では、白鹿の誰かが走っている。
遠くの館にも、まだ灯りが残っているはずだった。
それでも、この家の中には、まだ誰も入ってこなかった。
入ってこないでほしいと思っている自分に、ニナは気づいた。
入ってきたら、今のエマは壊れる。
そう思った。
「ニナ」
エマが呼んだ。
「はい」
「服、少しだけ整えたい」
ニナは寝台へ近づいた。
「手伝います」
「いい。見てて」
「見ています」
エマはオスカーの襟元へ手を伸ばした。
血のついた布は、搬送の時に巻かれている。傷そのものは見えないようにしてある。けれど、服の内側には白い粉がたまっていた。細かな石粉が、布の折り目に入り込んでいる。
エマは襟の端を少し開いた。
そこで、手が止まった。
ニナはその変化に気づいた。
大きな動きではない。肩が跳ねたわけでもない。声が漏れたわけでもない。ただ、エマの指が布の端をつまんだまま動かなくなった。
「エマさん?」
エマは答えなかった。
襟元の内側に、紐が見えた。
細い祈り紐だった。
オスカーのものだ。
ダンジョンから戻る道で、ニナはそれを見ていなかった。オスカーの胸元は布で覆われ、エマもそこに触れなかった。担架の上では、ただ布を押さえていた。
今、家の灯りの下で、その紐が見えていた。
結び目は少し歪んでいる。強く握られたのか、紐の一部が服の布に押しつけられていた。石粉が絡み、色がくすんでいる。
エマの指が、紐のそばへ入った。
何か硬いものに触れた。
小さな音がした。
布の内側で、こつ、と。
ニナは思わず一歩近づいた。
「何か、ありましたか」
エマは手を引かなかった。むしろ、指先でそれを包んだ。
ゆっくりと取り出す。小さな白い石だった。
灯りを受けても、きれいには光らなかった。白いのに、明るくない。骨の欠片のようで、乾いた月の破片のようで、見ていると目の奥がざらつく。
ニナは息を呑みかけた。
けれど、声にはならなかった。
その石を見た瞬間、エマの顔から色が引いた。
「……なんで」
つぶやきは、ニナに向けたものではなかった。
エマは石を見ていた。
見ているというより、石の向こうにある何かを思い出しているようだった。
白い通路。
オスカーの胸元で重く沈んでいた祈り紐。
ローワンが言った、白い石に近づけば知らせるという言葉。
サイモンの静かな声。
まだ、諦めるには早いのでは。
ばらばらの断片が、エマの中で音を立てずにつながっていく。
これだ。
そう思った。
声にはしなかった。声にすれば、誰かが振り向く。
振り向かれたら、これはもうオスカーの胸元には戻らない。
エマは石を握った。反射だった。
考えてからではなかった。
ニナの目が、その手を見た。
「エマさん」
声が少し変わった。
エマは顔を上げた。
「オスカーの持ち物」
「見せてください」
「あとで」
「今、手が痛そうです」
エマの指は白くなっていた。
ニナは、それしか言えなかった。石のことは分からない。ただ、エマが何かを握り潰すようにしていることだけは分かる。
「少し、手を開いてください。落としたら困ります」
「落とさない」
「そういう意味じゃなくて」
ニナは言いかけて、止めた。
どう言えばいいのか分からなかった。
見せてください、と言えば取り上げるように聞こえる。隠さないでください、と言えば、隠していると決めつけることになる。
今のエマに、それを言っていいのか分からない。
エマは手を閉じたまま、膝の上へ下ろした。
「ニナ」
声は静かだった。
その静けさに、ニナの背筋が冷えた。
「お願いがある」
ニナはすぐには返事をしなかった。
頼まれる前から、嫌な予感がした。
「リディアさんを呼んできて」
「リディアさんを?」
「オスカーを、整えたい」
エマは寝台の上へ視線を落とした。
「このままにしたくない。マルタさんは急患で遅れるんでしょ。リディアさんなら、布のかけ方も、白魔法の後に触っていいところも分かる。どうすればいいか、聞きたい」
言葉は整っていた。整いすぎていた。
ニナは首を振りそうになった。
「外の人に行ってもらいます」
「外の人に頼んだら、家の中まで人が増える」
エマは言った。
その声には、棘がなかった。
「オスカーを、これ以上知らない人に見せたくない」
ニナの口が止まった。
それを言われると、すぐには押し返せなかった。
オスカーは、もう十分に見られた。帳面に名を書かれ、担架で運ばれ、灯りの下で帰還を記録された。家の中くらい、家族の場所にしておきたい。
それは、ニナにも分かってしまった。
「ニナが行って」
エマは、ほんの少しだけ言い直した。
「リディアさんなら、ニナが言えば来てくれる。お願い。あなたから言って」
ニナは戸口の方を見た。
外には護衛がいる。呼べばすぐ入る距離だ。自分が走れば、白鹿まではそう遠くない。リディアなら、来てくれる。来てくれるはずだ。
それでも、足が動かなかった。
「服は、私が戻ってから一緒にやります」
ニナは言った。
「顔と手だけにしてください」
エマは少しだけ黙った。
その沈黙が、ニナには痛かった。
「分かった」
エマは答えた。
「顔と手だけ」
「灯りは消さないでください」
「消さない」
「戸口の人には、そこにいてもらいます」
「うん」
「戻ったら、私が先に入ります」
「うん」
エマは頷いた。返事は、きちんとしていた。
きちんとしすぎていた。
ニナは、信じたかった。信じるしかなかった。
ニナは戸口へ向かった。途中で、オスカーの椅子の横を通る。杖が、灯りの影で細く伸びている。
柄の革がめくれていた。
直した方がいい。そう思った。けれど、触れなかった。
オスカーが直す。
さっきのエマの言葉が、まだ家の中に残っていた。
ニナは扉を開けた。
外の冷たい空気が入る。護衛の二人がすぐに振り向いた。
「リディアさんを呼びに行きます」
ニナは言った。
若い探索者が眉を寄せる。
「なら、俺が」
「私が行きます。エマさんが、直接伝えてほしいと」
「中は」
「戸口にいてください。勝手に入らないで。でも、声がしたらすぐ入ってください」
自分で言いながら、その頼み方が矛盾していると思った。
入らないで。
でも、すぐ入って。
若い探索者は、その矛盾を責めなかった。
「分かりました」
支援係の男が扉のそばに立ち直る。
「俺たちはここにいます。離れません」
「お願いします」
ニナは一度だけ振り返った。
エマは寝台の横に座っていた。灯りのそばで、オスカーの顔へ布を当てている。
何も変わっていないように見えた。
けれど、ニナには見えなかった。エマの膝の上で、右手だけが閉じられていることを。
その中に、小さな白い石が残っていることを。
ニナは扉を閉めた。
木の扉が、静かに音を立てる。家の中に、また灯り一つ分の静けさが戻った。
エマはしばらく動かなかった。
外で、ニナの足音が遠ざかっていく。護衛の靴音が戸口の前に残る。
台所の端で、豆の水が濁っている。椅子の横で、杖が倒れずに立っている。
オスカーの胸元には、祈り紐だけが残っていた。
エマは、閉じていた手を少しだけ開いた。白い石は、手のひらの中で軽かった。
その軽さが、いちばん嫌だった。
「オスカー」
名前を呼んだ。
返事はない。
エマは石を握り直した。
灯りの火が小さく揺れ、台所の端で、豆の水だけが濁っていた。
本作品は未完成な部分や表現に納得できない箇所が随所にあります。なので、随時修正します。
シナリオや展開を変えるつもりはありません。
ご容赦ください。




